大阪ぶらり歴史探訪 大阪6000年 悠久の大地を知る
玉造稲荷神社は、大阪市中央区にある神社である。
主神は、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)で、相殿に、下照姫命(しもてるのひめのみこと)、稚日女命(わかひるめのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)を祀っている。
創祀は、垂仁天皇18年(紀元前12年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉作部の居住地となっていた。昭和61年(1986年)には境内東側に難波・玉造資料館が建てられ、古代玉遺物、古新羅時代の首飾りなどが展示されている。
その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子(厩戸皇子)は、当神社で戦勝祈願し、戦乱後に自ら観音堂を建立したと言われている。
近世では、大坂城の鎮守神として、豊臣秀頼や淀君から厚く崇敬された。
境内には、豊臣秀頼寄進の石鳥居が残されている。この鳥居は、大坂夏の陣と第2次世界大戦の戦禍を経て、平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で基礎を損壊したため、境内北側に上半部が保存されている。
玉造神社から南西の玉造禰宜町(玉造2丁目)に、千利休の屋敷があったことから、境内には、千利休居士顕彰碑や「利休井」がある。
大阪市営地下鉄中央線の森の宮駅下車、徒歩5分。
越中井 細川忠興夫人秀林院殉節之遺址 は、大阪市中央区にある史跡である。
大阪城の南の旧越中町は、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の邸があったところで、越中井とは邸内にあった井戸のことである。
慶長5年(1600年)、関ケ原合戦の始まる直前、石田三成は、徳川家康方についた在阪諸大名の夫人を人質として、大坂城内に監禁しようとした。
真っ先に関東に遠征中の細川忠興の夫人を要求したが、ガラシャ夫人はこの命令に従わず、家臣 小笠原少斎秀清に長刀で胸を突かせて死んだ。
キリスト教徒であったため自害が出来なかった。その時、邸に火を放ち、唯一残ったのが「越中井」である。
細川ガラシャは、明智光秀の娘で本名は玉、天正15年(1587年)に侍女 清原いとの助けで洗礼を受けた。
本名の玉に因んで、ラテン語のGRATIA(恩寵)から洗礼名をガラシャ(伽羅奢)と称した。
宣教師のルイスフロイスは、細川ガラシャのことを「繊細な才能と、天稟の博識において超人的であり、どの日本人女性よりも優れていた」と記している。
井戸の横の記念碑は、昭和に入って、大阪市婦人連合会によって建立された。碑には、侍女 霜と「おく」の2名によって伝えられたガラシャ夫人の辞世が刻まれている。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
花は、ガラシャ夫人の好きだった桜を指しているといわれている。
田端泰子氏の「細川ガラシャ」によると、ガラシャ夫人の死の翌年、慶長6年8月に、細川忠興はオルガンティノ神父に依頼して、大坂の教会で葬儀を行ったという。→ 崇禅寺
大阪市営地下鉄中央線森ノ宮駅下車、徒歩10分。→ 勝龍寺城 高桐院