采女神社

采女神社は、奈良市樽井町にある春日大社の末社である。
祭神は、采女命(うねめのみこと)で、奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が猿沢池に身を投げ、この霊を慰める為に祀られたといわれる。
猿沢池の東側には、采女が入水する際にその衣をかけたという衣掛柳の石碑がある。

平安時代の歌物語「大和物語」百五十段には、采女の物語が次のように書かれている。
昔、ならのみかどにつかうまつる采女ありけり。かほかたちいみじうきよらにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。
そのあはぬ心は、みかどをかぎりなくめでたき物になむ思(ひ)たてまつりける。みかど召してけり。
さて、のち又も召さざりければ、かぎりなく心うしとおもひけり。(中略)
なほ世に経(ふ)まじき心ちしければ、夜みそかに、さるさはの池に身を投げてけり。
(出典 校注古典叢書新装版「大和物語」)

「元要記」によると、弘仁年間(810-824)興福寺南円堂鎮壇の時、人夫のなかの青衣の女人が池の方に逃げ去って行方が分からなくなり、藤原久嗣の八男 良世が西向きの社を建立し、興福寺興南院の快祐が勧請したと伝える。
現在でも小祠が西向きに立っており、背後の池側に鳥居がある。
そのため、采女が入水した池を見るのは忍びないと一夜のうちに御殿が背を向けたとも言われている。

その後、室町時代に、采女の物語にちなんだ能「采女」を世阿弥が創作した。
鳥居南側には、「謡曲「采女」と采女への哀悼歌」と題した謡曲史跡保存会の案内板があり、大和物語にも載せられている哀悼歌が紹介されている。
  采女への哀悼歌
我妹子(わぎもこ)が 寝くたれ髪を猿沢の
 池の玉藻と見るぞかなしき (柿本人麻呂)
 (あのいとしい乙女の寝乱れた黒髪を、今猿沢の池の美しい水藻として見るのは、本当に悲しいことだ。)
猿沢の池もつらしな我妹子(わぎもこ)が
 玉藻かつかば水もひなまし (帝)
 (猿沢の池を見るのは恨めしい。あのいとしい乙女が池の水藻の下に身を沈めたなら、いっそ水が干上がってしまってくれればよいのに。そうすれば采女は死なないですんだろうに。)
 「かづく(被づく)」は、頭にかぶるの意味である。

近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、初演時の番付などに記された外題の角書に「十三鐘/絹懸柳」と記され、采女伝説が形を変えて巧みに取り入れられており、
二段目 猿沢池の段では、次のように語られる。→ 妹背山婦女庭訓ゆかりの地
世の憂さは尊(たか)き卑(ひく)きも亡き魂の、雲隠れせし思ひ人、采女の局の跡慕ひ、勿体なくも万乗の、帝の嘆き浅からず、(中略)
「この辺りが猿沢池なるか」と仰せに、官女進みより
「この間久我之助清舟奏聞申せし通り、采女様入水の跡、猿沢池にて候」
と申し上ぐれば 今更に朝な夕なに傅(かしづ)きし、采女の事の思はれて、御涙こそ限りなし(後略)


采女祭

采女神社の例祭 「采女祭(うねめまつり)」は、仲秋の名月の日に行われる。
近年は、奈良市の姉妹都市である福島県郡山市から選ばれたミスうねめも参加している。
「花扇奉納行列」のあと、采女神社本殿で祭典が挙行され、月明かりが猿沢の池に映る頃、「管弦船の儀」として龍頭船に花扇を移し鷁首(げきしゅ)船と共に二隻の船が幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る。
最期には、花扇を池中に投じて采女の霊を鎮め、同時に人々の幸せを祈る雅な行事である。



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