恋し野の里中将姫旧跡は、和歌山県橋本市にある。
中将姫の父は、藤原豊成、母は紫の前で天平19年(747年)8月18日に誕生した。
5歳で母と死別し、7歳の時継母の照夜の前を迎えた。
姫は容姿端麗で叡智に富み、何ごとにも優れ、帝から中将の位を授かる。義弟の豊寿丸が誕生した頃から継母は姫を憎み、幾度も姫を殺害しようとするが姫は助かった。
さらに14歳の春、父の留守中に家臣の松井嘉藤太に命じて紀伊と大和の境の雲雀山で殺害させようとしたが、嘉藤太は罪もない姫を助けた。
姫は、十三仏や里人たちの温情に支えられ恋し野の里で二年三か月間様々な苦しみに耐えて、聞くも悲しい生活を送った。そして狩りに来た父と中将倉で涙の再開を果たし、奈良の都に帰った。
17歳の時當麻寺で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょうびくに)となって藕糸(ぐうし)曼荼羅を織り、宝亀6年(775年)卯月14日29歳で波乱の生涯を静かに閉じた。
中将倉でさびしい日々を送っていた姫がかの雲雀山に来て、天国の母様を慕い、或いは恋し野の里で里人と戯れ、草花を摘みに去年川(こぞがわ)の渓谷を毎日渡るのに困ってかけた橋である。
この橋は、糸の懸橋であって、昭和初期まで県道の橋であったが、朽ちて流されていたのを中将姫旧跡保存委員会で昭和56年に復元した。
両橋詰に十三仏の中の阿閦如来(あしゅくにょらい)と地蔵菩薩が祀られている。
JR和歌山線隅田駅から徒歩20分。
雲雀山旧跡は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が14歳の時、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太(かとうた)が、姫を板張りの輿にのせて、奈良の都からこの雲雀山に連れ出し殺害しようとした。
中将姫は、「これ嘉藤太や、私は日に六巻のお経を唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ちとってください。」と言って、西に向かってお経を唱えた。
松井嘉藤太は、その姫の姿を見て振り上げていた太刀を捨て、姫を守ることを決意した。その故事で雲雀山は、別名「太刀捨て山」と呼ばれる。
嘉藤太は、麓を流れる去年川(こぞがわ)の奥の岩陰に草庵を作って、妻のお松とともに2年3か月間隠れ住んだ。
現地には、田林義信和歌山大学名誉教授の次の和歌が記されている。
「母を恋ひ 中将姫が揚雲雀 聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩20分
糸の細道は、奈良県及び和歌山県にある。
紀ノ川の北側を通る大和街道、伊勢街道に対して、紀ノ川南岸を通る裏道として発達したのが「糸(伊都)の細道」である。
大和盆地の中ツ道・下ツ道から栄山寺を経て、吉野川、阪合部の村々、恋し野の里、学文路、九度山、天野の里を抜け、有田から熊野街道に到達する。
中将姫殺害を命じられた松井嘉藤太が、中将姫を木製の輿に乗せて都から来たのも、この糸の細道と言われている。
雲雀山の南西斜面を通る道は、かつての恋野の生活道路で中将姫が通った当時をしのぶことができる。
紀伊国名所図会に次のように記されている。
糸の細道 赤塚村の東に細谷川ありて、其谷に掛つ橋を糸の掛橋といひ、其処に通ずる路を糸の細路という。中将姫の旧蹟なりとぞ。
車やる大路も糸の細道もかよへばかよふ身こそやすけれ 橘 園
清兵衛池、浮御堂は和歌山県橋本市恋野にある。
昔から米作が盛んであった恋野では水を大切にしてきた。
江戸時代、長く雨が降らないときには似賀尾池で火を焚き雨乞いをしたと言われている。
恋野の人々が水を大切にした歴史を残し伝えるため、清兵衛池に浮御堂を建て、水を守る「沙羯羅竜王」が祀られた。
沙羯羅竜王は、法華経賛嘆(さんだん)の法会に列した8体の護法の竜王のひとつ。八大竜王とよばれ雨をつかさどるという。
池の傍には河南両国橋の橋名板が残されている。
布経の松(別名三本松)と運び堂は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が、三本松の根方に立って手を振ると、五本の指先から五色の糸が出て松の枝から枝に渡され、美しい布が織られた。
天上に居る母に贈り物として合掌すると、布は天高く舞い上がり、紫雲たなびく七霞山の彼方へと消えていったとの伝説が伝わっている。
「布経(ぬのえ)の松」の由来となった松の木は、今は枯れてしまい石碑が残されている。
中将姫がいつも空腹をこらえながら、称讃浄土仏攝受経を読誦しつつ、この峠を訪れるのを里人たちが見て不憫に思い、ここにある辻堂に食べ物を運んだといい、いつしかこの堂を運び堂と呼ぶようになった。
この一帯を運び堂という地名にもなっている。
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩40分。
似賀尾池(にがおいけ)は、和歌山県橋本市にある。
橋本市で最も美しいと言われる池で、その透明な水は青空を映す鏡のようにも見える。
池全体の形を見て、亡き母に手を振る中将姫を偲び、中将姫の手に「似通う大池」に見えることからその名が付けられた。
現在では、米作が盛んな地元の農業用水のため池として利用されている。
雲雀山福王寺は、橋本市恋野にある真言宗御室派の寺院である。
中将姫が恋し野の里に建立した三の庵(雲雀山庵、滝谷垣内庵、運び堂で各々庵屋敷跡が残っている)を合併して、宝暦8年(1758年)に建立したといわれる。
本尊は木造阿弥陀如来坐像で橋本市の指定文化財となっている。
また脇侍として持国天、多聞天が安置されており、和歌山県の指定文化財となっている。
阿弥陀如来像は、阿弥陀如来九品印(くぼんいん)のひとつ上品下生(じょうぼんげしょう)(来迎印)を結んでいる。
