街道歩き資料6

天野街道

天野街道は、大阪府堺市から河内長野市までを結ぶ街道である。
堺市岩室で西高野街道から分岐し、泉北丘陵(陶器山丘陵)を尾根伝いに南下し、女人高野ともいわれる天野山金剛寺へと向かう古道である。
古代には河内国と和泉国を分ける境界で、金剛寺からさらに南紀州の霊場「熊野」に通じる信仰の道として利用された。
大阪狭山市今熊から大野西までは、陶器山丘陵に残る自然の中を進む道で、平成7年に建設省(国土交通省)の「手づくり郷土賞」を受賞しており、平成9年には「大阪の道99選」に選定された。
街道からは、金剛山脈や和泉山脈の眺望を楽しむことが出来る。


天野山金剛寺

天野山金剛寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派大本山の寺院である。
寺伝では、天平年間(729-749)に、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創し、のち弘法大師が密教修行をした地と伝えられている。
その後寺は衰微したが、後白河法皇の勅願により、1170年代に高野山の阿観上人が復興した。
後白河法皇の妹八条女院は、密教の信仰が厚く、阿観上人に帰依し、真如親王筆の弘法大師像を寺域内の御影堂に安置し、
一切の行事を高野山と同様にして、女性が弘法大師と御縁を結ぶ霊場とした。
また八条女院の侍女姉妹も出家して、浄覚、覚阿として寺務を行い、女人高野として栄えた。
南北朝時代初期から南朝方の勅願所となり、1354年から1359年までは、後村上天皇の行在所となり、天野行宮と呼ばれた。
境内には、光厳、光明、崇光の三上皇が使用された「北朝三上皇御座所」がある。
承安年間(1171-1175)造営の金堂内には、本尊の木造大日如来像、脇侍の木造降三世明王坐像、木造不動明王坐像が祀られている。
広い境内は、国の史跡に指定され、長い歴史を物語る諸堂が建ち並び、周囲の自然豊かなみどりは大阪みどりの百選にも選ばれている。
南海高野線河内長野駅からバス「金剛寺前」下車すぐ。参拝者用の有料駐車場がある。



すだれ資料館

すだれ資料館は、大阪府河内長野市にある展示施設である。
この資料館は、日本で継承されてきた伝統的な製法による簾や、同じ竹文化圏である中国、韓国に伝えられた歴史的に価値のある簾の資料を収集展示することで、世界のインテリアデザインとしての普及を目指している。
展示されているのは、大割機、亀甲簾、座敷簾、御簾、韓国簾、中国簾などで、座敷簾は「大阪金剛簾」という経済産業大臣認定の伝統的工芸品である。
簾の発祥から調度品としての簾まで、わかりやすく展示されている。
南海高野線、近鉄長野線の河内長野駅から、南海バスで天野山バス停下車すぐ。
入館は完全予約制となっているため、事前に電話(0721-53-1336)、FAX、電子メール(info@sudare.com)で申し込む。



青賀原神社

青賀原神社は、大阪府河内長野市にある。
祭神は、丹生大明神、高野大明神、久爾津神、稲荷大明神である。
祭神の丹生大明神は、桓武天皇の延暦3年(784年)9月14日紀州かつらぎ天野の里からこの地に安置された。
この神は、天照大神の弟で月読之尊(つくよみのみこと)(月の神)といわれている。
弘法大師空海が、高野山開創の前に槙尾寺に向かい下里谷の茅原を通行中に、急に黒雲が舞下り天地が鳴り響いて、
道端の澤から頭九つの大蛇が出現し、火を放って空海にとびかかった。
空海は衣の袖で大蛇を振り払い、不思議な念仏を唱えると、黒雲の中から白と黒の犬を連れた身の丈八尺の狩人が現れ、矢の先が千筋に分かれる弓で大蛇を退治した。
空海が狩人にどなたかと尋ねたところ、
「我は一字金輪(いちじきんりん)(仏頂尊)なり。空海宗祖の御命を助けるため丹生大明神に化身し出現した」と答えた。
丹生大明神は、大蛇の死骸に土をかけ墓を築くと、その姿を消した。
空海はこの墓を「九頭神山(くずしんざん)」として、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたことから、この場所を南無阿弥陀仏(なばいだ)として今もその地名を残し、大蛇とともに語り継がれている。
神社創建は、平安時代後期の治承4年(1180年)4月16日と伝えられる。
記録によると、明治40年(1907年)12月26日村社青ケ原神社は高瀬にある高瀬神社とともに小山田村の住吉神社に合祀されたが、現在も神殿に氏子が参拝している。
南海電車高野線河内長野駅からバスで金剛寺前下車、徒歩45分。



