相賀大神社は、和歌山県橋本市市脇にある神社である。
祭神は、天照大神、伊邪那岐神、伊邪那美神である。
かつて相賀荘20ケ村の氏神で、豪族生地(おいじ)氏が神官であったと伝えられている。
相賀荘は、平安時代末期に高野山蜜厳院領として成立した。
その後、鎌倉時代に密厳院が大伝法院とともに根来に移って根来寺となると、相賀荘は根来寺領として引き継がれ、その時にこの神社は、相賀荘の鎮守として根来の三部権現を勧請したといわれている。
紀伊名所図会では「總社三部明神社」と書かれており、現在の社殿にも扁額が掲げられている。
境内では古くから市が営まれ、この市は中世には惣社之市といわれ、「市脇」という地名はこのことによる。
社前の石燈籠は、高さ1.8m、砂岩の六角形で竿部節間上段に「正平十年(1335年)十一月一日」、下段に「大師講衆敬白」と刻銘されている。
かつて根来寺の領地で繁栄した時代の面影を残す燈籠で、県の文化財に指定されている。
釣鐘は、元禄13年(1700年)の鋳造で、橋本市旧柏原村の鋳物工長兵衛の作である。
柏原村は、鋳造師の里として南北朝時代から知られ、伊都や大和の梵鐘が作られていた。
第二次世界大戦で供出されたが、終戦で改鋳を免れて戦後返却されたもので、供出の際につけられた小穴が残っている。
本殿裏には、市脇相賀古墳群が発見されている。
南海高野線橋本駅からバスで城の内住宅前下車、徒歩5分。
市脇相賀古墳群は、和歌山県橋本市の相賀大神社の北にある史跡である。
山田川と市脇川に挟まれた南に突き出した丘陵先端の南斜面に造られた古墳群で、昭和43年に橋本市の文化財に指定されている。
「紀の川用水建設事業に伴う発掘調査報告書」(昭和53年)によると、昭和44年(1969年)の段階ですでに開口している横穴式石室をもつ古墳が3基知られており、分布調査の結果、さらに5基の円墳が確認された。
すでに知られていた3基のうち1基は造成工事により消滅していたため、7基が残されていた。
1号墳は神社のすぐ背後にあり、古墳の南側は水路により削り取られている。径3.6m、高さ1.8mの墳丘規模で、内部主体は緑泥片岩を用いた割石積みの横穴式石室となっている。
石室は南に開口するが、羨道(遺体を納める部屋に至る通路)部は、ほぼ全壊しており、長さ2.8m、高さ1.5m、幅1.5mの両袖式の玄室(遺体を納める部屋)部が残存していた。
副葬品等は伝えられておらず、詳細は不明であるが、後期古墳に属するものとみられている。しかし、昭和の末期、台風による倒木のため崩壊した。
また、背後の斜面には4号墳から8号墳の5基の墳丘が認められるとともに、西方50mには2号墳が入口部分を破壊された状態で玄室のみが残っている。(現地の案内板から)
南海高野線橋本駅からバスで城の内住宅前下車、徒歩5分。
六郷極楽寺は、和歌山県橋本市神野々にある寺院である。
神野々七墓(こののななはか)(周辺六地区の共同墓地)前に建つ阿弥陀堂で、14世紀初めの史料に出ている。
本尊阿弥陀如来坐像は、下品中生(げぼんちゅうしょう)の説法印を結ぶ数少ない例で、鎌倉時代の作品として和歌山県指定文化財となっている。
境内には、正平七年七月一五日(南朝年号1352年 本堂に向かって左側)、正平一三年の五輪塔(いずれも橋本市指定文化財)が建ち、一字一石経も発見されている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。
神野々廃寺塔跡は、和歌山県橋本市にある史跡で県指定文化財である。
基壇状の土盛(一辺約12メートル)の中心に、緑泥片岩製の中心礎石(2.7m×1.4m)が残っている。
礎石中央には、直径86cm深さ10cmの丸い穴がある。
「紀伊續風土記」には、「三重塔廃趾」と記され、「紀伊国名所図会」には、「一大礎石存せり」と書かれている。
以前から付近で塼仏(せんぶつ)(仏像を形どったタイル)や古瓦が採取されている。
大門という地名とあわせて、ここに寺院があり、礎石はその伽藍の塔の心礎と考えられているが、3回にわたる発掘調査でも、金堂、講堂などの伽藍配置の確認には至っていない。
付近からは、八葉複弁蓮華文の軒丸瓦が出土しており、川原寺や本薬師寺の瓦と同じ系統であることから、7世紀後半の白鳳時代の寺院のものといわれている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。
寂静山 大光寺は、和歌山県橋本市伏原にある浄土真宗本願寺派の寺院である。
