情緒の道 ウォーク
沓掛の古戦場は、和歌山県橋本市柱本にある。
沓掛という地名は各地にあるが、旧な坂道にさしかかる前に、履物(沓)を新しいものに換えたり、馬を休める地点であることから名付けられた。
地方によれば、古い沓を松の枝にぶら下げたりして、山の神にそなえて旅の安全を祈るという風習もあった。
沓掛の古戦場については、昭和8年12月に刊行された紀見村郷土誌には、次のように記されている。
今を去る約六十年前頃、沓掛にて両軍相戦いし事あり。敵味方何れの兵なるかは判明せざれども当時の模様を実地見耳せる植木きくの老人の話によれば、
旧正薮入りのころ紀見峠を経て南進する一隊及び之を迎え討つべく大和方面より来北せし一軍、沓掛 にて未明より戦を開始せり。
この戦に北軍敗走し、大将小笠原なる者討たれ、富田林にてさらし首になる。
その時の両軍死者約三十余名、その亡骸悉く御山の道の辺に葬れり。
思うに鳥羽伏見の戦いの敗残兵が逃げ落ちし時のことか。
古戦場の約100m下には、阿弥陀如来を祀るお堂が建てられている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩20分。
柱本地蔵堂は、和歌山県橋本市紀見峠の旧高野街道沿いにある。
堂前には、句碑が建立されており、次のように刻されている。
石一つ 残して野火の 行方かな 風たろ
紀見峠は、和歌山県と大阪府の境にある標高400mの峠である。
紀伊国と河内国の境で、高野街道の宿駅として栄えたところで、峠の旧街道脇に「高野山六里道標石」が建てられている。
また、文化勲章を受章した数学者岡潔博士(1901年-1978年)は、少年時代を含め生涯3度紀見峠に居住していたことから、「岡潔生誕の地」の石碑がある。
博士の顕彰活動に取り組む「橋本市岡潔数学WAVE」が、岡博士の散策した道を「情緒の道」と名付け、この地に博士の筆跡を写し取った文字で標柱が建てられている。
峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。これらの古碑は、南都復興のために、この地で戦死した武士や住人を祀ったものと考えられている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩約40分。
愛宕神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
紀伊見峠(紀見峠)は、江戸時代山城、河内の国と紀伊の国を結ぶ交通の要所として栄えていた。
宝暦12年(1762年)1月28日に紀伊見峠で大火があったため、火防の神として愛宕神社が祀られた。
祭神は、天照皇大神、愛宕権現、辨在天、金毘羅大権現である。
昭和15年(1940年)には、大阪、和歌山府県境にあった三本松根元で祀られていた、福島大神、龍光大神が南の小高い山上に遷された。
そのころから福島大神は腰痛の神様として信仰されている。
毎年旧初午と11月23日にお奉りが行われている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩約40分。
岡潔先生墓所は、和歌山県橋本市紀見峠にある。
岡潔(1901-1978)は、橋本市で幼少期を過ごし、大正14年(1925)京都帝国大学理学部数学科を卒業し、パリに留学した。
多変数複素解析関数論の研究を進め、多変数理論の大綱を独力で築き上げた。
1960年には文化勲章を授与され、橋本市の名誉市民になった。
墓石正面には、「春雨院梅花石月居士」、側面に「めぐり来て 梅懐しき 匂ひかな」と刻されている。
墓所から約100m南には、岡潔博士顕彰碑が建てられている。
岡潔博士顕彰碑は、和歌山県橋本市の紀見峠にある。
岡潔(1901-78)は、数学者で和歌山県紀見村で幼少期を含め、3度居住した。
大正14年(1925)京都帝国大学卒業後、広島文理科大学創設にあたり、その一員として昭和4年(1929)から3年間フランスに留学した。
多変数複素関数論の研究を進め、昭和24年(1949)奈良女子大学教授に就任、1960年には文化勲章を授与され橋本市名誉市民となっている。
当地の顕彰碑は、平成30年(2018)に没後40年を偲んで、和歌山県橋本市の橋本ロータリークラブが建立したものである。
高さ約2mの顕彰碑には、岡潔博士の「人を先にして自分を後にせよ」との文言が刻まれている。
隣の石碑には、岡潔博士のフランス語の論文と似顔絵が描かれている。
南海高野線紀見峠駅から徒歩40分。
葛城神社は、和歌山県橋本市柱本にある神社である。
祭神は、素戔嗚命で、境内社として、若宮殿と猿田彦神社がある。また飛地社として愛宕神社ほか末社四殿がある。
