わかやま世界遺産地域交流会
祓戸王子跡は、和歌山県海南市藤白にある。
祓戸(はらえど)王子は、熊野九十九王子の一つで熊野詣の人々の揺拝所、または休憩所であった。
「祓戸神社々趾」という石碑が建っているところが王子跡で、紀勢線の高架線路が見下ろせる場所にある。
当時は、藤白王子の大楠、藤白坂の筆捨松や藤白峠が一望できるポイントであったといわれている。
祓戸王子は、明治42年(1909)藤白神社に合祀された。
昭和33年4月1日に「史跡 祓戸王子跡」として、和歌山県文化財に指定された。
熊野一の鳥居跡
熊野一の鳥居跡は、熊野街道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたる。
「紀伊続風土記」に熊野一の鳥居があったこと、地名「鳥居」の由来もこれによると記されている。
鳥居のすぐそばに「祓戸王子(鳥居王子)」があり、そこで垢離をとり心身を清め、熊野聖域へと入っていった。
この鳥居は、天文18年(1549)には損失されたと紀伊続風土記に記されている。
また、藤白神社の二の鳥居の傍らに「熊野一の鳥居」と刻まれた石碑も残っている。
鈴木屋敷は、和歌山県海南市にある。
ここには、全国200万といわれる鈴木姓の元祖(ルーツ)とされる藤白の鈴木氏が住んでいた。
平安末期ごろ(1150年頃)上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなり、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰を全国に普及すべく、3300余りの熊野神社の建立につとめた。
なかでも鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟は有名で、幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野の往還にこの屋敷に滞在し、重家、重清らと山野に遊んだとも伝えられている。
後に義経の家臣として衣川の戦いで共にその生涯を終えたと伝えられているが、三郎重家は秋田の山奥に難を逃れ、落ち武者として土着帰農し、鈴木家の分家として、現在の秋田県羽後町に歴史を継承し、その屋敷は国の重要文化財に指定されている。
現存する鈴木屋敷は江戸時代後期に建てられたといわれている。
敷地内には、幼少期に滞在した源義経ゆかりの松や、「曲水泉」という平安様式の庭園も現存している。
地元の海南市では、「鈴木屋敷」の復元に取り組んでおり、「ガバメント・クラウド・ファンディング」や寄付で資金集めを行っている。
藤白神社は、和歌山県海南市にある神社である。
社伝によると、斉明天皇が牟婁の湯(白浜湯崎温泉)に行幸の時、神祠を創建されたといわれ、由緒の古い神社である。
熊野信仰の盛んとなった折には、熊野九十九王子の中でも最も格式の高い五躰王子の一つ藤白王子とされた。
境内には、子授け、安産、成長の神様である「小守楠神社」があり、博物学者・民族学者として著名な南方熊楠も、この神社から名前を授けられた。
樹齢千年を超える天を覆うような楠の大樹を御神体としており、最近ではパワースポットとして知られている。
境内には、万葉の悲劇の貴公子、有間皇子神社があり、毎年11月11日に有間皇子まつりが斎行される。
JR紀勢線海南駅下車、徒歩20分。参拝者用の駐車場がある。
史跡藤白王子跡は、和歌山県海南市の藤白神社にある。
藤白王子は、平安時代から盛んに行われた熊野詣での礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子の一つとして特に格式が高かった。
中世の熊野御幸の際には、上皇、法皇がここで宿泊し、法楽のために御歌会、相撲会等が催された。
特に藤原定家の「熊野御幸記」に記載されている建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和謌会(わかえ)が有名で、その時の「熊野懐紙」御宸翰は国宝となっている。
深山紅葉
うばたまの よるのにしきを たつたひめ
たれみやまぎと 一人そめけむ
白藤の下に歌碑があり、傍らに「御歌塚」がある。
