妹背山婦女庭訓ゆかりの地
文楽 歌舞伎 「妹背山婦女庭訓」のゆかりの地を紹介します。
興福寺菩提院大御堂(通称 十三鐘)は、奈良市高畑町にある。
菩提院(ぼだいいん)とは、現存する興福寺の子院の一つで、法相宗を中国から伝えた玄昉(げんぼう)や平安時代の学僧である蔵俊が住んでいたと言われている。
北側にある案内板には、玄昉僧正(?-746)の菩提を弔う一院として造営されたとものであろうと記されている。
昭和時代に行われた発掘調査の結果、大御堂(おおみどう)が建てられたのは、鎌倉時代に入ってからであることが判明した。
現在の建物は、天正8年(1580)の再建で、正面桁行5間、本瓦葺で、正面には向拝(ごはい)がついている。
大御堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)、稚児観音菩薩立像などが安置されている。
鐘楼に掛かる梵鐘は永享8年(1436)の鋳造で、かつて昼夜十二時(とき)(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ツと六ツの間 午前5時)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘(じゅうさんがね)」の通称でも親しまれている。
大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年 三作(さんさく)を石子詰(いしこづめ)の刑に処したと伝承される塚がある。→ 伝説三作石子詰之旧跡
元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して、浄瑠璃「十三鐘」を記している。→ 妄想オムライス 十三鐘
大御堂南側には、ナンジャモンジャの木(正式名 ひとつばたご)が植えられている。
高さ20m以上にもなるモクセイ科の落葉高木で、5月ころ円錐花序に白花(花冠は4深裂し、裂片は、長さ2cmの線形)をつける。
伝説三作石子詰之旧跡は、奈良市の興福寺菩提院大御堂境内にある。
五重供養塔前の案内板には、次のように記されている。
興福寺十三鐘傳説石子詰について
この一帯は、菩提院と云い、別名十三鐘とも云います。→ 妄想オムライス 十三鐘
日本最初の大御堂(本堂)は今から千二百余年前 玄昉僧上の建立と伝えられます。その後、火災に逢い現在の堂は正親町天皇の御建立であります。
御本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)です。
ある日 興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人、三作が、習字中に使用していた(けさん=文鎮)を鹿に向かって投げました。
ところがこの一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。
当時、春日大社の鹿は、神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は子供と云えども許されることなく、
三作小僧の年、13才にちなんだ一丈三尺の井戸を掘り、三作と死んだ鹿を抱かせて井戸の内に入れ、石と瓦で生埋になりました。
三作は早く父親に死別し、母一人、子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの七つ(午前四時)、暮の六つ(午後六時)に鐘をついて供養に努めましたところ、
四十九日目にお墓の上に観音様がお立ちになられました。
その観音様は現在大御堂内に稚児観世音として安置されています。
子を思う母の一念せめて私が生きているあいだは線香の一本も供える事が出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華(こうげ)を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。
当世いづこの地へ行っても「鹿に紅葉」の絵がありますのも石子詰の悲しくも美しい親子愛によって、この地より発せられたものであります。
又奈良の早起は、昔から有名で自分の家の所で鹿が死んでおれば前述のような事になるので競争したと云われます。今でも早起の習慣が残っています。
同境内地に石亀がありますのは「三作の生前は余りにも短命で可愛そうであった次に生まれる時は亀のように長生できるように」との願いにより、その上に五重の供養塔を建てられたものであります。
南側の大木は銀杏とけやきの未生の木ですが、母親が三作を抱きかかえている様であると云われています。
何時の世にも親を思う心は一つ、こうして、三作石子詰の話がこのお寺にも伝わっているのです。
近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」の初演時の番付などに記された外題の角書には、「十三鐘/絹懸柳」と記されており、大和の名所旧跡や伝説が取り入れられている。→ 衣掛柳 妹背山
二段目 鹿殺しの段、芝六忠義の段では、鹿殺しの「犯人」として、三作が登場し、次のように語られる。
