橋本市内万葉歌碑巡り

隅田駅

隅田駅は、和歌山県橋本市芋生にあるJR西日本和歌山線の駅である。
明治31年(1898)4月11日紀和鉄道の五条、橋本間で開業した際に設置された。
駅舎と待合室には、隅田中学美術部員が絵を描いている。(2011年)
駅前には、次の万葉歌碑がある。
   亦土山 暮越行而 廬前乃 角太河原爾 独可毛将宿 萬葉三 弁基 

亦土山(まつちやま)夕越え行きて 廬前(いほさき)の 隅田(すみだ)河原に ひとりかも寝む 万葉集 巻3-298 弁基 
(意味)亦土山を夕方に越えて行って、廬前の隅田の河原に独り寝ることであろうか。

弁基(春日倉老(かすがのくらのおゆ))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての僧、貴族、歌人である。
大宝元年(701)に還俗して、春日倉首の氏姓と、老の名を与えられた。
万葉集に、弁基として1首、春日倉首老の名で7首、の計8首が入集している。

紀の川河口から60㎞の地点で、わかやまサイクリングマップの案内と、紀の川サイクリングロードのスタート、ゴール案内の石柱がある。






笠朝臣金村 万葉歌碑

笠朝臣金村 万葉歌碑は、和歌山県橋本市隅田にある。
平成10年11月23日に橋本万葉まつり実行委員会により建立された石碑(井関潤石氏揮毫)には、次のように刻されている。

     笠朝臣金村作歌
大君の 行幸のまにま もののふの
八十伴のをと 出でゆきし 愛し夫は
天飛ぶや 軽の路より 玉襷
畝火を見つつ あさもよし
紀路に入り立ち 真土山 超ゆらむ君は
黄葉(もみじば)の 散り飛ぶ見つつ 親(むつま)しく
われは思はず 草枕 旅をよろしと
思ひつつ 君にあらむと あそそには
かつは知れども しかすがに
黙然(もだ)も得あらねば わが背子が
行きのまにまに 追はむとは
千たび思へど 手弱女(たおやめ)の
わが身にしあれば 道守の 問はむ答を
言ひ遣らむ すべ知らにと
立ちてつまづく
            井関潤石
        万葉集 巻四ノ五四三

(意味)
天皇の行幸につき従って、数多くの大宮人たちと一緒に出かけて行った、ひときわ端正な私の夫は、
軽の道から畝傍山を見ながら紀伊の道に足を踏み入れ、真土山を越えてもう山向こうに入っただろうが、
その背の君は山の紅葉を散り乱れるのを眺めながら、慣れ親しんだ私のことなどは思うても下さらないで、
旅に出ている方が良いと思っていると薄々気づいてはいるけれども、それでもじっとしてはいられないので、
あの方の行った道筋どおりに、私もあとを追っていきたいと何度も思うのだが、
か弱い女の身であるので、関所の役人に尋ねられたらどう答えたら良いか、言い訳する手立てもわからなくて、
立ちすくんでためらってしまう。

「続日本紀」に、神亀元年(724)の10月5日から23日まで、聖武天皇の紀伊の国和歌の浦への行幸があった事が記されている。
当地歌碑の長歌は、その時、従駕(おおみとも)の人に贈るために、宮廷歌人の笠朝臣金村が、大和に残った、さる娘子に頼まれて作った歌である。


真土山万葉歌碑(万葉古道沿い)

真土山万葉歌碑(万葉古道沿い)は、和歌山県橋本市真土の飛び越え石に至る古道沿いにある。
隅田駅から飛び越え石に至る万葉古道沿いに、隅田駅前歌碑笠朝臣金村歌碑、石上歌碑、橡(つるばみ)歌碑、いで吾が駒歌碑の五基の石碑が建てられている。
当地の見開きの形の石上歌碑には次のように刻されている。

   紀ノ川の万葉   犬養 孝
まつちの山越え 大和の万葉びとが紀伊国にはいる最初の峠は、紀和国境のまつち山である。
そこは、五条市の西方、和歌山県橋本市(旧伊都郡)隅田眞土とのあいだの山で、
昔は山が国境であったが、現在は山の西方、落合川(境川・眞土川)が県境となって、その間に両国橋が架けられている。

