細川ガラシャ隠棲の地(味土野)

細川ガラシャ隠棲の地(味土野)は、京都府京丹後市弥栄町須川にある。
当地には、昭和11年4月に建設された「細川忠興夫人隠棲地」の石碑がある。
石碑横には、下記の案内板がある。

細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)永禄六年(一五六三年)明智光秀の三女として生まれる。→ 称念寺
天正六年、十六才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。→ 勝龍寺城
天正十年六月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。
光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。
玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが、「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、愁思のうちに二年の月日をこの地で過ごすこととなった。
秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。
その後キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。
しかし、平穏な日々も束の間、慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。→ 越中井
享年三十八才夏のことである。
辞世の句は有名である。
 散りぬべき時知りてこそ世の中の
    花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠興のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
 身をかくす里は吉野の奥ながら
   花なき峰に呼子鳥啼く
            玉子
 京丹後市教育委員会

石碑の横には、平成4年に再建された味土野観音の祠がある。
味土野の里は、味土野女城跡・細川ガラシャ夫人隠棲地として、京丹後市の史跡となっている。
女城跡から徒歩20分の峯の上に護衛の武士が詰めていた男城跡がある。
京丹後大宮ICから車で約40分。(道幅が狭いため対向が困難) → 細川ガラシャゆかりの地



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