志太野坡句碑は、和歌山県高野山大師教会にある。
大師教会前庭の趙樸初作漢俳碑北側に句碑があり、次のように刻されている。
鶯や木末(こぬれ/こずえ)は鴉(からす) 置きながら
鶯(うぐいす)は、春を代表する鳥で声がきわめて美しい。別名春告げ鳥とも言われる。
木末(こぬれ)は、「こ(木)のうれ(末)」の変化した語で、木の枝先、木の先端、こずえをさす。
語源として、木の下の暗いところをいうコノクレ(木暗)の約という説もある。(類聚名物考・和訓栞)
志太野坡(しだやば)(1662-1740)は、江戸時代前期、中期の俳人である。
姓は志田、志多とも書き、別性は竹田。
越前(福井県)に生まれ、江戸の越後屋両替商につとめる。宝井其角、松尾芭蕉に学び、元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集した。
芭蕉の遺書を代筆した俳人で、蕉門十哲の一人に数えられる。
宝永元年(1704)大坂谷町に移り、中国、九州地方に行脚して、西国に多くの門弟を擁した。
この句碑は、明治28年(1895)、志太野坡の大坂谷町の旧居(浅生(あそう)庵)の跡に、医師の薄(すすき)恕一氏と俳句の会「桃園会」が建立したものである。
その後、薄病院の東大阪市への移転により、石碑は、河内長野市の薄恕一氏の妻 壽子(ひさこ)の姉、中矢氏宅に移された。
平成16年(2004)に中矢氏宅の転居に伴い、当地の大師教会本部の前庭に移転寄贈され、21世紀高野山俳句大会で除幕式が行われた。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の駐車場がある。
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