羽州山形最上義光(もがみよしあき)供養塔は、和歌山県高野山奥の院28町石北東にある。
史跡高麗陣敵味方戦死者供養塔の東側から参道を北に約40mのぼったところに建立されている。
最上義光(1546-1614)は、安土桃山時代から江戸初期の武将で、出羽国の大名である。
父は山形城主最上義守。元服後、将軍足利義輝(よしてる)の偏諱(へんき)を得て、義光と名乗った。
山形城を拠点に弟の中野義時、一門天童頼久はじめ一族のほとんどを討ち、勢力を拡大した。
関ヶ原の戦いで、徳川家康方につき、戦後庄内三郡のほか由利郡の領有も確認されて、57万石の大大名となった。
五輪塔の地輪には、次のように刻されている。(木下浩良氏「戦国武将と高野山奥之院」、巽三郎氏「紀伊國金石文集成ー続」)
爲羽州大守最上山形前少
源朝臣義光昌國寺殿
(梵字)玉山白公大居士菩提
大施主出羽國最上山形駿
源朝臣家□□□先考也敬
(側面)
旹慶長十九年
甲寅正月十八日
昭和51年に刊行された宮川良彦氏の「高野の石佛」によると、「五十万石 倒れた最上義光五輪断石」と題して、当地の五輪塔が紹介されており、当時の倒れた写真が掲載されている。
当地の最上家墓所には、最上義光の大型五輪塔の他に、中型五輪塔4基、小型五輪塔7基などの石塔がある。
高野山奥の院18町石付近には、第2代藩主最上家親の供養塔がある。→ 出羽山形最上家供養塔 豊後 岡 中川家供養塔
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