本尊は、阿弥陀如来立像である。
本堂の再建は、宝暦13年(1763年)。正徳元年(1711年)の「親鸞聖人時雨の御影」の由来記がある。
寺伝によれば、本願寺第11世の法主 顕如上人が、織田信長と大坂石山本願寺と戦っていた時に「親鸞聖人時雨の御影(ごえい)」を、高野山 福蔵院(現 巴陵院)へ預けることになり、
その使者に宮本平太夫が当寺に立ち寄って記念に植えたのが「しぐれの松」と言われている。
樹齢約300年の黒松で、優雅な樹冠を形成しており、境内の景観の主体になっている。
地上約1.7mのところで3つの枝に分かれ、ひとつはさらに上に伸び樹冠の上層部を形成している。
残りの2本は、それぞれ北と半円周を描いて西北に約10m伸びている。
昭和38年に和歌山県の天然記念物に指定された。
また、平成10年(1998年)に蓮如上人直筆の「南無阿弥陀仏」と書かれた六字名号が見つかった。蓮如(1415-1499)は、布教の重要な手段として数多くの六字名号を書き、全国に配布した。
各地の門徒はそれを「惣道場」という村のコミュニティホールに本尊として掲げたという。
草書体は数千幅あるといわれるが、楷書体は二十幅程度で、更に南無阿弥陀仏の意味を分かりやすく説いた「讃」が添えられているのは、全国に六幅といわれる。
大光寺の名号は、縦約1m、横約30cmで、和紙に「南無阿弥陀仏」と楷書体で書かれ、その上に「阿弥陀仏に帰依すれば必ず極楽往生できる」との「讃」が添えられている。
蓮如は、応仁2年(1468年)に高野山を訪れており、その際街道に面した当寺での布教のため、名号を残したのではないかといわれている。
南海電車高野線学文路駅下車、徒歩約20分。
大江卓氏詩碑は、和歌山県橋本市高野口町にある。
大江卓(1847-1921)は、明治・大正期の政治家、実業家、社会事業家。天也(てんや)と号した。
弘化(こうか)4年9月25日、土佐藩の下級武士の家に生まれる。討幕運動に参加し、坂本龍馬、陸奥宗光らと知り合う。
慶応3年(1867年)12月には、鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)とともに高野山に登り、朝廷からの錦旗と勅書をもとに紀州藩を説得したといわれる。
1871年(明治4)穢多非人(えたひにん)の廃止を民部省に建議、翌1872年のマリア・ルーズ号事件に際しては神奈川県権令(ごんれい)として中国人奴隷を解放する。
1877年、西南戦争に呼応した反政府挙兵に失敗し、翌1878年入獄。1884年に出獄後は大同団結運動、立憲自由党結成に参加し第1回総選挙に当選するが、政府と妥協して失脚した。
財界に転じ1901年(明治34)京釜(けいふ)鉄道株式会社の創立に参加する。1913年(大正2)には融和団体帝国公道会を設立し、1914年出家して政財界との絶縁を宣言する。
以後、部落問題と取り組み、社会一般の啓蒙(けいもう)を行うが、治安対策的立場が強く、しだいに労働問題にも目を向けていった。大正10年9月12日死去。
大江卓氏詩碑が建てられている場所は、岡本弥(わたる)の出身地である。
岡本弥(1867-1955)は、旧端場村出身で、その祖先は旧土佐藩主長曾我部元親の遺子弥兵衛であるといわれている。
勉学熱心で、12歳の時に紀見峠を越えて大阪に行き、数千冊の本を購入して、手当たり次第に読破した。
その購入資金は、父が家宝の尾形光琳の屏風を売却した金百円を充てたもので、自宅に文庫を設けて、光風文庫(光琳の屏風)と名付けた。
明治30年ごろから融和運動に参加し、大正3年(1914年)には同志大江卓氏の来訪を受けた。
大江卓氏詩碑は、昭和11年に端場村の有志が、同氏の融和運動の功績を後世に伝えようと刻したもので、代議士松山常次郎が書いたものである。
普門院観音寺は、和歌山県橋本市高野口町伏原にある古義真言宗高野派の寺院である。
山号は、法華山である。
本尊は十一面観世音菩薩で、行基菩薩作という。毎年3月の厄除本尊会式には年に1度の開帳が行われる。
法華山縁起巻物によると、飛鳥時代、推古天皇の頃、斑鳩宮殿で休んでいた聖徳太子が、ある夜偶然この地に十一面観音の仏霊が現れた夢を見て、普門院に来られて役人に命じて堂宇を草創した。
白石上の閻浮檀金一寸八分の尊像を安置し、金字の法華経一部を書き写して埋納したといわれる。そのため内方一町許国家擁護の霊城とされ法華山と号された。
その後衰退したが、聖武天皇の天平10年(738年)、行基菩薩が諸国遍歴修行の道すがら、この寺に立ち寄り、長さ1尺2寸の像を彫刻し、浄財を寄せて8間の仏堂を建てられたと伝えられている。
