真土山万葉歌碑(万葉古道沿い)

真土山万葉歌碑(万葉古道沿い)は、和歌山県橋本市真土の飛び越え石に至る古道沿いにある。
隅田駅から飛び越え石に至る万葉古道沿いに、隅田駅前歌碑笠朝臣金村歌碑、石上歌碑、橡(つるばみ)歌碑、いで吾が駒歌碑の五基の石碑が建てられている。
当地の見開きの形の石上歌碑には次のように刻されている。

   紀ノ川の万葉   犬養 孝
まつちの山越え 大和の万葉びとが紀伊国にはいる最初の峠は、紀和国境のまつち山である。
そこは、五条市の西方、和歌山県橋本市(旧伊都郡)隅田眞土とのあいだの山で、
昔は山が国境であったが、現在は山の西方、落合川(境川・眞土川)が県境となって、その間に両国橋が架けられている。

  石上乙麻呂卿配土左国之時歌
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は たわやめの まとひによりて
馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢かくみて
大君の みことかしこみ 天ざかる 夷(ひな)へに退(まか)る
古衣(ふるころも) 又打山(まつちやま)ゆ 還り来ぬかも
                                    (巻六 - 一〇一九)

(意味)
石上乙麻呂卿が土佐の国に配(なが)される時の歌
石上布留の御前は、たわやかな女子(おなご)の色香に迷ったために、
馬のように縄をかけられ、鹿や猪のように弓矢で囲まれて、
天子の命令を畏まって、遠い田舎に流されていく。
古衣をまた打つという真土山のあたりから、引き返してこないものだろうか。

石上朝臣乙麻呂(?-750)は、奈良時代の貴族で左大臣 石川麻呂の第3子である。
わが国最古の公開図書館 芸亭(うんてい)を開設した石上宅嗣(やかつぐ)の父。
天平11年(739) 藤原宇合の未亡人 久米若売(くめのわかめ)と密通した罪で土佐に配流となった。
その後、大赦で都に戻り、天平勝宝2年(750)従三位中納言兼中務卿で没した。
才能すぐれ、風采典雅な人物であったと記され、懐風藻に詩4首が残されている。

右側の副碑には、次のように記されている。
     真土の万葉歌碑
第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く
橋本の万葉が受け継がれる事を祈り
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 
文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の
著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻し
ここ万葉のふるさとにこれを建つ
  二〇〇〇年十一月二十三日 
   橋本万葉の会

赤御影石製の橡歌碑には、次のように刻されている。
(上面)
  橡之 衣解洗 又打山 
   古人尓者 猶不如家利
(前面)
                 作者不詳
  橡(つるばみ)の 衣解き洗ひ 眞土山
   本(もと)つ人には なお如かずけり
          万葉集 巻十二-三〇〇九

(解説)
上代では、つるばみ(クヌギ)の実のカサから出る煎汁を使って衣服を染めた。
染汁そのままで染めると薄い黄褐色となり、つぎに灰汁や鉄などを使うと黒褐色や墨色ともなって、庶民の着るいろいろな衣服を染めることが出来た。
橡染めの地味な着物を解いて洗ってまた打つという、真土山の名のような本つ人(もとつひと)、本妻にはやっぱり及ばないよ。




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