神護山 崇福寺は、岐阜市長良福光にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
本尊は地蔵菩薩である。
永正8年(1511)斎藤利匡(妙純)により創建された。開山は京都妙心寺東海派の祖 悟渓宗頓(ごけいそうとん)の弟子 独秀乾才(どくしゅうけんさい)禅師である。
その前身は、大寿山崇福寺といい、明徳元年(1390)土岐満康によって創建された一山派(五山)の寺で、開山は太白眞玄禅師であった。
一山派から妙心寺派に転派した後、東海派の根本道場の一つとして名僧を多く世に出している。
快川紹喜(かいせんじょうき)もその一人である。
快川国師は、二世 仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)の教えを受けていたが、武田信玄に請われて甲斐国(山梨県)恵林寺の住職となった。後に崇福寺三世となり、栢堂景森(はくどうけいしん)に住職を譲ったのち再び恵林寺の住職となった。
織田軍が甲斐を攻めたとき、武田方をかくまったとして織田信忠に攻められ「心頭を滅却すれば火自ずから涼し」との言葉を残して山門上にて焼き殺されたことで知られる。
また西美濃の豪族 稲葉道貞の末子 稲葉一鉄(良道)も、当山第二世 仁岫宗寿のもとで修行していた。
しかし、大永5年(1525)牧田の戦いで父子6人が討死したので、当時11歳の一鉄は還俗して家督を継ぎ、土岐頼芸(よりあき)に仕えた。
土岐氏滅亡後、斎藤氏に仕え、曽根城(大垣市)を居城とし、西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤守就)の一人として活躍した。その後、信長、秀吉にも仕え、清水(きよみず)城で74歳で死去した。
稲葉一鉄寄贈の梵鐘(再鋳造)が境内にある。
永禄10年(1567)織田信長は、美濃に入ると、まず禁制を出して当寺を菩提所とした。
天正10年(1582)本能寺の変で信長と信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室小倉氏(小倉なべ)がその遺品を送り、位牌を安置した。境内には織田信長父子廟がある。
本堂の血天井は、信長嫡孫(信忠嫡男)の織田秀信(三法師)が慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前に西軍に属して岐阜城が落城した際、戦死した38名の将兵の霊を弔うため城の床板を天井に張ったもので、今でも血痕が付着している。
なお、秀信は円徳寺で剃髪した後、高野山に落ちのびたが、入山を拒まれ山麓で死去した。
江戸時代には、徳川幕府3代将軍家光の乳母 春日局(稲葉一鉄の孫)とも関係があり、有栖川宮家の菩提所ともなっている。
寺宝として、室町時代に東寺から譲り受けた非情成仏絵巻(岐阜市重要文化財)を有している。通称「付喪神(つくもがみ)絵巻」と呼ばれ、粗末にされた小道具が恨みを晴らすため妖怪になったが、ついには成仏する様子が描かれている。
JR及び名鉄岐阜駅からバスで長良川国際会議場北口下車、徒歩2分。参拝者用の駐車場がある。
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