師直塚

師直塚は、兵庫県伊丹市池尻の国道171号線の側道にある。
摂津の国打出浜の戦いで、足利直義に敗れた足利家の武将高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)兄弟は、出家して「道常(どうじょう)」「道昭(どうしょう)」と称した。
観応2年(1351)10月、兄弟は京都に戻る足利尊氏に供奉することを許されず、尊氏将軍から三里ほど離れてついて行ったが、上杉能憲(よしのり)勢の待ち伏せに遭い、当地で共に討たれ、高一族は滅ぶことなった。
太平記巻第29によると、師直を討ったのは三浦八郎左衛門、師泰を成敗したのは吉江(よしえ)小四郎という武士であった。
師直以下の首は、師直が創建した京都の真如寺に送られ葬儀が行われた。また、足利市の光得寺境内には、高師直の五輪塔がある。
当地には、高師直らの没後、墓らしき塚が残っていたが、いつしか耕作の妨げになるとして崩された。
大正4年(1915)山田村の青年団有志により、現在の師直塚が建立され、国道の拡張工事などにより、現在地に移された。

高師直(?-1351)は、南北朝時代の武将で足利尊氏が上洛の時すでにその側近にあり、足利家の執事として、
北畠顕家を倒し、河内の南朝軍を弟師泰とともに制圧し、楠木正行を四條畷の戦いで破るなどの功績があった。
太平記では、高師直の傲りが描かれており、神仏さえ恐れない現実主義者だったといわれて、佐々木道誉、土岐頼遠とともに婆娑羅三傑といわれる。
太平記巻21では、高師直が塩谷判官高貞(えんやはんがんたかさだ)の美貌の妻に横恋慕し、
吉田兼好に代筆させた恋文を届けたが、思い通りとならず、高貞が陰謀を企てていると、将軍足利尊氏に讒言し、高貞が討たれてしまうという話が残されている。
赤穂浪士の仇討事件を題材にした江戸時代の浄瑠璃、仮名手本忠臣蔵では、吉良上野介義央(よしなか)の代わりに高師直が敵役として描かれている。


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