「ヤア成敗極まる科人に返らぬ繰り言。今宵のうちは寺中の法事、
明け六つの鐘撞くを合図に、山下(やまもと)の土中を掘って石子詰めの刑罰、
ムムもはや七つ、もう一時、刻限移る」と引き立つる
古典落語の「鹿政談」(桂米朝)では、奈良の早起きが次のように紹介されている。
昔の、三都の名物というものを詠んだ歌がございまして、つまり江戸と京都と大阪の名物を並べたんですな。(中略)
さらにちょっと離れた奈良へ行きますというと、これはもうなんというても大仏つぁんで。大仏に、鹿の巻き筆あられ酒、春日燈籠町の早起き、てなことを言いまして、
町の早起きが名物の中にはいってましたやが、これにも理由があることなんで。(後略)
(出典 米朝落語全集 第三巻) → 鹿政談
猿沢池は、奈良市登大路町にある。
面積は7200㎡、周囲約300mで、興福寺の放生池(魚などを放して功徳を得る儀式のための池)としてつくられた。
池畔から興福寺五重塔を見上げた景色は、奈良の代表的景色として知られている。
池の北西にある采女神社は、天皇の寵愛を失って猿沢池に身を投げた女官を祀っており、謡曲「采女」の題材ともなっている。
池の南東には、采女が入水するときに着物を掛けたと伝えられる衣掛柳がある。
毎年秋の仲秋の名月の夜には、池に花扇を浮かべて采女祭りが行われる。
池畔の案内板には、猿沢池の七不思議として、「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚七分に水三分」との言い伝えが紹介されている。
また桂米朝氏「米朝ばなし上方落語地図」では、落語「猿後家(さるごけ)」で、この後家さんの前では「さる」が禁句のため、猿沢池を「さむそうの池」として次のように語られている。
「魚半分、水半分、そこは竜宮まで届くような深い池で、だれが見てもゾーとさむけを催しますので”さむそうの池”と。」
采女神社は、奈良市樽井町にある春日大社の末社である。
祭神は、采女命(うねめのみこと)で、奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が猿沢池に身を投げ、この霊を慰める為に祀られたといわれる。
猿沢池の東側には、采女が入水する際にその衣をかけたという衣掛柳の石碑がある。
平安時代の歌物語「大和物語」百五十段には、采女の物語が次のように書かれている。
昔、ならのみかどにつかうまつる采女ありけり。かほかたちいみじうきよらにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。
そのあはぬ心は、みかどをかぎりなくめでたき物になむ思(ひ)たてまつりける。みかど召してけり。
さて、のち又も召さざりければ、かぎりなく心うしとおもひけり。(中略)
なほ世に経(ふ)まじき心ちしければ、夜みそかに、さるさはの池に身を投げてけり。
(出典 校注古典叢書新装版「大和物語」)
「元要記」によると、弘仁年間(810-824)興福寺南円堂鎮壇の時、人夫のなかの青衣の女人が池の方に逃げ去って行方が分からなくなり、藤原久嗣の八男 良世が西向きの社を建立し、興福寺興南院の快祐が勧請したと伝える。
現在でも小祠が西向きに立っており、背後の池側に鳥居がある。
そのため、采女が入水した池を見るのは忍びないと一夜のうちに御殿が背を向けたとも言われている。
その後、室町時代に、采女の物語にちなんだ能「采女」を世阿弥が創作した。
鳥居南側には、「謡曲「采女」と采女への哀悼歌」と題した謡曲史跡保存会の案内板があり、大和物語にも載せられている哀悼歌が紹介されている。
采女への哀悼歌
我妹子(わぎもこ)が 寝くたれ髪を猿沢の
池の玉藻と見るぞかなしき (柿本人麻呂)
(あのいとしい乙女の寝乱れた黒髪を、今猿沢の池の美しい水藻として見るのは、本当に悲しいことだ。)
猿沢の池もつらしな我妹子(わぎもこ)が
玉藻かつかば水もひなまし (帝)
(猿沢の池を見るのは恨めしい。あのいとしい乙女が池の水藻の下に身を沈めたなら、いっそ水が干上がってしまってくれればよいのに。そうすれば采女は死なないですんだろうに。)
「かづく(被づく)」は、頭にかぶるの意味である。
近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、初演時の番付などに記された外題の角書に「十三鐘/絹懸柳」と記され、采女伝説が形を変えて巧みに取り入れられており、
二段目 猿沢池の段では、次のように語られる。
世の憂さは尊(たか)き卑(ひく)きも亡き魂の、雲隠れせし思ひ人、采女の局の跡慕ひ、勿体なくも万乗の、帝の嘆き浅からず、(中略)
「この辺りが猿沢池なるか」と仰せに、官女進みより
「この間久我之助清舟奏聞申せし通り、采女様入水の跡、猿沢池にて候」
と申し上ぐれば 今更に朝な夕なに傅(かしづ)きし、采女の事の思はれて、御涙こそ限りなし(後略)
采女祭
采女神社の例祭 「采女祭(うねめまつり)」は、仲秋の名月の日に行われる。
近年は、奈良市の姉妹都市である福島県郡山市から選ばれたミスうねめも参加している。
