宝積山能福寺(能福護国密寺)は、神戸市兵庫区北逆瀬川町にある天台宗の寺院である。
寺伝によると、延暦24年(805)に唐から帰国した最澄(伝教大師)が兵庫和田岬に上陸し、庶民が大師を歓迎して堂を建立して教化を請うたのが寺の始まりという。
本尊は、最澄作と伝わる薬師如来立像である。
寺宝として、平安時代作の木造十一面観音立像(国の重要文化財)を有している。
平相国廟
仁安2年(1167)平清盛が当寺で剃髪出家し、浄海入道となった。
養和元年(1181)清盛が亡くなると、円実法眼が遺骨を首にかけ京都から経の島(兵庫区)に納めたと、平家物語に記されている。
平安末期に能福寺寺領内の太平山八棟寺に平相国廟があったとの記録もある。
その後、能福寺は荒廃したが、弘安9年(1286)執権北条貞時が清盛塚十三重石塔を建立した。
納骨された墓の所在は定かでないが、昭和55年の平清盛公800年忌に、平相国廟13重石塔(中央)が復興され、併せて円実法眼宝篋印塔(右)と忠快法印塔(九重塔)(左)が合祀された。
円実法眼は、能福寺の住持で清盛剃髪出家の師匠である。
忠快法印は、清盛の弟 教盛の長子で円実法眼の弟子である。
廟前で追善管弦法要を修して、比叡山に小川流一派の灌室を興した。
兵庫大仏
明治初年太政官布告により神仏分離令が出され、廃仏毀釈で仏教界は大きな打撃を受けた。
そのため、兵庫の豪商 南条荘兵衛の発願により、明治24年(1891)に盧遮那大佛が建立された。
以来、奈良東大寺、鎌倉高徳院と共に日本三大佛に数えられたが、太平洋戦争のさなか、昭和19年(1944)金属回収令により供出させられた。
5月9日、千人を超える市民の前で、大仏に赤いたすきをかけて、法要が行われ、ハンマーで砕いて荷馬車で搬出された。
その後、47年を経て、多くの市民の要望と企業の協賛を得て、平成3年(1991)二代目の兵庫大佛が建立された。
身丈 11m 耳の長さ 2.1m 蓮台 3m 台座 4m 地上からの総高 18m 重さ(蓮台共) 60トン
本堂 月輪影殿
本堂の建物は、もと京都東山の歴代皇族の墓陵「月輪御陵」にあった九条公爵家の拝殿で、明治、大正、昭和の歴代天皇が京都に行幸した際には、必ず参拝していた。
昭和28年(1953)に宮内省と九条家から能福寺に特別に下賜され、移築された。
平成7年1月阪神淡路大震災で大破したが、平成9年12月に旧姿に復元された。
京都 青蓮院門跡 旧院家(いんげ)
能福寺は、京都五箇室門跡の一つ 粟田の青蓮院門跡の院家であった。
院家とは、幼少であることが多い門跡(住持となる皇族)に、礼儀作法や学問などを教授する師範役である。
能福寺は、院家職が明治維新に皇室典範の制定により廃止になるまで、江戸初期以来二百数十年にわたって要職を務めた京都以西ではただ一つの寺である。
ジョセフ・ヒコの英文碑
明治時代神戸港に着いた外人客が、兵庫大佛に多数参拝したところから、能福寺第19代住職加藤師がペルー提督の通訳として有名なジョセフ・ヒコに依頼して、明治25年ごろに寺の縁起を英文で説明した石碑を作った。
わが国最初の英文碑といわれている。
アメリカ彦蔵自伝のはしがきによると、ジョセフ・ヒコは、天保8年(1837)に播磨国古宮村(兵庫県加古郡播磨町)に生まれた。
幼名は、彦蔵で、アメリカに渡って洗礼を受けた後は、教名のジョセフを冠して、Joseph Heco と称した。後に、浜田家の相続人である銀子と結婚し、浜田彦蔵の名を使った。
JR神戸線兵庫駅下車、徒歩10分。兵庫大仏北側に参拝者用の駐車スペースがある。
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