  石上乙麻呂卿配土左国之時歌
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は たわやめの まとひによりて
馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢かくみて
大君の みことかしこみ 天ざかる 夷(ひな)へに退(まか)る
古衣(ふるころも) 又打山(まつちやま)ゆ 還り来ぬかも
                                    (巻六 - 一〇一九)

(意味)
石上乙麻呂卿が土佐の国に配(なが)される時の歌
石上布留の御前は、たわやかな女子(おなご)の色香に迷ったために、
馬のように縄をかけられ、鹿や猪のように弓矢で囲まれて、
天子の命令を畏まって、遠い田舎に流されていく。
古衣をまた打つという真土山のあたりから、引き返してこないものだろうか。

石上朝臣乙麻呂(?-750)は、奈良時代の貴族で左大臣 石川麻呂の第3子である。
わが国最古の公開図書館 芸亭(うんてい)を開設した石上宅嗣(やかつぐ)の父。
天平11年(739) 藤原宇合の未亡人 久米若売(くめのわかめ)と密通した罪で土佐に配流となった。
その後、大赦で都に戻り、天平勝宝2年(750)従三位中納言兼中務卿で没した。
才能すぐれ、風采典雅な人物であったと記され、懐風藻に詩4首が残されている。

右側の副碑には、次のように記されている。
     真土の万葉歌碑
第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く
橋本の万葉が受け継がれる事を祈り
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 
文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の
著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻し
ここ万葉のふるさとにこれを建つ
  二〇〇〇年十一月二十三日 
   橋本万葉の会

赤御影石製の橡歌碑には、次のように刻されている。
(上面)
  橡之 衣解洗 又打山 
   古人尓者 猶不如家利
(前面)
                 作者不詳
  橡(つるばみ)の 衣解き洗ひ 眞土山
   本(もと)つ人には なお如かずけり
          万葉集 巻十二-三〇〇九

(解説)
上代では、つるばみ(クヌギ)の実のカサから出る煎汁を使って衣服を染めた。
染汁そのままで染めると薄い黄褐色となり、つぎに灰汁や鉄などを使うと黒褐色や墨色ともなって、庶民の着るいろいろな衣服を染めることが出来た。
橡染めの地味な着物を解いて洗ってまた打つという、真土山の名のような本つ人(もとつひと)、本妻にはやっぱり及ばないよ。




石上朝臣乙麻呂和歌

奈良万葉文化館の万葉百科には、歌碑 ID 1718で次の万葉歌碑が紹介されていた。(2024年5月28日 ID1718 削除)
所在地 和歌山県橋本市 飛び越え石近くの林
設置者 万葉まつり実行委員会
揮毫者 犬養孝
設置年 平成12年
内 容  父君に我は愛子ぞ母刀自に我は愛子ぞ参上る八十氏人の手向する恐の坂に幣奉り我はぞ追へる遠き土左道を 巻6-1022

(意味)
父君にとって私はかけがえのない子だ。母君にとって私はかけがえのない子だ。
なのに都に上るもろもろの官人たちが、手向けをしては越えて行く恐ろしい国境の坂に、
幣を捧げて無事を祈りながら、私は一路進まねばならないのだ。遠い土佐への道を。


飛び越え石 神代の渡し

飛び越え石は、和歌山県橋本市と奈良県五條市の県境にある。
かつての紀伊国と大和国の境にある場所で、落合川を飛び越えるように渡ったことが名前の由来である。
万葉人が紀伊国への往還の際、故郷への郷愁と異国への思いを馳せた場所で、万葉の時代から現代まで姿を変えずに残っている全国でも珍しい場所である。
飛び越え石のすぐ上の階段横には、次の歌碑が建てられている。
(正面)乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 而速見年
    「いで吾が駒 早く行きこそ 亦打山
       待つらむ妹を 行きてこそ早見む」 作者未詳 (万葉集 巻12-3154)
    【意味】 さあわが駒よ早く行っておくれ、きっと今ごろ私を待っている妹に 早く逢いたいから。
(左面)いつしかと 待乳の山の桜花 まちてよそに 聞くが悲しき 後撰和歌集一二五六
(右面)誰にかも 宿りをとはむ待乳山 夕越いけば 逢ふ人もなし 新千載和歌集八〇七
東側には、とびこえ休憩所が作られている。
また奈良県側には、阪合部旧蹟保存会の「神代の渡し」の表示がある。






