大和街道第5回 田井ノ瀬駅集合~和歌山城解散
「大和街道」
一般的に、大和街道は奈良が都であったころ、都と地方を結ぶ道として誕生した。
日本歴史地名体系では、京から大和への大和街道と三重から大和への大和街道が紹介されている。
街道の日本史35巻「和歌山・高野山と紀の川」(藤本清二郎、山陰加春夫編)によると、紀北の街道として次のように紹介されている。
南海道 古代の官道=南海道は、大和から紀伊に入り、紀の川北岸を通り、加太駅から海を渡り土佐へ至る道である。
高野参詣道 京都から高野山へ参詣する道である。
17世紀の道(紀伊国絵図) 伊勢街道、熊野街道、上方街道、淡路街道、高野山と龍神温泉へ向かう往還
紀伊続風土記の道 上方街道、伊勢街道、熊野街道、熊野古道、高野街道ほか
大和街道 紀伊国名所図会に伊勢街道は「大和街道」と記されている。19世紀初めごろから大和街道という言葉が使用されるようになったという。
明治9年(1876)から明治11年にかけて、国道、仮定県道が定められた。
紀北筋では、上方街道が大坂街道と称され、伊勢街道は「大和街道」と規定された。
この時以来大和街道の名が定着したという。
田井ノ瀬駅
明治31年(1898)5月4日開業。
紀和鉄道としての開業時の駅名は「岩橋」で、開業半年後に現在の駅名に改称された。
開業当時、路線は和歌山駅(現在の紀和駅)と結ばれていたが、昭和36年(1961)に当駅から東和歌山(現在の和歌山駅)間に短絡線が開業し、
のちにこの短絡線が本線となって、田井ノ瀬~紀和間は廃止された。
2010年度の一日の乗降客数267人。
八軒家の道標
和歌山市八軒家のリカーズショップまつもと南にある。
(北面)右 和歌山
加太阿わし満 道
是ヨリ四国江船渡□□
(東面)左 紀三井寺ヨリ和歌山十八丁
西国三十三所 道
熊野参詣道(日前宮?)
(南面)明治十八年酉十一月吉日
和歌山□□
(西面)すく 高野山
こかわ寺 道
大坂
国指定史跡 四箇郷一里塚
国指定史跡 四箇郷(しかごう)一里塚は、和歌山市新在家にある江戸時代の交通遺跡である。
一里塚は和歌山城の外堀(現在の市堀川)にかかる京橋を起点に一里(約4km)ごとに旅行者に移動距離を示す目印として街道の両脇につくられた。
四箇郷一里塚は京橋を出発して最初に通る一里塚である。現在も北塚と南塚が道の両側に良好に残っている。
そのため、昭和15年(1940)に国の史跡に指定された。
史跡指定時の松は北塚が昭和54年(1979)、南塚が昭和59年(1984)に植え替えられた。
抜き取った松の年輪を調べた結果、江戸時代に何度か植え替えられていたことが判明した。
四箇郷一里塚の大きさは、北塚、南塚ともに直径約10mあり、高さは北塚が2.5m、南塚が2.2mある。
国道24号線をつくる際に、盛土がおこなわれており、現在は0.7mほどが道路の下に埋まっている。
そのため、当時は現在確認できるよりも大きな塚であった。
参勤交代は原則として一年おきに、諸大名を江戸と領地とに居住させるものである。
紀州藩でも初代藩主 徳川頼宣が49年間に20往復、第2代藩主光貞は38年間に19往復しており、御三家の一つとはいえ、他の大名と同様に参勤交代が課されていた。
そのため、和歌山でも街道が整備され、八軒家、山口などの宿場も発達した。
藩主が参勤交代で江戸に旅立つ際には、藩士たちは四箇郷の一里塚まで来て一行を見送り、江戸から帰国する時もここで出迎えたとされており、四箇郷一里塚は江戸時代に参勤交代時の目印としても使用されていた。
地蔵の辻 地蔵菩薩
地蔵の辻 地蔵菩薩は、和歌山市中之島にある。
もとは国道24号線と県道有功天王線が交差する地蔵ノ辻交差点にあったが、県道の拡幅工事で移転が必要となり、平成15年5月約200m南側に移転した。
移転後の御堂前には、石碑が建てられ、次のように刻されている。
当地蔵菩薩は、地蔵の辻と言われるくらい和歌山市ではとても古くいわれも深い癒しのお地蔵さんです。
昔和歌山の城から嘉家作りを経て海草郡中野郡中野島の地蔵の辻にて一休みし、これより大和街道へと運んだそうです。
徳川初代頼宣公の母君お萬の方が建立し、年号は享保酉年と記されています。今から二百七十年前に癒しの地蔵として建てられたことがわかりました。
今回県道拡張にあたり移転のやむなきに至り当地に建立することになりました。
嘉家作り丁 一文字の軒
嘉家作り丁(かけづくりちょう) 一文字の軒は、和歌山市北部にある。
嘉家作丁は、紀ノ川左岸、和歌山城北部の本町御門外大和街道(国道24号線)沿いに位置し、紀の川町バス停の南側である。
寛永10年(1633)の紀ノ川大水害後に、堤防斜面を利用して懸(かけ)造の建造物が築造され、これが町名となった。
紀ノ川の堤防斜面を利用して作られた屋敷で、家の表は堤防上の道路、裏は堤防下で低くなっている懸造り(欠け造り)という独特の建築様式である。
城下への入口であったために、多くの人々が行き来し、道路南側には家並みが連なり、北側の土堤には松並木が続いていた。
街道沿いには、参勤交代などで紀州藩主が通行する際に休息所として利用された、万町(よろずまち)の御用青物屋 村橋善兵衛(むらはしぜんべえ)の別宅 春泉堂があった。
