濱口梧陵銅像

濱口梧陵銅像は、和歌山県広川町耐久中学校内にある。
濱口梧陵(1820-1885)は、文政3年広村(現在の広川町)で、分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継いだ。
安政元年(1854)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲った。
梧陵は、稲むら(ススキという稲束を重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させた。
津波の後、梧陵は被災者用の小屋の建設、農機具、漁業道具の配給をはじめ、各方面で復旧作業に当たり、広村堤防を築いて、後の津波による被害を最小限に抑えた。
また近郷の子弟の教育の場として、嘉永5年(1852)に濱口東江、岩崎明岳と稽古場(耐久舎の前身)を開いた。
この私塾は、後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校となっている。
明治4年(1871)に大久保利通の命を受けて駅逓頭(のちの郵政大臣に相当)に就任し、明治12年(1879)には和歌山県議会初代議長に就任した。
濱口梧陵の救出劇は、明治30年(1897)に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって小説「生ける神(生神)」(A LIVING GOD)で世界に紹介された。
八雲は、日本の神と村の相互扶助について説明した後、浜口五兵衛(梧陵)の稲むらの火と、「浜口大明神」として存命中からから村人たちに慕われたエピソードを紹介している。
昭和12年発行の小学校国語読本巻十(五年生用)で、「稲むらの火」として功績が紹介された。
かつて濱口梧陵の銅像は生誕100年に当たる大正9年(1920)、旧和歌山県会議事堂前に建てられたが、戦争により供出された。
当地の銅像は、昭和42年(1967)に「濱口梧陵翁銅像建設委員会」により、町民の寄付金などをもとに建立された。
JR紀勢本線湯浅駅下車、徒歩20分。


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