契沖阿闍梨供養塔

契沖阿闍梨供養塔は、和歌山県高野山奥の院の御供所西側にある。
契沖(1640-1701)は、江戸時代の古典学者、歌人、僧侶で、俗姓は下川氏。
近江国(滋賀県)下川家の出で、祖父元宜(もとよし)は加藤清正の家老で、父元全(もとさだ)は尼崎青山氏に仕えた。
生まれたのは、現在の兵庫県尼崎で、11歳で出家し、大坂今里妙法寺、高野山東室院で修業した。
23歳で大坂曼荼羅院の住職となり、24歳で阿闍梨位を得た。
39歳で妙法寺住職となり、51歳から高津円珠庵(えんじゅあん)で過ごした。
元禄14年1月25日に62歳で亡くなった。墓所は、円珠庵と妙法寺にある。
本居宣長は、「玉かつま」の中で「わが古学は契沖、はやくそのはしりを開けり」と記して、「古学の祖」、国学の先駆者として敬意を表している。
水原堯榮氏は、「高野山金石図説」で、契沖碑銘と高野山の国文学と題して次の文を載せている。
   碑銘に、(梵字ア)契沖阿闍梨墓と表面に記し、外にこの碑建立の由を述べたり、
   碑文は、裏面に八行、二十七字、右側に一行(図版参照文字判明を缺く)
   文中、阿闍梨百五十回の追資の爲め、弘化四年(1847)の秋、杉皮庵法眼摂津顕井廣出の建てたもので、
   高さ五尺二寸、幅八寸五分、横幅六寸三分、高さ二尺三寸二分の碑で、西門院の管理の墓所、奥の院御供所前にある。
水原氏は、契沖が高野山東室院快賢のもとで修業し、国文学の蘊蓄と明治維新革新の思想観念が高野山で育まれたと記している。
南海電鉄高野線高野山駅から南海バス「奥の院前」下車、徒歩20分。乗用車の場合は、中の橋の無料駐車場を利用する。 → 布忍神社 


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