陸奥国湧谷領主 伊達宗重(通称 伊達安芸)夫妻供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院30町石北の備後福山水野家供養塔の西南にある。
伊達宗重(1615-1671)は、湧谷伊達家初代 伊達定宗の次男として誕生し、成長後に天童重頼の娘を娶って婿養子となり、天童甲斐頼長と名乗った。
その後、兄の死去に伴い、実家に戻り、伊達信濃宗重と改名し、慶安4年(1651)に家督を相続して、当主代々の受領名を称して、伊達安芸宗重と名乗った。
万治3年(1660)に、仙台藩3代藩主 伊達綱宗が幕府から隠居を命じられ、2歳の嫡男 亀千代(綱村)が藩主となったが、後見役の伊達宗勝らが実権を握って専横が見られたため、伊達宗重は上訴文を幕府に提出した。
寛文11年(1671)3月27日大老 酒井忠清邸で行われた詮議の場で、宗重は家老の原田甲斐に切られて絶命し、原田甲斐もその場で切られて死亡した。
この事件は、伊達騒動(寛文事件)と言われ、原田家は断絶となったが、仙台藩はお咎めなしで、湧谷伊達家も存続した。
その後、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)という歌舞伎の演目になり、山本周五郎の小説「樅の木は残った」でも取り上げられている。
当地の供養塔は、宗重の嫡男 伊達宗元が建立したものである。
伊達宗重供養塔の地輪には、次のように刻されている。
(正面)
施主奥刕仙臺日理今者湧谷城主
伊達兵庫頭藤原朝臣宗元爲慈父
奉造立之
為見龍院殿
(梵字) 黹藝刕太守
徳翁収澤居士
寛文十一辛亥年
三月廿七日
(裏面)
使者 村田勘右衛門
富田治右衛門
奥刕仙臺城主松平陸奥守内
伊達安藝藤原宗重五十七歳
於武刕城爲主君抽忠節薨
小田原
宿坊 巴陵院
伊達宗重夫人供養塔の地輪には、次のように刻されている。
(正面)
命日 元禄八乙亥十月十三日
(梵字) 長巖院殿栢室慈齢大姉
奥刕仙臺遠田郡湧谷城主
伊達安藝守宗元爲悲母
(右)
使者
横山彌總右衛門
宿坊
巴陵院
当地五輪塔の西側には、湧谷伊達家供養塔がある。→ 伊達政宗供養塔 仙台藩 松山 茂庭家供養塔 巴陵院
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