参勤交代の際に、藩士が休憩するために「おだれ」と呼ばれる深い軒先が東西約3町(約330m)にわたってつくられ、通り抜けられるようになっていた。
一説では参勤交代で通る殿様行列を見下ろさないようにと配慮された造りで、軒が一文字に並んでいるところから、「嘉家作り丁 一文字の軒」との石碑が建てられている。
京 橋
京橋は、市堀川と大和街道(本町通り)の交差する場所である。
江戸時代の京橋は、和歌山城の表玄関であり、南の袂には城内三の丸に通じる京橋御門がそびえていた。
京橋南袂の路上には、「京橋門阯」の石碑が建てられている。
北詰めからは本町通を経て、諸国へと街道が通じていた。
このため、「和歌山より何里」という表現は、すべて京橋北詰からの里程であった。
明治政府は、明治6年(1873)、この地点を正式に里程元標と定め、同41年、木製の標柱を立てた。
昭和5年(1930)には、「和歌山市道路元票」と刻した花崗岩の標柱に建て替えたが、その後昭和14年に道路元票位置を雑賀屋町東之丁(県庁前交差点)に移転した。
京橋上には、道路元票記念碑が建てられている。
また時計台の上には、「毬と殿様」のモニュメントが建てられており、童謡「毬と殿さま」(西条八十作詞 中山晋平作曲)の歌詞が刻されている。
和歌山県立紀伊風土記の丘は、和歌山市岩橋にある博物館施設である。
昭和46年(1971年)に、国指定特別史跡岩橋(いわせ)千塚古墳群の保全と公開を目的として、全国で3番目の風土記の丘として開園した。
特別史跡「岩橋千塚古墳群」は、5世紀から7世紀にかけて築造された全国屈指の群集墳である。
古墳の数は、800基を超え、「岩橋型横穴式石室」と呼ばれる石棚、石梁をもつ独特な石室がこの古墳群の特徴となっている。
総面積約65万㎡の園内には、紀伊風土記の丘資料館、復元竪穴住居、江戸時代の民家、地曳網和船、万葉植物園などがある。
園内一周は、約3キロメートルあり、80分ほどで周ることが出来る。
JR和歌山駅東口から和歌山バスで「紀伊風土記の丘」下車、徒歩5分。来園者用の無料駐車場がある。
将軍塚古墳(前山B53号墳)は、和歌山市岩橋千塚古墳群内にある。
6世紀後半に造られた墳長42.5mの前方後円墳である。前方部と後円部の両方に、横穴式石室が作られている。
現在公開されている後円部の石室は、玄室長3.3m、幅2.2m、高さ4.3mあり、岩橋千塚古墳群の中で、天王塚古墳に次いで天井の高い石室である。
古墳は盗掘されていたが、後円部の石室から銀環(ぎんかん)、水晶製平玉、ガラス製の小玉、梔子(くちなし)玉と須恵器、土師器、前方部石室からガラス製小玉、須恵器、馬具が出土している。
和歌山城は、和歌山市一番丁にある国史跡である。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉が紀州を平定した際、自ら城郭の場所を選定し、藤堂高虎に命じて標高48mの岡山(虎臥山)に城を築き、弟の羽柴秀長に与えた。
秀長は、大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めた。
その後、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで軍功のあった浅野幸長(よしなが)が甲斐(山梨県)府中から和歌山に転封され、37万6千石の領主となった。
幸長は、連立式天守閣を建て、大手を南の岡口門から北の一の橋に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。
幸長没後、弟の浅野長晟(ながあきら)が跡を継ぎ安芸国に移封になると、元和5年(1619年)に徳川家康の十男 頼宣が入城した。
この時、二代将軍徳川秀忠から紀伊一国と伊勢国の一部を加えて、55万5千石が徳川頼宣に与えられ、御三家紀州藩が成立した。
紀州徳川家は、「南海の鎮(しずめ)」として、西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出している。
明治4年(1871年)に和歌山城は陸軍省の管轄となった後、昭和6年に国の史跡に指定され昭和10年に天守閣などが国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)戦災により焼失した。
復興天守は、昭和33年(1958年)に再建されたもので、1,2階は武具、古文書などが展示され、3階からは、市街地や紀淡海峡、高野山などが眺められる。
一帯の公園内には、紅葉渓庭園や再建された御橋廊下などがある。
JR和歌山駅、南海和歌山市駅からバスで「公園前」下車。公園南側三年坂通りに、来訪者用の駐車場入口がある。
勝海舟寓居址
勝海舟寓居址は、和歌山市舟大工町にある。
文久3年(1863)4月3日、徳川幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、海岸砲台検分のために家臣とともに和歌山に派遣された。
その宿所としたのが、両替商「清水平右衛門」の屋敷で、石碑の約50m西側に屋敷があった。
4月10日には勝海舟の門下であった坂本龍馬が和歌山に来て、勝海舟の供をして和歌山の台場各地を視察した。