真土山

真土山は、和歌山県橋本市にある旧跡である。
真土山は、標高約120m、葛城連峰の最南端にあり、対岸に恋野の山地が迫り、その間を紀ノ川が流れる景勝の地である。
国道24号線の南側に、万葉の道、真土山の石碑がある。
各石碑には、次のように刻されている。
(表面)
万葉の道
(裏面)
旧南海道
 まつち山ゆうごえゆけばいほ崎の
  すみた川原にひとりかもねん
 昭和四十八年十月吉日 橋本市長 向井久朋

「真土山」と彫られた石碑の側面に、拾遺和歌集820の次の歌が、三行に分けて刻まれている。
こぬ人を真土乃山の郭公(ほととぎす)おなじ心に音こそなかるれ(泣けれ)
(紀州の文学碑・一二〇選 参照)

奈良からの旅では、この真土山を越えれば、あさもよし(枕詞)紀の国であり、万葉集では八首の歌が読まれている。
紀伊国名所図会に、真土山の風景が描かれている。
中央に真土山とあり、たくさんの松と桜が描かれた小山となっている。
右に大和側の「真土峠」、「真土川」(落合川)とあり、現在の極楽寺は「薬師」となっている。
上欄には歌が書かれている。
江戸時代の国学者で、松坂の本居宣長、養子の大平の作品である。

多ひなれハ 多れ加者王を 満川ちやま ゆふこえゆきて や登者とふとも
(旅なれば 誰かは我を 真土山 夕越え行きて 宿は問うとも)
雪と見亭 釣やな川まむ 白妙尓 尓保ふ 真土の 山さくら者那
(雪とみて 釣やなつまん 白妙に におう 真土の 山さくら花)
紀州より大和国尓修行せしみぎり 両国のさ可ひ真土山尓てよミ侍(はべ)る
きのく尓の さ可ひをしらハ 真土山 よしの川登も これよりそいふ  遊行地阿

本居宣長は、享和8年(1800年)から2年間、紀州藩を訪れ、紀伊国名所図会の執筆者、伊達千広や加納諸平、紀伊続風土記の仁井田好古等に国学の講義をしている。


真土の万葉歌碑(国道24号線沿い)

真土の万葉歌碑(国道24号線沿い)は、和歌山県橋本市にある。

橋本市浄水場入口の万葉歌碑には、次のように刻されている。
    紀ノ川の万葉  犬養孝
 こんにちは、国道二四号線が山の北側を通り、鉄道が南側の山裾の川べりを通っているが、
古代は川べりを避けて、現、国道より南の低い、川ぞいの丘辺を越えていた。
峠の上は、東方は五條一帯の吉野川の広い流域を望み、一方西方には紀ノ川(和歌山県にはいると吉野川は紀ノ川と呼ばれる)の明るい河谷を望む。
紀路にあこがれる旅人のエキゾチシズムを刺激するのは当然のことであろう。

あさもよし 紀へゆく君が 信土(まつち)山
越ゆらむ今日そ 雨な降りそね
       -作者未詳- (巻九 - 一六八〇)

(意味)
紀伊の国に向けて旅立たれたあの方が、今日、信土山を越えていることだろう。
雨よ降らないでおくれ。

副碑には次のように刻されている。
  真土の万葉歌碑
第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く
橋本の万葉が受け継がれる事を祈り
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 
文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の
著書「紀ノ川の万葉」より その遺墨を刻し
ここ万葉のふるさとに これを建つ
  二〇〇〇年十一月二十三日 
   橋本万葉の会

