伝説三作石子詰之旧跡

伝説三作石子詰之旧跡は、奈良市の興福寺菩提院大御堂境内にある。
五重供養塔前の案内板には、次のように記されている。

興福寺十三鐘傳説石子詰について
この一帯は、菩提院と云い、別名十三鐘とも云います。→ 妄想オムライス 十三鐘
日本最初の大御堂(本堂)は今から千二百余年前 玄昉僧上の建立と伝えられます。その後、火災に逢い現在の堂は正親町天皇の御建立であります。
御本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)です。
ある日 興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人、三作が、習字中に使用していた(けさん=文鎮)を鹿に向かって投げました。
ところがこの一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。
当時、春日大社の鹿は、神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は子供と云えども許されることなく、
三作小僧の年、13才にちなんだ一丈三尺の井戸を掘り、三作と死んだ鹿を抱かせて井戸の内に入れ、石と瓦で生埋になりました。
三作は早く父親に死別し、母一人、子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの七つ(午前四時)、暮の六つ(午後六時)に鐘をついて供養に努めましたところ、
四十九日目にお墓の上に観音様がお立ちになられました。
その観音様は現在大御堂内に稚児観世音として安置されています。
子を思う母の一念せめて私が生きているあいだは線香の一本も供える事が出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華(こうげ)を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。
当世いづこの地へ行っても「鹿に紅葉」の絵がありますのも石子詰の悲しくも美しい親子愛によって、この地より発せられたものであります。
又奈良の早起は、昔から有名で自分の家の所で鹿が死んでおれば前述のような事になるので競争したと云われます。今でも早起の習慣が残っています。
同境内地に石亀がありますのは「三作の生前は余りにも短命で可愛そうであった次に生まれる時は亀のように長生できるように」との願いにより、その上に五重の供養塔を建てられたものであります。
南側の大木は銀杏とけやきの未生の木ですが、母親が三作を抱きかかえている様であると云われています。
何時の世にも親を思う心は一つ、こうして、三作石子詰の話がこのお寺にも伝わっているのです。

近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」の初演時の番付などに記された外題の角書には、「十三鐘/絹懸柳」と記されており、大和の名所旧跡や伝説が取り入れられている。→ 十三鐘 衣掛柳 
二段目 鹿殺しの段、芝六忠義の段では、鹿殺しの「犯人」として、三作が登場し、次のように語られる。
「ヤア成敗極まる科人に返らぬ繰り言。今宵のうちは寺中の法事、
明け六つの鐘撞くを合図に、山下(やまもと)の土中を掘って石子詰めの刑罰、
ムムもはや七つ、もう一時、刻限移る」と引き立つる → 妹背山婦女庭訓ゆかりの地

古典落語の「鹿政談」(桂米朝)では、奈良の早起きが次のように紹介されている。
昔の、三都の名物というものを詠んだ歌がございまして、つまり江戸と京都と大阪の名物を並べたんですな。(中略)
さらにちょっと離れた奈良へ行きますというと、これはもうなんというても大仏つぁんで。大仏に、鹿の巻き筆あられ酒、春日燈籠町の早起き、てなことを言いまして、
町の早起きが名物の中にはいってましたやが、これにも理由があることなんで。(後略)
(出典 米朝落語全集 第三巻) → 鹿政談



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