高野山奥の院 伊達家石塔

高野山奥の院の伊達家関係石塔と北室院、巴陵院を紹介します。

奥州仙台伊達家供養塔

奥州仙台伊達家供養塔は、和歌山県高野山奥の院18町石西にある。
三つの鳥居があり、一番左が2代藩主伊達忠宗、中央が3代藩主伊達綱宗、右側が宇和島初代藩主伊達秀宗である。
伊達忠宗(1600-1658)は、伊達政宗の二男で、2代将軍徳川秀忠の養女振姫(池田輝政の娘)と結婚し、寛永13年(1636)陸奥仙台藩伊達家の2代目藩主となった。
藩の組織や制度の整備、総検地の実施など体制の確立につとめ、「守成の名君」と評された。
万治元年(1658)7月12日に死去、家督は伊達綱宗が継いだ。墓所は仙台市青葉区の感仙院にある。
当地の五輪塔は花崗岩製で、総高約4メートルで、地輪中央には「大慈院殿前羽林義山仁公大居士」と刻されている。
伊達綱宗(1640-1711)は、伊達忠宗の六男で、万治元年(1658)仙台藩主伊達家3代目藩主となった。
しかしながら、酒色におぼれ、万治3年(1660)に幕命により退隠させられた。
隠居後は、品川隠公と呼ばれ、和歌、書画、彫刻、作刀などに打ち込んでいる。
正徳元年6月4日に死去した。(享年72歳)
五輪塔の地輪中央には、「見性院殿前羽林雄山威公大居士」と刻されている。

奥の院には、石工の名前が刻された五輪塔などの墓石がある。
関根達人氏の「墓石が語る江戸時代」によると、高野山奥の院は泉州石工や大坂石工の高い技術力を全国に示す「展示場」の役割を果たしたという。
また、石門と石鳥居に石工銘が確認できたのは、仙台伊達家の墓所に限られると記している。
初代藩主の伊達政宗は五輪塔に刻され、二代藩主忠宗と三代藩主綱宗は石鳥居に、四代藩主以降は石門に刻されているという。

伊達政宗供養塔

伊達政宗供養塔は、和歌山県高野山奥の院23町石の北東にある。
伊達政宗(1567-1636)は、安土桃山時代、江戸時代の大名で、仙台藩祖である。
永禄10年(1567)8月3日米沢城主伊達輝宗(てるむね)の長男として誕生した。
母は山形城主最上義守(もがみよしもり)の娘義姫(よしひめ)で、幼名は梵天丸と呼ばれた。
天正5年(1577)元服して藤次郎政宗と称し、天正7年(1579)三春城主田村清顕(きよあき)の娘愛姫(めごひめ)と結婚し、天正12年(1584)に家督を相続した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、徳川家康から刈田(かった)郡を与えられて60万石を領し、翌年仙台城を修築した。
南蛮との通商を行うため、支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマに派遣したが、幕府のキリシタン禁教が強化されたため目的を達することができなかった。
寛永13年(1636)5月24日に死去した。墓所は、仙台市瑞鳳殿である。
当地の中央にある五輪塔は、総高4m以上の花崗岩製で、嫡子の伊達忠宗が建立した。
墓石には伊達政宗の法名「瑞岩寺殿貞山利公大居士」が刻まれている。
周囲には、殉死した20名の家臣の五輪塔が建てられている。
仙台藩で、他の藩に較べて殉死者が多い理由について、大林昭雄氏は、概略次のように記している。(「高野山と仙台藩」)
  君子と家臣は死期を一つにすることで君臣一体の意識の相関関係が成立する。(中略)
  (仙台藩で特別に殉死者が多かったのは)不敗の伊達軍団を生んだ素地(があり)、家臣に対する精神教育の成果の一つの実証(である)



陸奥国湧谷領主 伊達宗重夫妻供養塔

陸奥国湧谷領主 伊達宗重(通称 伊達安芸)夫妻供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院30町石北の備後福山水野家供養塔の西南にある。

