大浜公園

大浜公園は、堺市堺区大浜北町にある公園である。
1879年に海浜公園として開園し、1903年には、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、東洋一といわれた堺水族館が開設された。
その他にも、公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館などもあり、関西有数のレジャー地として賑わった。
潮湯にあった家族湯の建物は、昭和10年(1935年)に河内長野市にある南天苑本館として移築され、現在は国登録文化財に指定されている。
現在は、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場、猿飼育舎などがある。
学生相撲発祥の地として知られ、大浜相撲場では現在も各種の大会が開かれている。
南海電鉄南海線堺駅から徒歩10分。有料駐車場がある。

堺大魚夜市

堺大魚夜市は、700年来の伝統行事で、堺の夏の風物詩として知られている。
住吉大社の夏越祓神事で、神輿が宿院頓宮に渡御するのに合わせて、漁師たちが魚を奉納する際、大浜海岸に魚市が立ったことに由来する。
現在は、7月31日夕方から大浜公園で開催されており、魚セリ、包丁式や様々なショーなどが行われ、多くの屋台も出店する。


旭蓮社 大阿彌陀経寺

旭蓮社(ぎょくれんじゃ)大阿彌陀経寺(おおあみだきょうじ)は、堺市にある浄土宗の寺院である。
元徳2年(1330年)、澄円(ちょうえん)上人の開山で、後村上天皇の勅願所であった。
澄円上人は、正中2年(1325年)中国廬山の東林禅寺において、中国浄土教の祖である慧遠(えおん)大師の白蓮社の念仏を学んだ。
その後、白蓮社に模して、堺の浜に精舎を建て、これを旭蓮社と称した。
帰朝に際して、優曇普度(うどんふど)禅師から慧遠大師遺愛の蓮種 廬山蓮(ろざんはす)を授けられたといわれる。
開基澄円菩薩生誕700年を記念して、毘沙門堂前で廬山蓮が育成されている。
当寺は、慧遠派念仏本山として栄えたが、第23世徹誉(てつよ)の時、京都の知恩院の支配となった。
明治維新以降、当寺は堺県の裁判所となった。
第二次世界大戦の戦災を受けたが、毘沙門堂は被害を免れ現在に至っている。
境内には、神南辺道心(かんなべどうしん)の墓がある。

神南辺道心の墓

神南辺道心(かんなべどうしん)の墓は、堺市堺区旭蓮社にある。
神南邊大道心隆光は、江戸時代の人物で俗名を弥兵衛といい、大和国生駒郡神南村の出身である。
河内国布施村あるいは東足代村の鋳物師(いもじ)といわれている。
幼少の頃は、殺傷を好み、鋳物師としての技量は良いが素行は悪く無頼漢であった。
ある時、夢の中に地蔵菩薩が現れ、今後善行を積めば地獄域から救うとのお告げを聞き、弥兵衛は仏門に入った。
諸国を行脚し各地に道標を建て、橋を架け、また多くの地蔵を建立した。
百舌鳥八幡宮境内の道標石「さかい神南邊」(文政8年(1830年)建立)や、高渚寺の千日井場所に岩喜兵衛と建てた水難者の供養碑などがある。
また、京都御室山八十八カ所の標識の再建に尽力し、御室御所から神南邊(かんなべ)と称する許しと道心号を与えられた。
京都の大仏炎上の際には、全国を行脚して寄付を募り、天保7年(1836年)嵯峨御所より錫杖を下賜、また念珠を堺奉行から贈られている。
旭蓮社門前には「塩風呂薬師佛石像 神南邊道心墓 當寺」の石碑が建てられて、墓は、道心座像の下に神南邊大道心墳と記され、本堂の西側に建てられている。

さかい利晶の杜

さかい利晶の杜は、堺市堺区宿院町西にある総合観光文化施設である。
堺が生んだ文化人である千利休と与謝野晶子を通じて、堺の歴史と文化を紹介している。
2階の与謝野晶子記念館は、みだれ髪など詩歌集や源氏物語現代語訳をはじめ社会問題や評論活動など明治、大正、昭和の時代に活躍した晶子の姿を紹介している。
1階の千利休茶の湯館は、利休と堺のまちとの関わりや茶の湯の歴史文化を展示や映像で分かりやすく紹介している。
京都府大山崎町に現存する利休作の国宝茶室「待庵」を復元した「さかい待庵」が1階にあり、申込制で茶室内に入って鑑賞することが出来る。
午前と午後各1回、観光ボランティアによる館内展示ガイドツアーが実施されている。
茶の湯体験施設では、茶室お点前体験や立礼呈茶が楽しめる。
また、カフェや和食レストランも併設されている。
阪堺線宿院駅から徒歩1分、南海本線堺駅から徒歩10分、来訪者用駐車場がある。

