燈籠堂は、和歌山県の高野山奥之院にある。
燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿で、創建は弘法大師入定の年の翌年 承和3年(836年)にさかのぼる。
弘法大師の弟子の実恵、真然大徳が方二間の御堂を建てたのが最初である。その後治安3年(1023年)藤原道長によってほぼ現在の大きさのものが建立された。
堂内正面に、醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、祈親上人の12人の肖像が掲げられている。
堂内には、1000年近く燃え続けているといわれる二つの灯がある。
向かって右が、長和5年(1016年)に祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれるもので、祈親灯と呼ばれる。
髪の毛を売って献灯した貧女お照の物語に因んで「貧女の一灯」とも呼ばれる。
左には、寛治2年(1088年)に白河上皇が献じた「白河灯」があり、記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
この他、ある皇族と首相により献ぜられた「昭和灯」のほか、地下を含めた堂内には、参拝者が献じた燈籠と弘法大師の小像が多数置かれている。
現在の建物は、昭和39年(1964年)に高野山開創記念事業として改修されたもので、桁行40.6m、梁間21.9mの大きさである。
また東側には昭和59年(1984年)の御入定千百五十年記念事業として記念燈籠堂が落慶した。
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。(M.M)(Y.N)
女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口のものだけである。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
おたけという人が、亡くなった夫の為にお地蔵さまをお祭りしたところから、「おたけ地蔵」と呼ばれるようになった。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。(Y.N)
小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂上に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。
貧女の一燈お照の墓は、和歌山県かつらぎ町天野の里にある。
高野山奥の院の弘法大師御廟の拝殿は、燈籠堂と呼ばれている。
燈籠堂には、千年近くも燈明が輝いている「貧女の一燈」がある。
お照という少女が、自分の黒髪を売って養父母の菩提を弔うために献じた燈籠で、お照はその後、かつらぎ町天野に庵を結び、生涯を終えた。
天和2年(1682年)妙春尼によって供養塔が建てられ、貞受5年(1688年)天野の僧 浄意が女人の苦しみを救うために代受苦の行を十年間勤め、碑が建立された。その上には、実父母の墓と伝えられる碑がある。
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「丹生都比売神社」バス停下車徒歩5分。
京奈和自動車道紀北かつらぎインターチェンジから、国道480号線を車で約20分。近くに丹生都比売神社の駐車場がある。(Y.N)
むかし、和泉(いずみ)の槇尾山(まきおさん)のふもと横山村坪井に、奥山源左衛門(おくやまげんざえもん)・お幸(こう)の夫婦が住んでいた。
子宝にめぐまれるように、いつも槇尾山の観音様にお参りした帰り道、辻堂の軒下に、浪人の編み笠の中に子どもが捨てられ、声をかぎりに泣いていた。
夢中でかけ寄った二人は、子どもを抱き上げると、りっぱな絹の小そでに美しいたんざくがそえてあった。
千代(ちよ)までも ゆくすえをもつ みどり子を
今日しき捨(す)つる そでぞ悲しき
このとき、乳飲み子を捨てるせつない親心をさとった夫婦は、(きっと仏様が授けてくださったんよ)と喜んだ。
夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けて大事に育てた。
月日のたつのは早いもので、小さかったお照はすくすくと美しく育ち、村いちばんのやさしい娘になったが、お照が十六歳になったとき、流行病でお幸が亡くなっってしまった。
お照の心のこもった手厚い介抱もむなしく、間もなく、父も後を追うようにこの世を去った。
父が息をひきとる前に、お照を枕元に呼んで、その生い立ちを話して聞かせ、実の親の形見を渡した。
あいついで両親を失ったお照は、一人ぼっちとなってしまったが、両親の墓参りを毎日欠かすことなく続けていた。
そしてお照は、旅人から高野山燈籠堂の話を聞き、両親のあの世の幸せを祈るため、冥土の道を照らすという灯を、「奥の院」にお供えしようと決心した。
けれども、奉公先で貧しいくらしのお照は、手元に燈籠供養料は用意できなかった。
お照はいろいろと考えたすえ、女の命とまでいわれる黒髪を切って、お金にかえることにした。
かもじ職人の家で髪を切り短髪となったお照は、小さな木製の灯ろうを買い求め、形見の品と両親の位牌とともに高野山へ向かった。
お照は、ささやかな一生のうちで、最初で最後の高価な買い物であったが、この燈籠で両親の魂が救われると思うと本当に嬉しかった。
しかし、ようやくたどり着いた神谷(かみや)の里で、高野山の女人禁制の掟てを聞かされた。
一心に思いつめてきたお照は驚いて途方に暮れ、旅の疲れで、その場にうずくまってしまった。
そのとき幸いなことに、高野山から足早に下りてきた若いお坊さんに助けられた。
夢のお告げで一人の娘のことを知らされて、急ぎかけつけて来たという。
お照はお坊さんとともに女人堂まで上り、うれし涙で頬を濡らしながら、燈籠を渡し、お照の燈籠も須弥壇に並べられた。
奇しくもその日は、薮坂の長者が一万基の燈籠を寄進した法会があり、奥の院で新しい一万個の燈籠に灯がともされ、おごそかなお経の声に包まれて、幻想的な光景となった。
長者は先祖の菩提を弔うという厚い信仰から寄進を申し出たが、羨望のまなざしを浴びるうちに、今までに誰もできなかったことを成し遂げたとの気持ちが強くなっていた。
長者は、ふと万灯に目をやったとき、見知らぬ一灯に気付き、
「あの小さな灯ろうは、だれのものか。」
と、僧に尋ねた。
「あれは貧しい娘がささげました。」
と、聞いたとたん、
「いやしい女の、明かりが何になろう。」
と、立ち上がろうとした。
するとにわかに風がふきこんで、数多の燈籠が吹き消され、お堂の中は真っ暗になった。
その暗やみの中に、一つの光明があった。両親の菩提を祈り、乙女の命の黒髪で納めた孝女お照の燈籠だった。
この不思議なできごとに、長者は自分の行いを心からはずかしく思い、両手を合わせたという。
それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の燈籠堂で清い光を放っている。
その後、お照は長者の世話により、天野の里に庵をつくり、尼となった。
毎日まことのいのりをささげるお照は、いつしか天野の里人にも親しまれるようになっていった。
ある年の冬、粉雪がまう朝、お照は慈尊院への道すがら、行きだおれの老人を見つけた。
お照は、
「御仏(みほとけ)に仕える者です。どうぞ、庵においでください。」
と、抱き起こした。
すると老人は、
「かたじけない、どうかおかまいなく………。人の情(なさけ)にすがることのできない、罪深い男でござる。このたび高野山へ登り、お大師様のもとで一生を送りたいと、ここまで参った。どうか、ざんげ話をお聞きくだされ。」と
老人は長い旅の間に妻に先立たれ、困り果てたすえ槇尾山のふもとで、わが子を捨てたことを話した。じっと聞いていたお照は、源左衛門の話を思い出した。
(もしや、このお方がお父上様では………。)
と、はやる心をおさえながら、あのたんざくの和歌を静かに読んだ。
千代までも ゆくすえをもつ みどり子を…
「そ、その和歌を知っているあなたは、照女(てるじょ)………。」
「………お父上様………。」
両手をにぎる父親と娘は、この不思議なめぐり合わせをなみだを流して喜んだ。
その後、老人は高野山で僧になり、お照は天野の里で穏やかな祈りの一生を送ったという。
かつらぎ町では、お照の墓・庵の跡・父母の墓石の伝説が、ゆかしく語りつがれている。
(参考資料:和歌山の民話、新高野百景)