石田三成墓所は、和歌山県高野山の奥の院24町石南西にある。
当地の墓所には、総高267cmの砂岩製五輪塔が建てられている。
五輪塔地輪の銘文は、天正十八庚寅 宗應 逆修 三月十八日 と記されている。
天正18年(1590)は石田三成30歳の時で、銘文通りであれば、石田三成生存中に造立されたものである。(石塔の形式は近世のものといわれる。)
石田三成(1560-1600)は、安土桃山時代の武将で、近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市)出身である。
幼名は佐吉、初名は三也である。
豊臣秀吉の長浜城主時代にその才を認められ、近侍として仕え、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、諸大夫12人に選ばれ、治部少輔(じぶしょう)に任ぜられた。
文禄4年(1595)には近江佐和山城主となり、19万石を領した。
慶長5年(1600)9月関ヶ原の戦いで敗れ、10月1日京都六条河原で処刑された。
石田三成は、奥の院弘法大師御廟東側に、母の菩提を弔うために経蔵を建立している。→ 大徳寺塔頭三玄院