上記歌碑の東側 国道を挟んだ向かい側の調首淡海(つきのおびとおうみ)の歌碑には、次のように刻されている。

朝毛吉 木人乏母 亦打山
行来跡見良武 樹人友師母
                   孝書

文武天皇大宝元年 紀伊牟婁の湯行幸の途次 調首淡海の作れる歌
あさもよし 紀人ともしも まつち山 
  行き来と見らむ 紀人ともしも
                      萬葉集巻第一
(意味 紀伊の国の人は羨ましいな。亦打山を行き帰りに見るという紀伊の人は羨ましいな。)

国際ロータリー創立七十五周年
橋本ロータリークラブ創立二十五周年
の記念事業として 萬葉歌碑の揮毫を
大阪大学名誉教授文学博士犬養孝先生に依嘱し 郷土のためこれを建つ
昭和五十五年十一月九日
  橋本ロータリークラブ

村瀬憲夫氏は、「万葉の歌9 和歌山」において、枕詞「あさもよし」について考察し、調淡海のこの歌が、柿本人麻呂の歌をもとにして「あさもよし」を使ったとしている。


妻の杜

妻の杜は、和歌山県橋本市にある。
この森は、東 中 西と3か所あり、西の森の場所に万葉歌碑が建てられている。

西の森

大宝元年(701年)辛丑十月大太上天皇(持統天皇)文武天皇の紀伊国に幸し時坂上忌寸人長(さかのうえいみひとおさ)の作れる歌

 紀の国に 止まず通わむ 妻の杜
  妻寄しこせね 妻といひながら
     或云(こくうん) 坂上忌寸人長(さかのうえのいみきひとおさ)(巻九 一六七九)

原文 城国尓 不止将往来 妻杜 妻依来西尼 妻常言長柄

紀の国へは 度々通うことにしよう
そこには妻の神のいる森がある その名の通りならきっと妻を授けてくれるだろう どうか私にも良い妻を

この歌は大宝元年(701)の持統、文武両帝の紀伊国、紀の温湯(きのゆ)(白浜温泉)行幸の際に、その従者の一人が詠んだものである。
妻を迎えたいという願う気持ちを、地名にかけてうたっている。
この歌で詠まれている「妻の杜」は、和歌山市平尾の都麻都比賣神社とみる説や、和歌山市和佐関戸の妻御前社の跡と見る説、その他があるが、犬養孝氏の「紀の川の万葉」によると、「南海道に沿う橋本の妻ではなかろうか。」と記している。

南海高野線及びJR和歌山線橋本駅下車、徒歩10分。



中の森と九品山阿弥陀寺



東の森






橋本駅前万葉歌碑

橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。

白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
 わが馬なづむ 家恋ふらしも  作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。

右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
 2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会

紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。





大我野万葉歌碑

大我野万葉歌碑は、和歌山県橋本市市脇の橋本中央中学敷地内にある。
平成4年(1992)に建立されたもので、紀州自然石の碑面には、次のように刻されている。

山跡庭
 聞往歟
大我野之
竹葉苅敷
廬為有跡者
    孝書

(解説)
大和には 聞こえも行くか 大我野の 竹葉刈り敷き 廬(いほ)りせりとは  (巻九 - 一六七七)作者不詳
大和には風の便りに聞こえて行ってくれないものか。大我野の竹の葉を刈り敷いて仮寝をしていると。

歌碑西側には、副碑が建立され次のように刻されている。
橋本市東家しんし会創立二十五周年の記念事業として、万葉歌碑の揮毫を
大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授、文化功労者、文学博士 犬養 孝先生に依嘱し郷土のためにこれを建つ。
   平成四年三月十五日
   しんし会

南海高野線及びJR和歌山線橋本駅下車、徒歩20分。




紀の国への行幸

万葉時代紀の国への行幸は、4度行われている。
(村瀬憲夫氏「万葉の歌9 和歌山」参照)

回数  名称 年次   西暦 万葉歌 
 1 斉明天皇紀伊国行幸   斉明天皇4年 658年   
 2 持統天皇紀伊国行幸   持統天皇4年 690年   
 3 持統太上天皇
文武天皇紀伊国行幸 
 大宝元年 701年  巻1-55
巻9-1677
巻9-1679
巻9-1680 
 4 聖武天皇紀伊国行幸   神亀元年 724年  巻4-543 


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