穴地蔵

穴地蔵は、大阪府大阪狭山市大野西の天野街道沿いにある。
堺市、河内長野市と接する大阪狭山市の最南端に位置する石地蔵である。
花崗岩製で道標を兼ね、光背の右側に「右ハあまの道(天野道)」、左側に「左ハよつくのき道(四鉤樟道)」、下部に「北ハさかい(堺)」と刻まれている。
四鉤樟(よつくのき)とは、河内長野市楠町の地名である。楠町に真言宗の盛松寺という寺院がある。
盛松寺の寺伝によると、大同3年(808年)弘法大師が槇尾山に修行に行く途中、この地で疫病に苦しむ村民の話を聞いて祈祷をしたところ、その地に樟が生えてきた。
樟は、樟脳の原料で疫病、邪気を取り除く霊木として知られる。その後、樟は4本の枝に分かれて釣瓶を吊り下げたように繁ったので、「四鉤樟(よつるくすのき)」と呼ばれ、これが地名となった。
この地名が訛って「四鉤樟(よつくぬぎ)」「四つくの木」「四通(よつ)」「四樟(よつ)」「与通(よつ)」と称されるようになり、盛松寺は「四通(與津)のお大師さん」と呼ばれている。

穴地蔵は、目、鼻など身体中すべての穴の病気に霊験がある地蔵として、遠方からも参詣者が多く訪れている。
また近年は子宝を授かる地蔵として信仰を集めている。
南海高野線金剛駅からバスで大野口駅下車、徒歩17分。

陶邑窯跡群 陶器山2号窯

陶邑(すえむら)窯跡群 陶器山2号窯は、大阪府大阪狭山市にある。
5世紀頃、大陸から各種の新しい手工業の技術が日本に伝わり、画工、織工、通訳などが渡来した。
その中で須恵器を作る技術も伝来し、5世紀後半から10世紀まで泉北丘陵を中心に生産された。
須恵器は硬質の土器で、高温の還元炎で焼くため、灰色をしており、現代の陶磁器の源流をなすものである。
傾斜地にトンネル式の穴窯(登り窯)を築き、1000℃前後の高温で一度に大量の須恵器を焼成する。
縄文土器など集落の中で自給自足的に生産されていた土器と異なり、須恵器は専門の集団により生産され、商品として流通した。
窯は泉北丘陵一帯に900~1000基あり、かつての地名「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」(日本書紀)から、これらは陶邑窯跡群と呼ばれている。
陶器山2号窯は、丘陵の尾根に近い西向き斜面にあり、南東から北西方向へ大阪狭山市と堺市の市境をまたぐように、長さ8m以上、幅約2.5mの大きさの窯が築かれていた。
のちに天野街道が尾根上を通り、歩道として整備されていく過程で窯跡は大きく削られた。
平成23年(2011年)の発掘調査で、窯の奥壁近くの焼成床面が部分的に見つかり、蓋杯、高杯、壺、甕などの須恵器の破片が出土している。
須恵器の形式から、この窯が5世紀末頃に操業していたことが判明した。

三都神社

三都神社は、大阪府大阪狭山市にある神社である。
神社の西尾根を通り、天野山から紀州熊野に至る街道に沿っているので、熊野神社とも呼ばれている。
伝承では、7世紀の創建とされ、兵火に遭って一度は焼失するが、16世紀に諦観という僧によって再興された。
明治時代の神仏分離までは境内に金蔵寺があったといわれ、また近くにも光明院跡、西室院跡、地蔵院跡などの地名が残っていることから、現在の社殿付近から南部丘陵にかけての広い地域に伽藍と鎮守の社寺があったと考えられている。
昭和58年(1983年)の文化財調査で見つかった毘沙門天像は、鎌倉時代末期の作であることが判明した。
南海高野線金剛駅からバスで帝塚山大学前下車徒歩5分。



牛瀧地蔵尊

牛瀧地蔵尊は大阪府大阪狭山市今熊1丁目の西高野街道沿いにある。
三津屋川にかかる「ふれあいばし」と「上三津屋橋」との間にある地蔵堂で、堂内の地蔵は、慶応3年(1867年)半田村の喜助が寄進したものである。
土用の丑の日に、あるいは丑年の丑の日に、この三津屋川で足を洗い、この地蔵にお参りすると「しもやけ」や「あせも」にならず、皮膚病に御利益があると言われ「足の地蔵さん」と呼ばれて信仰されている。
4月の中旬にこの地蔵で牛のツメを切る日(牛瀧講・養生講)があり、牛瀧の祭日は、正月、5月、9月の各5日であった。
これは、牛を祀る牛神信仰によるもので、「牛神」「丑神」「牛瀧」とも言われている。
信仰対象は、牛頭天王や牛滝山の大威徳明王のような神仏の姿ではなく、、牛瀧の名を冠して牛神を祀る祠や堂が残されている。
この付近にあるおわり坂(尾張坂)は、狭山池改修工事に従事した愛知県知多半島出身の土木技術者集団「尾張衆」に因む地名だといわれている。
南海高野線金剛駅からバスで帝塚山学院大学前下車、徒歩3分。

