高野山奥の院 加賀前田家石塔

前田利家と妻まつの宝篋印塔

前田利家と妻まつの宝篋印塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院29町石の南西約20mの参道から約10m北側に建てられている。

前田利家(1538-1599)は、安土桃山時代の武将で、加賀藩初代藩主である。
尾張国荒子城主前田利春の次男で、幼名は犬千代、元服後に孫四郎と称し、のち又左衛門(またざえもん)と改めた。
天文20年(1551)に織田信長に仕えて武勇を誇り、「槍の又左衛門」と呼ばれた。
天正3年(1575)越前平定後柴田勝家のもとで佐々成政、不破光治とともに府中三人衆と呼ばれた。
天正10年(1582)本能寺の変の後、羽柴秀吉と柴田勝家との対立時には、秀吉側につき加賀金沢城主となった。
豊臣政権下では五大老の一人となり、秀吉の死後は、豊臣秀頼の後見として活躍したが病に冒され、慶長4年(1599)3月3日に大坂城内で死亡した。
墓所は、石川県金沢市の野田山墓地、宝円寺にある。(法名 高徳院殿桃雲浄見大居士)
墓石には、次のように刻されている。
  慶長二二秊己亥
  高徳院殿前亞相
  爲
  桃雲見公大居士菩提
  閏三月初三日

妻まつ(1547-1617)は、尾張国海東郡沖島で、篠原一計の娘として生まれ、父の死後母が再婚したため、母の妹が嫁いでいた、尾張荒子城主前田利昌に養育された。
永禄元年(1558)数え年12歳で前田利家に嫁ぎ、二男九女を産み、前田利家の病死後、まつは出家し、芳春院と号した。
その後、自ら人質となって江戸に行き、14年間を江戸城で過ごし、長男利長の死後金沢に戻り、元和3年に死去した。
当地の宝篋印塔は、いずれも芳春院が夫の供養のためと自身の逆修のため建立したもので、上部が一部欠損した芳春院の墓石には次のように刻されている。
  慶長四秊 己
  芳春院殿 亥
  爲御逆修
  華(?)胤芳春
  六月十五日

南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩10分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。
 


加賀前田家供養塔

加賀前田家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院31町石の北にあり、現地の案内板には、加賀前田家二代利長墓所と書かれている。
奥の院の五輪塔の中で三番目の大きさで、三番石と呼ばれる。参道を挟んで向かい側には、前田利長夫人永姫(えいひめ)の五輪塔がある。
前田利長(1562-1614)は、安土桃山時代、江戸時代初期の武将である。
前田利家の長子で、母はまつ(芳春院)、加賀前田藩の第二代藩主である。
初名は、利勝、その後、犬千代、孫四郎と称した。
父の利家とともに、織田信長、豊臣秀吉に仕えて、各地に転戦した。
慶長3年(1598)家督を継ぎ、翌年、父利家の死に伴い、豊臣家五大老の一員となったが、関ヶ原の戦には東軍に属して、所領を安堵された。
その後、加賀、越中、能登の所領は120余万石となり、外様大名では最高録の大名となった。
慶長10年(1605)には、家督を異母弟の利常に譲り、慶長19年(1614)5月20日に没した。(享年53歳)
前田利長の墓所は、富山県高岡市の瑞龍寺などにある。
高野山奥の院の前田利長五輪塔は、慶長20年6月に前田利常が造立したものである。



加賀金沢前田利長夫人供養塔

加賀金沢前田利長夫人供養塔は、和歌山県高野山奥の院31町石北側にある。
現地案内板には「加賀前田利長夫人墓所」と記されている。
前田利長は、加賀前田藩第二代藩主で、織田信長の娘 永姫(えいひめ)は、7歳で利長に嫁いだ。
元和9年(1623)に、享年50歳で没した。
墓所は、金沢市野田山墓地、金沢市玉泉寺にある。
慶長19年(1614)の前田利長死去に伴い、元和2年5月に利長三回忌を迎えることなったが、
永姫は、元和2年(1616)2月に逆修をして、前田利長供養塔と参道を挟んで向かいの当地に、自身の供養塔を建立したものである。


加賀前田家供養塔(利常他)

加賀前田家供養塔(利常他)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院一の橋を渡って18町石西約20mの参道北側にあり、宇和島藩伊達家供養塔(墓所)に隣接している。
加賀前田藩第2代藩主前田家第3代前田利(微妙院殿)、第3代藩主前田光高(陽廣院殿)、光高の正室(清泰院殿)の五輪塔3基が玉垣区画内にある。
光高の正室は、第3代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘 大姫である。 
区画入口には、第4代綱利(後に綱紀に改名)室摩須姫供養塔がある。
いずれの供養塔も、寛文元年(1661)に第4代前田綱利によって建立された。


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