藤白王子権現本堂は、「藤代五躰王子」の神宮寺として栄えた中道寺の熊野三所権現と藤代若一王子の本地仏を祀っている。
熊野本宮の阿弥陀如来坐像、熊野速玉の薬師如来坐像、熊野那智の千手観音坐像、藤代若一王子の十一面観音坐像は、平安時代末期のもので和歌山県指定文化財となっている。
聖皇三代重石は、平安時代宇多、花山、白河三上皇の熊野御幸を記念して建てられたもので「文明記」等の古書にも出ている。
JR紀勢線海南駅下車、徒歩20分。参拝者用の駐車場がある。
有間皇子の墓(有間皇子史跡)は、和歌山県海南市藤白にある。
有間皇子(ありまのみこ)(ありまのおうじ)(640-658)は、孝徳天皇の皇子である。
母は、左大臣 阿倍内麻呂(あべのうちまろ)の女(むすめ) 小足媛(おたらしひめ)で、有間の名は父の皇子時代、有馬の湯(有馬温泉)にいたおりに生まれたことによるという。
父の孝徳天皇は大化改新時に即位したが、政治的実権を握るのは、皇太子の中大兄皇子(のちの天智天皇)で、天皇との間に軋轢が生じていた。
孝徳天皇の死後、中大兄皇子の母 斉明天皇の代となり、有間皇子は狂気を装う言動をしたが、これは先帝の遺児として政争から逃れるためだったといわれる。
斉明天皇3年(657)、有間皇子は療病のため紀伊牟婁温泉(現白浜町湯崎温泉)に行き、その良さを斉明天皇に推奨して、翌年天皇と皇太子は、牟婁の湯に赴いた。
その留守中に有間皇子事件が起きた。
斉明天皇4年(658)11月3日留守官 蘇我赤兄(そがのあかえ)が斉明帝の失政3か条を語ったのに対し、有間皇子は<吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり>と応じ、両者で挙兵の談合があったが、
赤兄は、有間皇子を謀反人として捕らえ、身柄を牟婁の湯に護送した。
中大兄の尋問を受けた有間皇子は<天と赤兄と知る、吾もはら知らず>とのみ答え、11月11日藤白坂で絞殺された。
有間皇子の側近も処罰されたが、謀反をそそのかした赤兄は処分を受けず、その後左大臣となったことから、事件は中大兄が蘇我赤兄を用いて有間皇子をそそのかしたものと考えられている。
前田文夫氏は、小説「有間皇子物語」で、皇子の人となりと、有間皇子事件を描き出している。
万葉集には、護送の途中に詠んだ次の2首が載せられている。
磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらば亦(また)かへり見む(巻2―141) → 有間皇子岩代の結び松
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る(巻2―142)
後者の歌は、佐々木信綱博士の筆で、当地に下記の歌碑が建てられている。
有馬皇子御歌
家有者笥尓
盛飯乎草枕
旅尓之有者
椎之葉尓盛
この歌は、聖徳太子の次の歌を踏まえた有間皇子の祈りが込められている。
家にあれば妹が手まかむ草枕
旅に臥(こや)せる この旅人あはれ (万葉集巻三)
聖徳太子が、飢えて死にかかっている若者の姿に目をとめ、食物と上着をかけていたわった。
その甲斐もなく若者は亡くなり、墓を建てたが、数日後墓に行くと、墓は空になり上着が畳まれていた。
太子は、その若者を聖人と考えたといわれる。
有間皇子は、自分も聖人となって復活したいとの願いを込めて、わざと聖徳太子の歌に似せて詠んだものといわれている。
藤白坂の丁石地蔵は、和歌山県海南市にある。
現地の案内板には次のように記されている。
藤白坂の丁石地蔵(ちょうせきじぞう)
全長上人は、海南市名高の専念寺第十四世の住職で、元禄年中(一六八八~一七〇四)専念寺に入り、延享四年(一七四四)に入寂した学徳すぐれた高僧でした。
全長上人は、藤白坂の距離を明確にするとともに、憩いの場所とし道中の安全を祈願するためにと、十七体の地蔵を一丁ごとに安置されました。
当時、藤白坂にはかご屋がいて、足腰の弱い旅人はかごを利用して峠越えをしたものです。
これによって、旅人は楽しい道中ができ、かご屋も十分な賃金を得ることができたと言われています。
いつの頃からか藤白坂のかご屋もなくなり、以来二百五十年余りの長い間に、丁石地蔵は谷に落ちたり地に埋もれたりして消え、昭和五十六年に現存するものはわずかに四体に過ぎませんでした。
