大和郡山藩 本多政勝供養塔は、和歌山県高野山奥の院30町石北西にある。
崇源院供養塔(一番石塔)に登る参道左手にあり、奥には政勝の長男 本多勝行供養塔がある。
また、約60m西にある播州姫路本多家供養塔には、本多政勝の母と夫人の供養塔がある。
当地五輪塔の地輪には次のように刻されている。
大和國郡山城主藤原姓本多氏
拾遺補闕内記政勝稚號道永大
居士生於上總大多喜没於武蔵
江戸年五十八實寛文十一年辛
亥十月大盡日也
長徳院殿前拾遺泰譽
(梵字)
迎和道永大居士神儀
寛文十二年壬子二月晦日
孝子本多出雲守政利建之
本多政勝(1614-1671)は、慶長19年に上総大喜多藩主 本多忠朝の子として生まれた。
従兄(いとこ)の政朝が本家の播磨姫路藩15万石を継いだ際に、旧領のうち4万石を分与され、姫路城内に住んだ。
寛永15年養父政朝の遺言により、姫路藩主本多家第1次3代を継ぎ、翌年には松平忠明と入れ替わりで、大和郡山に入封された。
寛政重修諸家譜によると、本多政勝は58歳で亡くなり、泰譽迎和道永長徳院と号した。
郡山の良玄寺に於いて火葬し、遺骨を紀伊國高野山に葬ったという。
当地の五輪塔は、長男の勝行が16歳で死去したため、次男の本多政利が建立した。
奈良県葛城市には、延宝2年(1674年)に、郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主本多政勝の菩提を弔うために「影堂(えいどう)」「位牌堂」として建立した傘堂がある。
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