備前岡山藩主 池田忠継供養塔は、和歌山県高野山奥の院33町石北にある。
織田信長墓所の南側約15mのところに単独で218cm(7尺2寸)の五輪塔がある。→ 織田信長墓所周辺の石塔
五輪塔地輪には、次のように刻されている。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)
元和元乙卯二月廿三日
龍峯寺殿前拾遺
(梵字)
雲臺元祥大居士
御施主備前松平宮内少輔忠雄
為左衛門督忠繼公
池田(松平)忠継(1599-1615)は、慶長4年2月18日伏見で生まれた。父は播磨姫路藩主 池田輝政、母は徳川家康の娘 督姫富子(良正院)である。
家康の寵愛が篤く、慶長8年5歳で備前一国28万石を下賜され、岡山藩主初代となった。幼少のため異母兄 池田利隆が備前監国として岡山城に入って藩政を代行した。
慶長18年1月父輝政が没したため、利隆が姫路藩主となり、忠継は正式に岡山藩主となって、従四位下侍従に叙任された。
この時に、播磨国宍粟、赤穂、佐用三郡内で10万石を与えられ、38万石を領した。
しかし、在任3年後の元和元年(1615)2月5日、生母督姫が疱瘡にかかって没し、忠継も疱瘡にかかり2月23日に17歳で没した。
巷説によると、生母督姫が夫輝政の遺領のすべてを実子 忠継、忠雄(ただかつ)に相続させようと思い、元和元年2月5日、利隆に毒饅頭を進めたところ、
給仕の女中が掌に毒の文字を書いて知らせたので、利隆は食べず、事情を察した忠継が奪って食して23日に死亡し、督姫も自ら食し、その日のうちに死亡したといわれる。
当地の五輪塔建立者の「備前松平宮内少輔忠雄」は、忠継の弟 池田忠雄で、兄の没後岡山藩二代藩主となった。
池田忠継と忠雄の墓所(廟)は、岡山市の清泰院(清泰院は忠雄の法名)にある。
当所から北側約15mにある筒井順慶供養塔の北隣には、忠継の父 播磨姫路藩主 池田輝政の供養塔がある。
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