檜材による寄木造、彫眼、漆箔仕上げの像で、ふくよかな頬部とやや彫りの浅い顔部から静かな落ち着きを感じさせる。像高87.2cm、平安時代末期の作品といわれる。
脇侍の天部立像は、甲を身に着けた憤怒武装形に表現され、仏法とそれに帰依する人々の護法神として信仰される。
この2躰の像はいずれも檜材による一木造りで、持ち物は欠損しているものの当初の美しい彩色文様の一部が残り、保存状態も良い。
像高99.0cm、98.0cmで平安時代中期の作品といわれる。
堂内には、中将姫の位牌(中将姫法如大菩薩)が安置されている。
境内には、葉書の木といわれる「タラヨウ多羅洋」が植えられている。
葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩15分。
恋し野の里あじさい園は、和歌山県橋本市恋野にある農業公園である。
約5千株のあじさいが植栽されており、6月中旬から6月下旬まで淡いピンク、紫、水色の紫陽花が楽しめる。
農業公園として整備されているので、ゆったりと散策することが出来る。
JR和歌山線隅田駅から南へ徒歩約25分。
駐車施設も約40台駐車可能。
中将ケ森と蓮池(姿見池)は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫は、長谷観音の授かり子であったため、十三仏中の観音菩薩を守り本尊としていた。
そして、自分の身代わりとなった人々の供養や、松井嘉藤太夫人の忠誠心に加えて、里人たちの庇護と奉仕の温情に対する感謝、並びに恋野の里の弥栄を祈念して藤原南家の氏寺(五條市栄山寺)の見えるこの地に観音様を祀ったといわれている。
その後、恋野の信仰の中心となり、観音講の人々によって大切に保存されている。
中将姫は、都に帰るとき里人たちと別れを惜しみつつ、肌身離さずに持っていた観音像を残していったと伝えられている。
この森の一隅に蓮池(姿見池)があり、中将姫は蓮を植えていたといわれ、その後、當麻寺では蓮糸で曼荼羅を織ったと言われている。
仏誓寺霊域と上田播磨守墓所は、和歌山県橋本市にある。
紀伊続風土記の中道村の項目に、牛頭天王社、廃寺の仏誓寺が書かれており、牛頭天王社は一村の氏神で、正平4年(1349年)上田播磨守橘正尚を祀ったと言われている。
仏誓寺北側には、華岡青洲の弟子となった上田昌平の生家がある。
この上田氏宅には、華岡青洲氏の掛け軸が保存されている。
南側の墓地には、神谷川沿岸から平成28年に移設された上田播磨守虎正丸正尚の墓がある。
向副観音寺は、和歌山県橋本市にある高野山真言宗の寺院である。
創建は安土桃山時代で、詳細は不明である。
織田秀信公(織田信長の嫡孫)の位牌が安置されている。
本堂に安置されている木造薬師如来座像と木造大日如来座像は、橋本市の指定文化財となっている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩25分。
織田秀信終焉の地は、和歌山県橋本市にある史跡である。
織田秀信(岐阜中納言)は、織田信長の嫡孫(信忠の長子)で、幼名は三法師と呼ばれた。
天正10年(1582年)に本能寺の変で、信長、信忠死去の後、清洲会議で織田家の家督を継いだ。
文禄元年(1592年)に岐阜城主となり、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは西軍に味方して敗れ、岐阜の円徳寺に入って剃髪した。
その後、高野山に入ったが、山徒は快く迎えなかったので下山して、相賀荘向副村に閑居した。
「濃陽将士伝記(濃陽諸士伝記)」には、「紀州高野山に登り給ひしが、岐阜中納言殿は、(高野)聖を成敗なされ給ひしとて、高野に入れ申さざるに付、麓におはしける」と記されている。
その後、銭坂城主生地新左衛門尉 阪上真澄の娘「町野」を妻として、一子恒直をもうけたが、入山後2年で病気となり、慶長10年(1605年)に向副村で死去した。
江戸時代の「紀伊續風土記」には、「秀信卿の墓は高野山光台院の後の山に五輪塔ありて銘文も明なり、然して當寺(善福寺)にあるは此に居住せし故なるべし」と記されている。
位牌は、向副観音寺(明治25年に善福寺と合併)に祀られており、善福寺跡には、秀信の墓所と伝える自然石の墓石があり、織田秀信顕彰碑(「織田秀信公碑」)、松山タケノ頌徳碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。
織田秀信公碑は、和歌山県橋本市の善福寺跡にある。
大正7年4月に建立されたものである。
背面には、後裔 織田信之助、織田亀吉、松山タケノの他、発起人氏名等が記されている。
碑文は次の通り。なお、9行目「舊稱」は、「旧稱」で表示している。
松山タケノ女史頌徳碑は、和歌山県橋本市向副善福寺跡の織田秀信終焉の地にある石碑である。
松山タケノは、織田信長の子孫の一人で、和歌山県伊都郡助産婦会を創設した。
石碑は昭和13年に建立されたもので、碑文は、次の通り。
令和2年12月閉館 前畑秀子資料展示館
前畑秀子資料展示館は、和歌山県橋本市にある。
前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋の長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正14年(1925年)には、11歳で50m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。
前畑秀子資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されている。
資料館では、「前畑がんばれ」の実況音声の録音を聴くことが出来る。また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。