西高野街道

西高野街道は、大阪府堺市から河内長野市で東高野街道に合流し高野山に至る参詣道である。
旧堺港(現堺市栄橋町1丁付近)を起点として、旧舳松(へのまつ)村(現堺市仁徳陵西部一帯)で竹之内街道と合流(約540m)し、仁徳陵の北で南東方向に転じて、狭山古扇状地の南側を通り、狭山池の西側を経由して河内長野に至った。
延長7里27町余で、現在の国道310号線がほぼ経路にあたる。
安政4年(1821年)に、高野山女人堂までの道標が1里(約4㎞)ごとに建てられ、現在も道標石が残っている。
狭山藩の陣屋があった現在の狭山町池尻から天王寺に通じる道を下高野街道、またその東側をほぼ並行して狭山から松原、平野を経て鶴橋、守口に至る道を中高野街道と呼んだ。
西高野街道は、瀬戸内海を舟行して堺に上陸した西国からの高野参詣客で賑わったが、明治31年(1898年)堺、河内長野間に高野鉄道(現南海高野線)が開通した後しだいに衰退した。



下高野街道

下高野街道は、大阪市四天王寺から大阪狭山市で中高野街道に合流し高野山に至る参詣道である。
下高野街道は、中高野街道と並行する形で、四天王寺南門から北田辺、南田辺、矢田、布忍神社(松原市)、河合(松原市)、野遠村(堺市)、余部(堺市)を経て、狭山池北堤付近に至り、報恩寺付近で中高野街道に合流する。
また、尾張坂の牛瀧地蔵(大阪狭山市今熊)で西高野街道と合流していたとの説もある。
南北朝期には、半田城、池尻城、野田城、大饗(おおい)城など城郭が道沿いに築かれた。

狭山池

狭山池は、大阪狭山市にある日本最古のダム式ため池である。
発掘調査の結果、築造年は616年と考えられており、2016年に築造1400年を迎える。
奈良時代には僧行基が、鎌倉時代には東大寺の僧重源が、江戸時代には片桐且元が改修を行った。
2001年に竣工した平成の大改修で、ダム化し、池の周囲は公園として整備され、市民の憩いの場となっている。
貯水量280万㎥、満水面積36ha、周遊路2.85kmで、国史跡に指定されている。
池の北側には、大阪府立狭山池博物館と大阪狭山市立郷土資料館がある。
堤防上の並木は、桜の名所として知られ、春には特に多くの市民が訪れる。
南海高野線大阪狭山市駅下車、徒歩10分。来場者用の無料駐車場がある。



狭山池博物館

大阪府立狭山池博物館は、大阪狭山市にある狭山池の土木遺産を保存展示する博物館である。
建築家安藤忠雄の設計で2001年に開館した。
狭山池の平成の大改修の際に出土した遺物を保存公開している。
水と大地と人との関わりをテーマとした、土木技術史、土地開発史の専門博物館である。
館内は、安藤忠雄設計のユニークな構造で、高さ15メートル、幅62メートルの堤や分かり易い映像等で、狭山池1400年の歴史を学ぶことが出来る。
南海高野線大阪狭山市駅下車、西へ700m。来場者用の無料駐車場がある。



大阪狭山市立郷土資料館

大阪狭山市立郷土資料館は、大阪狭山市にある郷土文化財の展示施設である。
狭山の地名の歴史は古く、日本書紀、古事記にもその名を見ることができる。
この資料館では狭山の地域の歴史と文化に関する展示がされており、
考古学者末永雅雄博士の業績、興福寺の荘園「狭山荘」、南北朝期の池尻城、江戸時代の狭山藩陣屋などの解説がある。
南海高野線大阪狭山市駅下車、西へ徒歩10分。来場者用の無料駐車場がある。



野田城址

野田城址は、堺市南野田町にある。
南野田すかしゆり公園に「南朝野田氏三代の居城 史蹟 野田城址」の石碑が建てられている。
野田城は、正中3年(1326年)に野田荘の地頭をしていた野田四郎正勝が、穂出籬山(ほでがきやま)の高台に築いた城である。
楠木軍の掃討にあった野田氏は、それ以降南朝の後醍醐天皇を奉り、楠木氏に忠誠を尽くした。
野田四郎正勝は、湊川の合戦で戦死し、その子四郎正氏は四条畷の合戦で楠木正行とともに戦死した。
正平15年(1360年)に三代目の兵部正康は、足利の大軍に包囲されたため、野田城に火を放って城外で戦い、凄惨な戦場となって野田村は壊滅状態となった。
犠牲者を弔うために建てられた「大悲庵(大悲寺)」が南野田にある。
南海高野線北野田駅下車、徒歩5分。



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