伊達宗重(1615-1671)は、湧谷伊達家初代 伊達定宗の次男として誕生し、成長後に天童重頼の娘を娶って婿養子となり、天童甲斐頼長と名乗った。
その後、兄の死去に伴い、実家に戻り、伊達信濃宗重と改名し、慶安4年(1651)に家督を相続して、当主代々の受領名を称して、伊達安芸宗重と名乗った。
万治3年(1660)に、仙台藩3代藩主 伊達綱宗が幕府から隠居を命じられ、2歳の嫡男 亀千代(綱村)が藩主となったが、後見役の伊達宗勝らが実権を握って専横が見られたため、伊達宗重は上訴文を幕府に提出した。
寛文11年(1671)3月27日大老 酒井忠清邸で行われた詮議の場で、宗重は家老の原田甲斐に切られて絶命し、原田甲斐もその場で切られて死亡した。
この事件は、伊達騒動(寛文事件)と言われ、原田家は断絶となったが、仙台藩はお咎めなしで、湧谷伊達家も存続した。
その後、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)という歌舞伎の演目になり、山本周五郎の小説「樅の木は残った」でも取り上げられている。

当地の供養塔は、宗重の嫡男 伊達宗元が建立したものである。
伊達宗重供養塔の地輪には、次のように刻されている。
(正面)
施主奥刕仙臺日理今者湧谷城主
伊達兵庫頭藤原朝臣宗元爲慈父
奉造立之
     為見龍院殿
(梵字) 黹藝刕太守
     徳翁収澤居士
寛文十一辛亥年
         三月廿七日
(裏面)
使者 村田勘右衛門
    富田治右衛門
奥刕仙臺城主松平陸奥守内
伊達安藝藤原宗重五十七歳
於武刕城爲主君抽忠節薨
  小田原
       宿坊 巴陵院

伊達宗重夫人供養塔の地輪には、次のように刻されている。
(正面)
     命日 元禄八乙亥十月十三日
(梵字) 長巖院殿栢室慈齢大姉
     奥刕仙臺遠田郡湧谷城主
     伊達安藝守宗元爲悲母
(右)
   使者 
      横山彌總右衛門
   宿坊
      巴陵院

当地五輪塔の西側には、湧谷伊達家供養塔がある。→ 巴陵院



湧谷伊達家供養塔

湧谷伊達家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院30町石北の備後福山水野家供養塔の西南にある。
湧谷伊達家は、初代伊達定宗、二代伊達宗重、三代伊達宗元、四代伊達村元と続く。

水原堯榮氏の「高野山金石図説」によると、東側(写真奥側)から次の墓所が記されている。
寶臺院殿圓覺要心大姉  湧谷城主伊達安藝守村元建立
爲青柳院殿芳巖涼心大姉 伊達安藝村元爲息女追善建立之
華陽院殿寶参了悟大禅定門 伊達安藝宗元次男砂金又次郎
本源院殿前信刕天巖性眞大居士 湧谷城主伊達安藝守村元建立
奉爲-------金吾 藤原朝臣宗元----爲----善也

寶臺院は、岩出山伊達家 伊達弾正宗敏娘で湧谷伊達家第四代伊達村元の母である。
宝永7年(1710)6月9日62歳で亡くなった。
華陽院(砂金又次郎重常)は、湧谷伊達家第三代伊達宗元二男で柴田郡川崎邑主 砂金四郎兵衛勝常の養嗣子となった。
本源院は、湧谷伊達家第三代伊達宗元(1642-1721)で、村元の父である。

当地供養塔の東側には、陸奥国湧谷領主 伊達宗重夫妻供養塔がある。


仙台藩 松山 茂庭家供養塔

仙台藩 松山 茂庭家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院31町石南側にあり、参道を約30m東側に入ったところで、三河岡崎本多家供養塔と筑前黒田家供養塔の北側にある。
南向き五輪塔が五基、また西向き五輪塔が五基、L字型に並んでいる。
水原堯榮氏の「高野山金石図説」によると、南向き五輪塔の各地輪について、下表の第2列のように記されている。

(西側から)

