衣掛柳の石碑

衣掛柳の石碑は、奈良市登大路町猿沢池東畔にある。
猿沢池は、興福寺が放生会の儀式に用いる放生池として造成したもので、多くの伝説や逸話が伝えられており、帝の寵愛を受けられなくなった采女が悲しみのあまりに身を投げた「采女伝説」がよく知られている。
猿沢池西畔には、池に背を向ける形で采女神社が鎮座しており、池の東側の当地には、采女が入水する際にその衣をかけたという衣掛柳の石碑がある。

平安時代の歌物語「大和物語」百五十段には、采女の物語が次のように書かれており、能「采女」の題材ともなっている。
昔、ならのみかどにつかうまつる采女ありけり。かほかたちいみじうきよらにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。
そのあはぬ心は、みかどをかぎりなくめでたき物になむ思(ひ)たてまつりける。みかど召してけり。
さて、のち又も召さざりければ、かぎりなく心うしとおもひけり。(中略)
なほ世に経(ふ)まじき心ちしければ、夜みそかに、さるさはの池に身を投げてけり。
(出典 校注古典叢書新装版「大和物語」)

近松半二作の浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」では、初演時の番付などに記された外題の角書に「十三鐘/絹懸柳」と記され、采女伝説が形を変えて巧みに取り入れられており、
二段目 猿沢池の段では、次のように語られる。→ 妹背山婦女庭訓ゆかりの地
世の憂さは尊(たか)き卑(ひく)きも亡き魂の、雲隠れせし思ひ人、采女の局の跡慕ひ、勿体なくも万乗の、帝の嘆き浅からず、(中略)
「この辺りが猿沢池なるか」と仰せに、官女進みより
「この間久我之助清舟奏聞申せし通り、采女様入水の跡、猿沢池にて候」
と申し上ぐれば 今更に朝な夕なに傅きし、采女の事の思はれて、御涙こそ限りなし(後略)



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