その後、新しい地蔵を加えて、十七体が復元されました。
この「一丁地蔵」は当時(享保の初め頃)のものであり、「丁石」としては全国的にも珍しく、貴重な存在です。
平成八年十二月一日
海南市教育委員会
筆捨松、硯石は、和歌山県海南市の熊野古道沿いにある。
現地には、藤白伝承遺蹟 筆捨松由来記の説明がある。
「投げ松」
第34代舒明天皇は、西暦635年熊野へ行幸の途次藤白峠で王法の隆昌を祈念し小松にしるしをつけ谷底へ投げられた。
帰路小松が根付いていたので吉兆であると喜ばれた。以来「投げ松」と呼ばれていた。
「筆捨松」
平安前期の仁和年間(885-888)に、絵師 巨勢金岡(こせのかなおか)は、熊野詣の途次 藤白坂で童子と出会い、競画することになり、金岡は松に鶯を、童子は松に烏を描いた。
次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の絵の鶯を手を打って追うと両方とも飛んで行った。
こんどは童子が烏を呼ぶと何処からか飛んできて絵の中におさまった。しかし金岡の鶯は遂に帰らなかった。
「無念!」と筆を投げ捨てたところ、「投げ松」の所に落ちたという。
以来「筆捨松」とよばれてきた。童子は熊野権現の化身であったといわれている。
遺蹟「硯石(すずりいし)」の説明には、次のように記されている。
”蘇る徳川四〇〇年の遺蹟”
熊野古道 伝承遺蹟「筆捨松」にちなみ紀州徳川家初代藩主 頼宣公の命により
後に自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられる。
『名高浦四囲廻見』より
かつては、筆捨松の大木の根元に立っていたこの硯石が昭和五八年の水害で土砂とともに押し流されうつぶせにうずもれていた。
このたびこの場所で確認の上、掘り起こしその姿を復元する。(重さ約十屯)
平成十五年十一月三日
熊野古道藤白坂顕彰会
藤白塔下王子跡は、和歌山県下津町の熊野古道沿いにある。
藤原定家の日記、建仁元年(1201)10月9日条に見える王子社で、「塔下」は、峠の当て字といわれている。
藤原頼資(よりすけ)の日記、承元4年(1210)4月25日条では「道塚」王子と記されている。
この王子社は、明治時代に橘本(きつもと)王子社と共に、橘本王子神社(現、橘本神社)に合祀された。
地蔵峰寺
藤白塔下王子跡のすぐ北には、地蔵峰寺がある。
本堂前の案内板には、次のように記されている。
重要文化財
地蔵峰寺本堂
昭和四十九年五月三十一日指定
石造地蔵菩薩坐像
大正六年四月五日指定
地蔵峰寺は海南市下津町橘本に所在し、熊野古道の藤白峠をこえた標高二九一mの高所にある。
本堂は、桁行七.六m、梁間八.〇m、寄棟造本瓦葺で、室町時代中期頃の建立と考えられている。禅宗様式の濃厚な優れた建築技法を示している。
昭和五十一年から昭和五十三年にかけて解体修理が行われ、設立当初の姿に復された。
本尊の石造地蔵菩薩坐像は、総高三.一メートル余りの大きな地蔵尊で、光背の銘には「元享三年大工薩摩権守行経」とある。
製作の優秀さ、雄渾な銘大きさなど日本有数の石造地蔵菩薩である。
海南市教育委員会
地蔵峰寺
御所の芝(熊野路第一の美景)
御所の芝は、地蔵峰寺の裏手にある。
当地からの和歌浦方面の眺めは素晴らしく、応永34年(1427)9月足利義満の側室 北野殿の熊野参詣に随行した僧 実意(じつい)は
「こまやかな風情は絵に描きとどめがたい。いくら眺めても飽きない島々の景色だ」と日記に書いている。
北野殿は気に入って、昼食抜きで景色を眺めていた。
橘本王子、阿弥陀寺は、和歌山県海南市下津町にある。
浄土宗丈六山 阿弥陀寺の境内に、橘本王子(跡)の案内板がある。
藤原定家や藤原頼資(よりすけ)等の日記には、「橘下(きつもと)王子」と書かれている。
江戸時代には「橘本王子」と書いたが、「紀伊続風土記」によると、王子は村の北にあって、土地の人は「本」の字を略して、橘の王子と呼んだ。
また、白河法皇が参詣の時に、この王子社に通夜して「橘の本に一夜の旅寝し入佐の山の月をみるかな」という歌を詠んだと伝えている。
室町時代の永享9年(1437)に王子社の社殿が造営され、江戸時代の貞享4年(1687)に屋根を葺き替えたという棟札が、現代も残されている。