元和四歳十月廿一日
(梵字) 密林居士高吽 逆修 
奥刕茂庭石見守 
茂庭綱元
(鬼庭綱元) 
長井郡川井城主
磐井軍赤荻城主 
2  御施主奥刕松山城主茂庭周防守殿
爲慈父佐月公建立之
(梵字)慧光院殿天外獨照大居士
寛文三天八月三日 
松山茂庭家
初代当主
茂庭良元
(良綱)
(左月斎) 
磐井郡赤荻城主
松山城主 
3  御施主奥刕松山城主茂庭主水殿
爲慈父傳翁公建立之
(梵字)見性院殿前防刕
    傳翁直心大居士
寛文六天甲午正月十一日 
松山茂庭家
第二代当主
茂庭定元
(茂庭周防) 
仙台藩評定役として
伊達騒動では、
反伊達宗勝派として
奔走した。 
4  寶永三龍次丙戌年
(梵字)乾坤院殿前防刕
    燈外法燈大居士
七月二十六日卒去
(左面)
奥刕仙臺松山領主
孝子茂庭又次郎嵩元
爲慈父追善建立之 
松山茂庭家
第三代当主
茂庭姓元
(茂庭主水)
仙台藩奉行(家老) 
5  寛保二龍次壬戌歳
    佛國院殿
(梵字)凉外雄薫大居士
     六月廿九日卒去
(左面)
奥刕仙臺松山領主
孝子茂庭筑後元明
球爲慈父建立焉
松山茂庭家
第四代当主
茂庭嵩元
 

高野山金石図説(大正13年、昭和57年刊)には、当地の供養塔について、崩れている五輪の記録がある。その後修復されたものと思われる。
西向き五輪塔は、茂庭定元(周防守)の母などの供養塔がある。



北室院

北室院は和歌山県高野山往生院谷(蓮花谷)にある真言宗の準別格本山である。
創建は約1200年前で、嵯峨天皇から高野山を賜った空海が、伽藍浄域の中院を中心に、東西南北に四室の住坊を建立したと伝えられるが、その一つが北室院であったという。
その後、元禄年間(1688-1704)に、高野聖断によって改易された往生院谷の観音院の地に、火災のために焼けた北室院を移した。
本尊は、本堂に祀られている阿弥陀如来であるが、かつて壇上伽藍に寺を構えていた当時は、准胝堂に祀られていた准胝観音菩薩を本尊としていたと伝えられている。
当院は、奥州の伊達家(仙台市)、伊予宇和島の伊達家(宇和島市)、播州竜野の脇坂家(兵庫県たつの市)などの帰依を受けており、伊達政宗をはじめとする伊達家代々の位牌が安置されている。
毎年旧暦正月11日(仁王会)には、空海直筆と伝わる仏画の掛け軸「五大力菩薩」(重要文化財)が持仏堂に祀られる。
南海電鉄高野線高野山駅からバスで蓮花谷下車、徒歩5分。




巴陵院

巴陵院は、和歌山県高野町高野山の準別格本山である。
「禁裏御所坊」といわれる、皇室ゆかりの格式ある寺院である。
開基は不詳で、大永5年(1525年)後柏原天皇の第三皇子青蓮院宮尊鎮(そんちん)親王が当院に寓居し、以降小田原御所坊と称した。
創建当初は、「福蔵院」と呼ばれていたが、戦国時代から江戸時代にかけて相馬家、高木家、伊達家などの諸大名の菩提寺となった。
そして承応2年(1653年)に相馬義胤(よしたね)の法号にちなんで、「巴陵院」と寺号を改称した。
小田原谷安養院の南にあったが、昭和初期に現在地に移った。
本尊は、鎌倉時代作の阿弥陀如来である。寺宝には、親鸞直筆の「時雨の御影」、日本最古の霊石といわれる本願石などがある。
葛城修験との関係が深く、本堂には役行者像と法螺貝が安置されている。
6月第1日曜日には、紫燈大護摩が行われる。
また、円弁法師が唐船や高麗船などの貿易船の祈祷を行って以来、海上安全の祈願所になっている。
南海高野線高野山駅からバスで一心口下車すぐ。→ 伊達宗重夫妻供養塔 大光寺 しぐれ松






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