山門を入った東側にある上記の白石は、影向石と伝えられ、縁起を物語る霊石として護り伝えられている。
大師堂には、本尊として42歳の時の弘法大師像が祀られ、脇仏として不動明王像2体、普賢延命菩薩像、大日如来座像が安置されている。
弘法大師像は、高野山大仏師長谷川康安の作と伝えられ、永く高野山麓の天野明神社にまつられていたもので、明治7年(1874年)に当院に遷座した。
境内には、大神社も祀られている。
南海電車高野線学文路駅下車、徒歩15分。
名古曽廃寺(なこそはいじ)跡は、和歌山県橋本市にある和歌山県指定史跡である。
そこには「護摩石(ごまいし)」と呼ばれる大きな石が残されている。
かつて、祈親(きしん)上人が、この場所で護摩を修したとの言い伝えによりこの名がある。
この石は、長さ223cm、幅133cmで、中央に直径44cmの心柱をうける孔があり、さらにその中に仏舎利をおさめる孔がある。
これは、古代寺院の塔の心柱をすえる心礎と呼ばれる礎石で、平成元年度の発掘調査によって、一辺が約9mの規模を持つ塔跡であることが確認された。
平成2年度の発掘調査によって、塔跡の西側から東西約15m、南北約12mの規模の金堂跡が確認された。
これにより東に塔、西に金堂を配置する法起寺式伽藍配置であったことが明らかになった。
こうした発掘調査に基づき、現地に基壇や礎石が復元され、史跡公園として整備されている。
名古曽廃寺跡の北東約200mにある一里山の丘陵地(名古曽墳墓)は、県史跡に指定されている。
昭和38年(1963年)10月13日、高さ23.1cm・幅27.6cmの三彩骨蔵器(国の重要文化財)が、滑石製石櫃(いしびつ)に収められた状態で出土した。発掘者は、名古曽の梅谷博男氏である。
奈良時代の典型的な薬壺形骨蔵器であり、蓋、身ともに緑、白、褐(かち)の三色の釉がかけられている。
全体に褐色が強いのは胎土に鉄分を含んだあらい土を使い、さらに一般の緑釉陶器等より高温で焼き上げられたからである。
形は中ふくらみの豊満の形で、色彩、光沢の鮮明さと大きさから奈良三彩の一品とされ、わが国考古学・陶芸史上貴重な存在である。
埋納土坑の須恵器から8世紀後半に成人男子火葬骨を葬ったものと考えられている。
実物は、京都国立博物館で保管され、橋本市産業文化会館にレプリカが展示されている。
地蔵寺は、和歌山県橋本市高野口町にある真言宗山科派の寺院である。
本尊は、地蔵尊大菩薩(石造)である。
創建は定かではないが、延宝5年(1677年)の大指出帳に地蔵寺の名が記されている。
この寺は、西隣にあった西福寺が座衆(元からの居住者)の寺であるのに対して、平(新たな居住者)の建てた寺だと伝えられている。
本堂の西側に、高さ2m、幅70~80cmの均斉のとれた優美な五輪塔がある。
正平11年・延文1年(1356年)名倉村の有力農民層であった光明真言一結衆等が、西福寺境内に建立したが、明治初年廃寺となり、東隣の地蔵寺に引き継がれ現在地に移築された。
南北朝(吉野朝)時代のもので、和歌山県の重要文化財に指定されている。
当寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石灯籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。
中央に「光明真言講中」左右に「大道元年七月吉日」と刻まれている。
紀伊續風土記では、「南朝に奉仕せし人の子孫等、当時の年号を用ふるを快とせずして、私に建てた号なるべし」と記され、南北期末に使われた私年号とされている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩3分。
旧高野口尋常高等小学校校舎は、和歌山県橋本市高野口町にあり、現在も高野口小学校として利用されている。
同小の起源は、明治8年(1875年)に村学として開校し、明治9年又新(ゆうしん)小学校、明治18年名倉小学校、明治44年(1869年)高野口尋常高等小学校となった。
昭和12年(1937年)、四川合流による田原川跡地を利用して現在の地に木造平屋建て桟瓦葺きの校舎が建設された。
小学校の北・東・南側には低い石垣と生け垣があり、正面門柱の内側に見える入母屋屋根の式台構えを思わせる正面玄関、瓦葺きの品格のある校舎である。
平成23年に耐震補強を含む改修工事が完成し、平成26年1月に重要文化財に指定されている。