行基塩風呂跡

行基塩風呂跡は、堺市堺区にある。
行基菩薩が井戸を掘り、薬師如来の石佛を沈め祀ると、辺りの井戸は真水であったのに塩水が湧き出した。
沸かし塩風呂とすると病に効くと評判になった。この湯が堺の塩風呂の最初である。
この風呂が後に八万貫屋宗徳、妙徳夫婦の所有となっていた。
文亀2年(1502年)正月3日の妙徳の夢枕に毘沙門天が立ち、霊験あらたかな井戸は個人で持つものでは無い、井戸は枯れるとお告げがあった。
八万貫夫婦はその宅地と井戸を旭蓮社に寄進し、毘沙門堂を建て、弘法大師作と伝わる高さ6寸の毘沙門天尊像を祀った。
旭蓮社門前の石碑には、「塩風呂薬師佛石像當寺」と書かれている。
天正年間に豊臣秀吉も堺の塩湯の評判を聞き、有馬温泉でも良くならなかった皮膚病の治療に入浴し治癒したという。
堺市利晶の杜ロビーの床大絵図に「塩フロ」「塩風呂丁」と書かれており、和食サト宿院店東側の大町町名石碑にも塩風呂の記載がある。



開口神社

開口神社は、堺市堺区にある神社である。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、忍熊王を討った時、当地の漁夫が赤目魚を皇后に献上した。
皇后は、吉兆と喜び、当地開口村に塩土老翁神(しおつちおじのかみ)を祀ったのが、当神社の起源といわれている。
この神はそれまで口を開けたことがなかったが、神功皇后が神饌を奉ったところ、初めて口を開いたと言われ、神社の名はこの伝えに由来する。
1113年に木戸村の生國魂神(いくたまのかみ)、原村の素戔嗚神(すさのおのかみ)を合祀して、「三村大明神」と称され、信仰が広まった。
祭神の塩土老翁神は、海上交通の神で住吉大社と関係があったことから、住吉奥の院、外宮と呼ばれた。
堺市博物館所蔵の元禄2年(1689年)堺大絵図(模写)では、大寺と表記されており、堺の総氏神として、「大寺さん」と呼ばれている。
この通称は、当地に行基が念仏寺を建立し、その通称が「大寺」であったためで、廃寺となった後も、堺の人々は「大寺さん」と愛着を込めて呼んでいる。
明治時代には、本神社境内に、堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園が置かれ、記念碑が建てられている。
また境内西側には、海会寺跡金龍井戸が残されている。
南海本線堺駅から徒歩10分。阪堺電車阪堺線宿院駅から徒歩5分。



海会寺

宿松山海会寺は、堺市にある臨済宗東福寺派の寺院である。
元弘2年(1332年)、前太政大臣洞院公賢が大檀越となって海会寺を創建し、東福寺の開山聖一国師三世の乾峯士曇(けんぼうしどん)を開祖として招いた。
当時は、開口神社の西門前にあり、300石の寺領、6ケ寺塔頭を有していた。
この開口神社付近の旧地には、泉南第一の名泉といわれた金龍水(こんりゅうすい)という乾峯士曇ゆかりの井戸が残っており、現在の甲斐町山ノ口筋を海会寺前というのは、この旧称を伝えたものである。
あるとき旱魃となり、鬼面龍神に祈ると、白髪老人が現れ、鶴の羽を地上に敷き露が多く浮かんだところを掘るべしと言ったため、そこを掘ると金龍水が湧き出たといわれている。
金龍井は、徳川時代から大正時代に亘り、豆腐製造に適し、豆腐屋井戸の異名を残した。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で焼失した後、南宗寺の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)の助力により、現在の地に再興された。
江戸時代初期に建築本堂及び庫裏は、一棟建てという珍しいもので、一体となっている。門廊とともに、国の重要文化財に指定されている。
本尊は阿弥陀如来で、入母屋造りの本堂南側には方丈石庭「指月庭」がある。
牡丹花詩集は、文和5年(1356年)に、円覚寺の第25世を継いでいた乾峯士曇が牡丹を賞でたところ、各地の禅寺の詩友が七言律詩で唱和してくれたので、その盛事を清書させ、士曇自ら「牡丹詩序」を書き一帖としたもので、堺市指定有形文化財となっている。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した臨済宗の僧、文栄清韓(ぶんえいせいかん)は大坂の陣のもとになった方広寺の鍾銘「国家安康、君臣豊楽」を書いた人として知られ、当寺の住職時の墨蹟屏風が残されている。
内部は、春と秋の堺文化財特別公開期間中に参観できる。
阪堺電気軌道阪堺線御陵前駅下車、徒歩5分。

