常高院墓所は、福井県小浜市常高寺境内にある。
常高院栄昌尼は若狭領主、京極若狭守高次の妻 お初の方で、浅井長政を父とし、織田信長の妹お市の方を母として小谷城で生まれた。
姉は、豊臣秀吉の側室 淀殿で、妹は徳川幕府2代将軍秀忠の妻 お江(小督)である。
お初の方は、寛永7年(1930)に常高寺を建立後、寛永10年(1633)8月27日に京極家の江戸屋敷で亡くなり(67歳)、遺体は塩漬けにされて小浜城に帰り、常高寺での葬儀の後荼毘に付され、当地に埋葬された。
墓石は高さ4mの砂岩製宝篋印塔で、法名の常高寺殿松岩栄昌大姉が刻されている。
宝篋印塔を中心に七人の侍女の墓と常高寺に得度した多数の尼僧の墓がある。
小和田哲男氏監修の「江史跡紀行」によると、お初の慈悲深く温かい人柄ゆえに、身近に使えた侍女が多数いたという。
その中でも、特に小少将、新太夫、小宰相、多芸(たき)、志毛、知也保(ちやほ)、揚琳、祖旭の八人が知られており、
小宰相を除く七人は、常高院没後に出家し、江戸から小浜に戻って尼屋敷に住んだが、京極家の出雲移封後に小浜藩主となった酒井忠勝の配慮で、栄昌院を総称する持仏堂と七院からなる寺院を営んだ。
明治維新となり京極家の支援が絶えたことから、栄昌院を守っていた後継尼僧は、常高院の位牌とともに丸亀の玄要寺へ移ったが、当時京極家は神道に代わり、その影響で尼僧も還俗した。
しかし、その中の3人は、当時の玄要寺の住職 南隠和尚出身の縁を頼りに岐阜県伊自良村へ常高院の位牌を奉じて移り、一寺を建立し、旧来どおりの常高寺の法類「後瀬山栄昌院」と名づけた。→ 浅井三姉妹ゆかりの地
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期