大和高取藩 本多俊政供養塔

大和高取藩 本多俊政供養塔は、和歌山県高野山奥の院中の橋南東にある。
中の橋西側の側道を南側に下り、約20m進んだ右手にあり、磐城三春藩秋田家供養塔の下の段に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、大和高取藩本多家の墓域内に中型五輪塔が2基あるという。
そのうちの一つとして、稲葉重通供養塔の隣に、大和高取藩主 本多俊政供養塔がある。

五輪塔地輪には、次のように刻されている。(巽三郎氏ほか「紀伊國金石文集成」参照)
為設法利生院殿
月秀門(阿)春大禅定門
頓證御菩提也
(梵字)
施主和刕高取城主
本多左京亮殿建之
慶長十五庚戊稔閏二月八日寂

本多家は、大和を支配していた豊臣秀長に家臣として仕えた一族である。
本多利久は、豊臣秀吉から高取1万5千石を与えられ、利久の家督を継いだ本多俊政(?-1610)は、秀長の死後、豊臣秀吉に仕えたが、
関ヶ原の戦いでは東軍に属したため所領を安堵され、慶長5年(1600)大和高取藩主(2万5千石)となった。
俊政の跡を継いだ子の本多政武(左京亮)は、寛永14年(1637)嗣子が無く死去したため、本多家は3代で断絶となり、寛永17年(1640)以降は植村家が高取藩主となり、明治時代まで続いた。



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