超善寺

法界山超善寺は、堺市堺区にある浄土宗の寺院である。
天正年間(1573-1591)住蓮社存誉貞公上人が開基した。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の時に、第二世の念蓮社専誉は弟子とともに大和に逃れ、塔頭長泉庵の浄専は、本尊阿弥陀如来を背負って河内大ケ塚にある末寺の善性寺に逃れた。
そして現在地の堺区熊野町東5丁に専誉が再建したものである。
堺市と友好都市提携を結んでいる中国連雲港市の王宏喜美術協会主席揮毫の本堂襖絵・屏風「三国聖賢図」12面、田室幾郎画伯の「現代地獄極楽画」2面が所蔵されている。
境内には超善寺井戸跡の石碑が建てられている。
超善寺では、「水超」と呼んでいたが、秀吉は「泉勝水」、家康は「湛泉水」と名付けたと伝わる。
堺一番の名水と評判で宅酒造や辰巳酒造の酒造りにも使用されていた。
井戸は、現在の熊野小学校の校庭にあった。今は井桁のみが境内に保存されている。
春には樹齢30年以上の桜30本が境内一面に咲き、堺屈指の桜の名所として知られている。
南海高野線堺東駅下車徒歩7分。



史跡三國山遍照光院 向泉寺閼伽井跡 

史跡三國山遍照光院 向泉寺閼伽井跡は、堺市にある。
行基は、天平15年(743年)、聖武天皇の命で方違神社の南側に勅願寺院向泉寺を開基した。
行基は、まず閼伽井を得ようとして一泉を堀り、これに向かって金堂その他諸堂堂宇と多くの学僧を擁する大寺院を建てた。
この地は摂津、河内、和泉三ヶ國の界に位置していたので三國山遍照光院と号し、堂宇が泉に向かっているので向泉寺と名づけた。
また、この寺が和泉の國に向かっているので向泉寺と称したともいわれている。
閼伽井は、境王子、方違神社、東原天王(向井神社)の三社の祭祀用水に用いられ、また諸病に霊験ありといわれた。
しかし、永正年間(1504-1520)に寺は兵火に遭い、市中に移った後は訪れる人も減り、享保年間(1716-1735)に廃寺となった。

旧天王貯水池

旧天王貯水池は、堺市堺区にある史跡である。
明治43年(1910年)に建設され、約50年間上水道配水池の役割を担った。
当時の最新建材レンガを用い、正面入口には水道施設の先進地であったヨーロッパの建築の古典様式にならって凱旋門風のデザインを採用している。
内部は、点検用の通路をはさみ、両側に貯水槽が作られている。また、貯水槽の周りには土を盛り上げて、直射日光を遮ることで、細菌の繁殖を防ぎ、水質の安全を図っていた。
当時のデザインと施工技術を知ることが出来る施設で、国の登録有形文化財となっている。
南海高野線堺東駅から徒歩10分。

方違神社

方違神社は、堺市堺区北三国ヶ丘町にある神社である。
祭神は、八十天万魂神(天神地祇)、素戔嗚命、三筒男大神(住吉大神)、息気長足姫命(神功皇后)の四神である。
社伝によると、崇神天皇の勅願により創建されたと伝えられる。
このあたりは、律令制下の摂津、河内、和泉の三国の境に位置していたため、「三国山」「三国の衝」「三国丘」と称されていた。
三国の境界にあるため、方角のない聖地と考えられ、古来からこの神社で方祟りの厄災が除かれると言われて、引越や旅行の際に多くの参拝者が訪れている。
毎年5月31日の例大祭「粽祭(ちまきまつり)」には、悪い方位を払うという、菰の葉で埴土(境内の土)を包んだ粽を奉納する神事が行われている。
南海電鉄高野線堺東駅徒歩10分、参拝者用の駐車場がある。


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