源氏三代の五輪塔

源氏三代の五輪塔は、和歌山県高野山西室院にある。
花崗岩製の五輪塔で、源氏三代(頼朝、頼家、実朝)の供養塔との伝承がある。
木下浩良氏によると、銘文は無いが、その形態によって鎌倉時代初期のものと判断されるという。
その時代判定の根拠は、平安時代後期の中世墳墓を描いたとされる「餓鬼草子」にある五輪塔と酷似しているからである。
その五輪塔は地輪の高さは低く、水輪が大きな球形となり、全体に安定感のある五輪塔で、当地の供養塔と同様の共通点が見られる。

寛政8年(1796)に描かれた高野山古絵図には、「頼朝公、頼家公、実朝公、二位尼」と記した4基の五輪塔が描かれているが、現在は3基となっている。

明治28年初版の「高野のしほり」には、「鎌倉三代墓」として紹介されている。
実朝の侍臣 葛山五郎藤原景倫(かげとも)が、入宋の命を受けて、紀伊の国 由良の湊に居た時、承久元年(1219)正月27日の鶴が岡の変(実朝暗殺事件)を聞いて、同年3月に発心して高野山に登った。
和泉入道前司隆行(ぜんしたかゆき)法名覺蓮、伊藤八郎時門(ときかど)入道法名常光、筑後入道西入等が、実朝公の遺骨を奉じて登山し、景倫は名を願性と改め、貞暁上人に謀ってこの石碑を建立して専心菩提を弔った。
二位尼(北条政子)はそのことを聞いて景倫を由良の地頭職として、住山の資料として、追善供養をさせるとともに、貞暁とともに禅定院を修造して、金剛三昧院とした。

日野西眞定氏校訂「新挍 高野春秋編年輯録」巻第八の承久元年の条には、上記景倫の記事の後に、次のように記されている。
(貞暁)上人三代将軍御追悼之三石塔を立てる也

貞暁(1186-1231)は、源頼朝の三男で、母は藤原時長の娘(大進局)である。
仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)に師事し、仁和寺七世の道法(どうほう)法親王(後高野御室)に伝法灌頂を受けて、勝宝院、華蔵院(けぞういん)を配領された。
法名は能寛(のうかん)と呼ばれていたが、後に貞暁と改めた。その後 行勝上人に学ぶため高野山に入り、寛喜3年46歳で亡くなった。
高野山では、鎌倉法印、千阿弥陀、高野法印、三位僧都、土砂阿闍梨とも称されたという。
源頼家の死後、北条政子が貞暁と面会し、将軍家を継ぐかどうか聞いたところ、持っていた刀で自らの眼をえぐりぬいて武士となるつもりはないとの決心を示したため、政子も貞暁に帰依したといわれる。
貞暁は、貞応2年(1223)政子の援助で寂靜院を建立し、幕府もこの寂靜院と貞暁を頼朝の血を引く「鎌倉法印」と敬い手厚く保護した。



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