境野一号墳 明智光秀本陣跡

境野一号墳、明智光秀本陣跡は、京都府乙訓郡大山崎町にある。
境野一号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳で、4世紀後半に築造された。
発掘調査の結果、全長58m、後円部径32mの規模となっている。
斜面は、後円部が二段か三段、前方部は二段に築かれている。
斜面には葺石を施し、平坦部には円筒埴輪が樹立され、後円部から車輪石、石釧(いしくしろ)などが出土している。

境野一号墳の場所は、本能寺の変の後、天正10年(1582)6月13日の山崎の合戦の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。
「太閤記」の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、周辺の地形を考慮すると、境野一号墳が本陣に利用されたという。
古墳のある場所は標高25.2メートルで、周辺と比べると高くて視界が開けるのがわかる。
発掘調査では、空堀り跡とみられる遺構が複数発見され、火縄銃の鉄砲玉も出土している。
合戦は、羽柴秀吉軍の勝利に終わった。敗れた明智光秀は、勝龍寺城から坂本城に向かう途中、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最期を遂げた。
阪急電鉄京都線西山天王山駅下車、徒歩約20分。



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