「花扇奉納行列」のあと、采女神社本殿で祭典が挙行され、月明かりが猿沢の池に映る頃、「管弦船の儀」として龍頭船に花扇を移し鷁首(げきしゅ)船と共に二隻の船が幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る。
最期には、花扇を池中に投じて采女の霊を鎮め、同時に人々の幸せを祈る雅な行事である。
衣掛柳の石碑は、奈良市登大路町猿沢池東畔にある。
猿沢池は、興福寺が放生会の儀式に用いる放生池として造成したもので、多くの伝説や逸話が伝えられており、帝の寵愛を受けられなくなった采女が悲しみのあまりに身を投げた「采女伝説」がよく知られている。
猿沢池西畔には、池に背を向ける形で采女神社が鎮座しており、池の東側の当地には、采女が入水する際にその衣をかけたという衣掛柳の石碑がある。
平安時代の歌物語「大和物語」百五十段には、采女の物語が次のように書かれており、能「采女」の題材ともなっている。
昔、ならのみかどにつかうまつる采女ありけり。かほかたちいみじうきよらにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。
そのあはぬ心は、みかどをかぎりなくめでたき物になむ思(ひ)たてまつりける。みかど召してけり。
さて、のち又も召さざりければ、かぎりなく心うしとおもひけり。(中略)
なほ世に経(ふ)まじき心ちしければ、夜みそかに、さるさはの池に身を投げてけり。
(出典 校注古典叢書新装版「大和物語」)
近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、初演時の番付などに記された外題の角書に「十三鐘/絹懸柳」と記され、采女伝説が形を変えて巧みに取り入れられており、
二段目 猿沢池の段では、次のように語られる。
世の憂さは尊(たか)き卑(ひく)きも亡き魂の、雲隠れせし思ひ人、采女の局の跡慕ひ、勿体なくも万乗の、帝の嘆き浅からず、(中略)
「この辺りが猿沢池なるか」と仰せに、官女進みより
「この間久我之助清舟奏聞申せし通り、采女様入水の跡、猿沢池にて候」
と申し上ぐれば 今更に朝な夕なに傅きし、采女の事の思はれて、御涙こそ限りなし(後略)
苧環塚(おだまきづか)は、奈良県桜井市にある。
古事記の「崇神天皇 (三) 三輪山伝説」に次の物語が記されている。
三輪山付近に活玉依媛(いくたまよりひめ)という美しい姫がいて、毎夜通う男がおり、やがて姫が懐妊した。
姫の両親は、男の正体を知るため、寝床のあたりに赤い土をまき、苧環の糸の端を針に通して、男の着物の裾に刺しておくように娘に伝えた。
翌朝、その糸の端は三輪山にまで達しており、あとに三輪だけが残っていた。
姫はここで初めて男が神のみこと(大物主神)と知り、残りの糸を土に埋めたという。
それが、当地の苧環塚といわれている。
塚の横には、「縁結び 赤糸の小道 周遊ルート」の案内図がある。
近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」の初演時の番付などに記された外題の角書には、「十三鐘/絹懸柳」と記されており、大和の名所旧跡や伝説が取り入れられている。→ 衣掛柳 妹背山
四段目 「道行恋の苧環」では、苧環が取り上げられ、次のように語られる。
端に縫うてふ取り交す 縁の苧環いとしさのあまりて三輪も悋気の針、男の裾に付くるとも、知らず印の糸筋を慕ひ慕うて、
さらに、「姫戻りの段」でも、次のように苧環と法華寺横笛堂が登場する。→ 法華寺
「この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様。もう目が見えぬ、懐かしい、恋しい恋しい」
と言ひ死にゝ、思ひの魂の糸切れし。苧環塚と今の世まで、鳴り響きたる横笛堂の因縁かくと哀れなり
(出典 日本古典文学全集 77浄瑠璃集ほか)
妹背山(妹山 背山)は、奈良県吉野町にある。
吉野川を挟んで右岸に妹山、左岸に背山が相対する。
妹山(いもやま)は、竜門川と津風呂(つぶろ)川が本流へ注ぐ中間地域、大字河原屋にある小孤立丘陵で円錐形の山容を示し、標高は260mである。
背山(せやま)は大字飯貝(いいがい)に属し、紀伊山脈からの支脈の末端で標高は272mである。
妹山は古来 大名持(おおなもち)の神の鎮座する山としてあつく崇敬され、太古以来斧を入れない原始的な妹山樹叢は、昭和3年に国の天然記念物に指定されている。→ 大名持神社
万葉集や古今和歌集で詠まれた「妹背山」を当地の山とする説があり、
「大和志料」は、「妹背山ノ位置ニ異説アリ 一ハ吉野ニアリ 一ハ紀伊ニアリ」として、吉野の妹背山が古今の歌によくかなうと記している。→ 背山 (紀伊) 船岡山 妹山・背山 万葉歌碑 (紀伊)
近松半二作の「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」は、人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目で、妹背山の風景と、舞台中央に吉野川が設えられて、次のような義太夫節が語られる。
