守山城跡は、名古屋市守山区の宝勝寺北側にある。
当地の入口にある案内板には、次のように記されている。
守山城跡
平山城。林の中に大規模な東西方向の堀が見られる。
築城年代、創建者ともに不詳。
大永六年(一五二六)連歌師 宗長(そうちょう)がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられる。
天文四年(一五三五)徳川家康の祖父 松平清康が大軍を率いてこの地に布陣、尾張攻略を図ったが家臣に殺害された。
その後、織田信長の叔父 信次、弟の信時が城主となり、桶狭間の戦後、廃城となったとされる。
名古屋市教育委員会
住宅西側の城跡とされる丘の上には、石碑があり、次のように刻されている。
守山城趾 愛知懸
天文年間 松平清康 尾州ヲ略セント欲シ此地ニ陣シ
偶臣下ノ爲ニ弑セラレ後 織田信秀ニ属シ 其ノ支族ハ数世之レニ居ル
大正五年四月建之
天正元年(1573)に浅井長政が織田信長に敗れて、近江国小谷城が落城すると、信長の妹(浅井長政正室) お市の方と三姉妹(茶々、初、江)が、岐阜城、清須城滞在後に、天正2年(1574)に(伊勢上野城の)信包(信兼)の元に預けられたと伝えられてきた。
すなわち 織田信長の伝記として知られる「総見記」には、お市の方と三姉妹は供の藤懸長勝(ふじかけながかつ)と木村小四郎(きむらこしろう)を従え小谷城を退去し、「備州(長政)ノ内室ハ正シク御妹ナルカ故ニ、暫時ノ間ハ上野介信包ニ預ケ置カル」とある。
(小和田哲男氏「戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯」「江史跡紀行」、「総見記」 「浅井三代記」参照)
しかし近年の研究によると、お市の方と三姉妹は、伊勢上野城ではなく、信長の叔父の織田信次に預けられ、尾張国守山城で過ごし、その後岐阜城に移ったとされる。
浅井三姉妹の次女 「初」ゆかりの江戸城大奥の老女 渓心院の覚書写本「渓心院文」には、「御いちさまと御ひめさま御さんかたは、のぶ長様のおじご(織田信次)さまの御かたへ御のけなされ候よし」と記されている。
(宮本義己氏「誰も知らなかった江」 「渓心院文(けいしんいんのふみ)」 黒田基樹氏「お市の方の生涯」参照) → 浅井三姉妹ゆかりの地
名鉄瀬戸線 矢田駅下車、徒歩10分。
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