「古事記」「日本書紀」には、垂仁天皇の時代に、田道間守(たじまのもり)が常世の国から橘の木(ときじくのかくのこのみ=非時の香菓)を持ち帰ったという伝説が書かれており、
それをこの地に植えたという言い伝えから案内板の後ろには橘の木が植えられている。→ 橘本神社
みかん発祥の地 「六本樹の丘」は、和歌山県海南市下津町の福勝寺参道入り口東にある。
岩屋山福勝寺の縁起によると、六本樹の丘は、西暦71年に日本で初めて橘の木を移植されたといわれる場所であり、「橘の根元」の意味で当地域は橘本と呼ばれている。
また、橘は「みかんの原種」と言われるとともに、「菓子」の起源とされていることから、「みかん・お菓子発祥の地」といわれている。
日本農業遺産「下津蔵出しみかんシステム」
下津町地域は約400年前から独自の石積み技術で段々畑を築き、みかんを栽培するとともに、急傾斜地等でびわを栽培してきた。
みかん園内に土壁の蔵をつくり、自然の力で甘みを増す「蔵出し技術」を生み出すなど、里山の豊かな生物多様性を維持しつつ、持続性の高い農業システムを構築している。
これらが高く評価され、平成31年2月に「下津蔵出しみかんシステム」として、日本農業遺産に認定されている。
岩屋山 金剛寿院 福勝寺は、和歌山県海南市下津町にある高野山真言宗の寺院である。
加茂組寺社書上によると、大同年中(806-810)空海の開基と伝え、本尊千手観音は空海作という。
本堂は、桁行、梁間ともに三間で、寄棟造本瓦葺きの建物である。堂内各所に修験者による墨書が多数残り、永正11年(1514)と記されたものも確認でき、建築様式と合わせ15世紀後半頃の建立と考えられている。
求聞持堂は本堂の東に位置する5.1m四方の宝形造本瓦葺の建物で奥行3mの取り合い部で本堂とつながれている。慶安3年(1650)紀州藩主徳川頼宣により建立されたことが棟札から確認できる。
求聞持堂内には、徳川頼宣自身の守本尊 虚空蔵菩薩が安置されている。
本堂と求聞持堂は、平成3年(1991)に国の重要文化財に指定されている。
境内の東には、蓮如上人ゆかりの名号堂がある。
文明8年(1476)、蓮如上人が河内国出口(枚方市)に居た頃紀伊国阿間郡冷水浦に住む喜六太夫は、上人の弟子となって法名を了賢と名のり、村内の飯森山に一宇の道場を建立した。これが冷水道場で、鷺森別院の起源といわれている。
境内の西に岩屋の滝がある。石灰岩の大岩が洞窟をなし、上から落ちる滝をその洞内で裏から見るので、裏見の滝と呼ばれ、滝の傍らに弘法大師作と伝える不動明王石像がある。山号の岩屋山は、この洞窟に由来する。
境内へ至る階段下には、「蜜柑山 南へ 袖を 両開き 誓子」と刻した山口誓子の句碑がある。
JR紀勢本線加茂郷駅下車徒歩60分。
橘本神社 所坂王子は、和歌山県海南市下津町橘本にある。
橘本から市坪にかかる坂は「トコロ(薢)坂」と呼ばれ、昔このあたりに「草蘇(薢)(植物の野老(ところ))」が自生していたので名付けられた。
橘本(きつもと)神社は、加茂川の南岸、市坪川左岸に沿う熊野街道に面して鎮座する神社で、古くは熊野九十九王子の一つ 所坂王子の鎮座地であった。
橘本神社は、明治40年(1907)に神社合祀令によって祀られ、田道間守を主神とし、橘本の氏神とした。
このとき、村内の小祠である里神社、天神社、妙見社と塔下王子社、橘本王子社を合祀した。
主祭神の田道間守命(たぢまもりのみこと)は、第11代垂仁天皇の御代に常世の国に渡り、「橘」(たちばな 現在のミカンの原種)を持ち帰り、天皇に献上した。
その橘がこの地に日本で最初に植えられたと伝えられている。
その昔、橘(果実)の実で最初にお菓子がつくられたと言われていることから、みかんと菓子の神様として、全国のみかん、菓子商人から崇敬されている。
境内には、田道間守が持ち帰った「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」とされる橘樹が植えられている。
例年4月3日には、春祭、菓子祭、全国銘菓奉献祭、10月10日には、例大祭、みかん祭が行われる。
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