古への 神代の昔山跡の 国は都の始めにて 妹背の始め 山々の 中を流るゝ吉野川 塵も芥も花の山 げに世に遊ぶ歌人の 言の葉草の捨て所
妹山は太宰少弐国人の領地にて 川へ見越しの下館 背山の方は大判事清澄の領内 子息清舟いつぞやよりこゝに 勘気の山住居 (後略)
(出典 新編日本古典文学全集77 浄瑠璃集)
本居宣長の「菅笠日記」には、次のように記されている。→ 旧跡 桜の渡し 石碑
よし野川、ひまもなく浮かべる筏をおし分て、こなたの岸に船さし寄す、夕暮れならねば渡し守は早やともいはねど、【伊勢物語に 渡し守はや船に乗れ日も暮れぬといふ云々】みな急ぎのりぬ。
妹背の山いづれと問へば、河上のかたに、流れをへだててあひ向ひてま近く見ゆる山を、東なるは妹山、西なるは背山と教ふ。されどまことに此名をおへる山は、紀の国にありて、うたがひもなきを。
かの 中におつる【古今恋五】吉野の川に思ひおぼれて、必ずここと定めしは、世のすき者のしわざなるべし。されど
妹背山 なき名もよしや吉野川 世に流れては それとこそ見め
(出典 本居宣長全集 第18巻)
淡海公(たんかいこう)十三重塔(淡海公墓所)は、奈良県桜井市の談山神社にある。
談山神社バス停から、東側の階段を降り、多武峰観光ホテル専用駐車場入り口横に、行先案内表示がある。
伊派の石大工 井 行元(いのゆきもと)の作品で、藤原不比等(淡海公)の墓と伝えられている。
花崗岩製の石塔で、高さは、基壇から九輪の頂まで約4.0mとされる。
基礎二面に次の刻銘がある。(石仏と石塔 参照)
永仁六年
戊戌三
勧進六八願衆
大工 井行元
藤原不比等(ふじわらのふひと)(658/659-720)は、藤原鎌足の第二子で、飛鳥、奈良時代の政治家である。
蘇我入鹿首塚は、奈良県明日香村にある。
飛鳥寺旧境内の西側に位置し、飛鳥寺西門から西へ80mのところにある。
本居宣長の「菅笠日記」にも記録が残されている。
かつては田畑の間に五輪塚と呼ばれた土盛りの上に五輪塔が建っていた。
これがいつしか蘇我入鹿の墓といわれるようになったが、本来は別の場所にあったとも、二つ並んであったともいわれている。
当地の五輪塔は、高さ194cmの花崗岩製で、形式から鎌倉後期から南北朝時代のものと考えられている。
蘇我入鹿(?-645)は、飛鳥時代の高官で、蘇我毛人(えみし)(蝦夷)の子である。
青年時代の入鹿は、唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひと)の学堂に学んだが、旻から第一級の人物と評されたと「家伝」は伝えている。
皇極天皇即位後、643年10月に入鹿は父から紫冠を授けられ、大臣の位を認められた。
その後、入鹿らは聖徳太子の子の大兄山背(おおえやましろ)皇子の上宮王家の討滅をはかり、643年11月入鹿、軽皇子(後の孝徳天皇)らは、軍を起こし、大兄山背皇子と一族を斑鳩宮に急襲して覆滅した。
事件後に、蘇我本宗家に対する反感が急速に強まり、645年6月12日、飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で、蘇我入鹿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(鎌足)と謀った中大兄皇子らによって暗殺された。(乙巳の変)
墓所について、近年菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことから、蘇我蝦夷、入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える説等がある。
日本書紀では、入鹿を王位を奪おうとする逆臣として描き、入鹿退治説話は藤原氏のはじまりに関する伝承として、中世に流布し、謡曲入鹿として芸能化された。
入鹿と鎌足の相克は、舞曲 大織冠(たいしょかん)などを経て近世に伝承され、浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、入鹿が典型的な公家悪(くげあく)として描かれている。
国史跡 菖蒲池古墳は、奈良県橿原市菖蒲町にある。
甘樫丘から西に延びる丘陵の南斜面に築かれた7世紀代の方墳である。
菖蒲池古墳は、国内で最も優美な2基の家形石棺が納められている古墳として古くから有名で、昭和2年(1927)には、石室部分が国史跡に指定された。
その後、平成21年(2009)度から4年にわたり、橿原市が発掘調査を実施し、平成27年(2015)には墳丘とその周辺の範囲が追加指定された。
菖蒲池古墳の被葬者については、具体的な人名も挙げられている。
特に近年は、菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことから、
蘇我蝦夷、入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える説、蘇我倉山田石川麻呂が葬られたとする説などがある。
(奈良県歴史資源データベース 菖蒲池古墳現地説明会資料 参照)
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期