蘇我入鹿首塚

蘇我入鹿首塚は、奈良県明日香村にある。
飛鳥寺旧境内の西側に位置し、飛鳥寺西門から西へ80mのところにある。
本居宣長の「菅笠日記」にも記録が残されている。
かつては田畑の間に五輪塚と呼ばれた土盛りの上に五輪塔が建っていた。
これがいつしか蘇我入鹿の墓といわれるようになったが、本来は別の場所にあったとも、二つ並んであったともいわれている。
当地の五輪塔は、高さ194cmの花崗岩製で、形式から鎌倉後期から南北朝時代のものと考えられている。

蘇我入鹿(?-645)は、飛鳥時代の高官で、蘇我毛人(えみし)(蝦夷)の子である。
青年時代の入鹿は、唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひと)の学堂に学んだが、旻から第一級の人物と評されたと「家伝」は伝えている。
皇極天皇即位後、643年10月に入鹿は父から紫冠を授けられ、大臣の位を認められた。
その後、入鹿らは聖徳太子の子の大兄山背(おおえやましろ)皇子の上宮王家の討滅をはかり、643年11月入鹿、軽皇子(後の孝徳天皇)らは、軍を起こし、大兄山背皇子と一族を斑鳩宮に急襲して覆滅した。
事件後に、蘇我本宗家に対する反感が急速に強まり、645年6月12日、飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で、蘇我入鹿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(鎌足)と謀った中大兄皇子らによって暗殺された。(乙巳の変)
墓所について、近年菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことから、蘇我蝦夷、入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える説等がある。

日本書紀では、入鹿を王位を奪おうとする逆臣として描き、入鹿退治説話は藤原氏のはじまりに関する伝承として、中世に流布し、謡曲入鹿として芸能化された。
入鹿と鎌足の相克は、舞曲 大織冠(たいしょかん)などを経て、近世に伝承され、浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、入鹿が典型的な公家悪(くげあく)として描かれている。



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