勧請についての詳細は不明で、古老の言い伝えによれば、正平4年(1349年)頃、戦火により旧記等ことごとく焼失したという。
当神社は、牛頭天王社とも称し、疫病神としての京都祇園社(八坂神社)が総社である。牛頭天王は、もとはインドの釈迦や弟子の僧坊である祇園精舎の守護神であった。
京都祇園社の紋が胡瓜の切り口に似ているところから、祇園さんの紋を食べるのは恐れ多いとされ、最近まで胡瓜を食べなかったと云う。
六十年毎に本殿の造営が行われ、現在の建造物は、昭和55年に、氏子によりすべての建物が寄進された。
古くから当神社を管理し守るための宮ノ講という座中による輪番で毎年元旦から1年間神主を務めて祭事を司っている。
大晦日の深夜には神主を司るものが、重さ20kgの大松明2基による道案内で、神社東側の宮川の滝壺に入り、精進潔斎の禊を行う。
「宮ノ講と葛城神社年越し行事」として、無形民俗文化財に指定されている。
また、令和2年(2020)6月19日に日本遺産に認定された「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地-」のストーリー構成文化財となっている。
境内には、橋本市指定文化財のムクロジがある。ムクロジ科の落葉高木で、6月頃淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序につけ、実(果実)は球で硬く羽子(はご)の球に使われる。
また果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とされた。漢名は、無患子、木患子。和名のムクロジは、モクゲンジの漢名「木樂子」の誤用とされている。
平成9年指定当時、高さ29.7m、胸高幹回4.2mと大きく、和歌山県の調査によると、高知県須崎市大谷の勢井白王(伊気)神社境内のものに次いで、全国2番目の規模といわれる。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。
日光山極楽寺は、和歌山県橋本市柱本にある高野山真言宗の寺院である。
紀伊西国第7番札所で、本尊は大日如来(胎蔵界)が祀られている。
紀伊西国三十三所観音巡礼は、少なくとも太平洋戦争末期まで、橋本市及び九度山町の「紀伊西国霊場会」で行われていた。
昭和8年発行の紀見村郷土誌には、次のように記されている。
「極楽寺 柱本に在り
境内除地交れり 域内本堂及び経堂あり 本尊は大日佛なり
嘗て記録等盗難にかゝりし事あり 依りて由来不詳
現住職は和田廣島樂師なり」
当寺に伝わる「鰐口」には、次の銘が彫られている。
「伊都郡谷内柱本極楽寺寛文拾庚戌夫五月吉辰日」(1670年)
この銘と上棟板に記された「元禄十六年」(1703年)「極楽寺大日堂建立」という旧本堂が建てられた年、さらに本尊大日如来横の「観世音菩薩」光背に記された「二世安楽」の銘から、当寺に住職が常住し始めたのが、寛文十年頃で、それ以前は「大日如来」を安置した無住のお堂だったと考えられている。
これは、江戸時代初期、寛文5年(1665年)に交付された「諸宗寺院法度」から5年後にあたり、各宗派の寺院がそれぞれ「本山・末寺」として整理され、地域の主な末寺にも住職が常住化した時期とも合致している。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。
長薮城跡は、和歌山県橋本市慶賀野、細川の標高347mの山の斜面にある山城跡である。
地元の人々は、この山を城山と呼んでおり、昭和51年(1976年)から造成が開始された新興住宅地は、1979年に城跡に因んで城山台と名付けられた。
紀伊続風土記の細川上村「長薮城址」の項に「村の西山上にあり、牲川(贄川)氏の城址なり」と記されており、在地武士の贄川義春が文明年間(1469-87)に築いた城とされている。
贄川義春の父左衛門頼俊は、楠正成に仕えたが、千早落城後は十津川に住んだ。
文明年間に十津川の野武士とともに伊都郡に入り、紀伊守護畠山氏の幕下となり、一万石を領して橋谷川流域の谷内郷といわれた13村の支配拠点とした。
東西600mの規模の山城で、三つの峰に「東の城」、「西の城」、「出城」という別郭(べつくるわ)を有していた。
橋本市郷土資料館に、約1300分の一の長薮城の模型(吉田亘氏制作)が展示されている。
現地には、道標等は設置されていないため、公的機関等の案内がある時にあわせて見学するのが良い。
三つの峰を回るのに、約1時間必要で、急な坂もあるため、登山靴や運動靴で行くのが望ましい。
南海高野線林間田園都市駅からバスで城山台センター下車、徒歩20分。
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期