大和街道第4回 岩出駅集合~田井ノ瀬駅解散

「大和街道」
一般的に、大和街道は奈良が都であったころ、都と地方を結ぶ道として誕生した。
日本歴史地名体系では、京から大和への大和街道と三重から大和への大和街道が紹介されている。

街道の日本史35巻「和歌山・高野山と紀の川」(藤本清二郎、山陰加春夫編)によると、紀北の街道として次のように紹介されている。
南海道 古代の官道=南海道は、大和から紀伊に入り、紀の川北岸を通り、加太駅から海を渡り土佐へ至る道である。
高野参詣道 京都から高野山へ参詣する道である。
17世紀の道(紀伊国絵図) 伊勢街道、熊野街道、上方街道、淡路街道、高野山と龍神温泉へ向かう往還
紀伊続風土記の道 上方街道、伊勢街道、熊野街道、熊野古道、高野街道ほか
大和街道 紀伊国名所図会に伊勢街道は「大和街道」と記されている。19世紀初めごろから大和街道という言葉が使用されるようになったという。
       明治9年(1876)から明治11年にかけて、国道、仮定県道が定められた。
       紀北筋では、上方街道が大坂街道と称され、伊勢街道は「大和街道」と規定された。
       この時以来大和街道の名が定着したという。


岩出駅

明治34年(1901)10月10日開業。
2010年度の一日平均乗降客数は、1908人。

いわで御殿

いわで御殿は、和歌山県岩出市の紀ノ川沿いにある。
現地の案内板には次のように記されている。

    いわで御殿の由来と沿革
昔からこのあたりには風光明媚な小山があり、周辺の人々に景勝地として親しまれてきました。
そこに妙見堂という建物がありましたが、慶安二年(一六四九)紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣がこれを和歌浦に移した後、その跡地に別荘を築かれたそうです。
この建物を「巌出(いわで)御殿」と呼び、歴代藩主が参勤交代の時など、ここに宿泊していたそうです。八代将軍吉宗も幼少の頃は、ほとんどここで過ごしていたと伝えられています。
この地からは大台ケ原や吉野に源を発する紀の川、箱山、紀州富士の名で知られる龍門山の美しい姿を望むことができます。
また当時は岩出の地名どおり川の中には人とり岩・畳岩・なまず岩・えぼし岩や車岩などと呼ばれる奇岩が点在していたそうです。
さらに上流は我国有数の材木の産出地でしたので、筏が下り、景観に風情を添えていたと思われ、紀州家が別荘を建てていたことがなるほどと頷ける景勝の地であったと思われます。
巌出(いわで)御殿は、宝暦一四年(一七六四)に取り壊された後、時代の流れとともに大阪では八州軒、横浜では臨春閣と所・名前を変えながらも、現在は横浜市・三渓園に「臨春閣」として国の重要文化財に指定され当時の姿を残しています。
さてこの地は、巌出(いわで)御殿が取り壊された後、御殿山と呼ばれ昭和のはじめ頃まで公園として地元の人々に親しまれていましたが、
奇岩のあった辺りが川の流れの障害となり再三にわたる岩出の水害の原因となっていたので川幅を広げるため、奇岩及び御殿山の一部を取り崩すことになり、かつての姿は失われています。
    岩出市


現在は、地域交流の場、住民の憩いの場としての入浴施設となっている。
また、敷地内に勤操塚跡の石碑が建てられている。
JR和歌山線岩出駅下車、徒歩10分。利用者用の駐車場がある。



岩出ノ渡 (いわでのわたし) 岩出渡場跡

大和街道の道筋にあたり、上三毛(かみみけ)村船戸(ふなと)と西野(にしの)村とを結ぶ紀ノ川の渡し。岩出横渡しといわれた。
当地は和歌山城に近い要衝の地として重視され、橋は架けられず、渡船によった。
非常時には見張所を建て、御紋付高張提灯、御幕・手縄を張り、岩出組の地士・帯刀人などが昼夜交替で詰めた(慶応元年岩出組大庄屋福井善吉口上覚「那賀郡誌」所収)。

文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によれば、岩出組二一ヵ村の総高八千五〇〇石余のうち岩出横渡舟役分は高二一五石余、同年は岡田おかだ村など一〇ヵ村から二石八斗六合三勺を徴収している。
これを西野村の一一軒の横渡し舟人に分配したと考えられる。また同組には、岩出横渡し分として馬船二艘・六挺立船一艘があり、「右馬船、六挺立共、舟手より御作リ渡シ被下候」とある。
舟手とは御舟手役所である。舟賃御定御制札は、横渡しの南北両岸に一札ずつ立てられていた。同指出帳の西野村の項に「当村より横渡シ相勤申候」とある。
文久三年(一八六三)四月二八日付の西野村庄屋の御受申上候覚(「那賀郡誌」所収)によると、
昔から馬船二艘・六挺立一艘という船数が守られていたが、この時非常用に横渡し船一〇艘の調達を藩から命ぜられ、これに対し「人夫二十人、但一艘二人乗、賃銀一人前六匁、尤一昼夜」を要求している。



船戸渡し場跡


大宮神社

大宮神社は、和歌山県岩出市宮にある。
祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)他である。
当社は、和銅5年(712)に尾張国熱田明神(現在の熱田神宮)から日本武尊を勧請したものである。
その後、興教大師(覚鑁上人)が仏法擁護のため1000神余りを勧請し、総社明神(そうしゃみょうじん)と称した。
天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで焼失したが、紀州徳川藩初代藩主 徳川頼宣によって再興された。
明治維新後、岩出神社と呼ばれ、昭和35年(1960)に社名を変更して現在に至る。
本殿北には、玉塚があり、興教大師(覚鑁上人)が信貴山に上り、拝受した宝玉が納められている。
JR和歌山線岩出駅下車、徒歩10分。南側に参拝者用の駐車場がある。

例祭 斎刺祭(よみさしまつり)
古くは神領地確認の為のおまつりで、8月晦日に行われていたが、現在は10月第一日曜日に行われる。
土曜日の昼、渡御、本殿での祭が行われ、獅子舞、稚児舞が奉納される。
夜には、深夜渡御と呼ばれる祭祀があり、夜10時頃から禊をして身を清め、11時30分神官と永年務めている先走りのものが「祓へ給え、清め給え」と唱えながらお渡りの道を清めていく。
夜中12時にみさきと呼ばれる榊の木の御神体を担いだ者と金棒で守る者の本隊が、東西に分かれて駆けていく。
上(うえ)組は、紀の川市下井阪の「奥のはざま」、下(した)組は岩出市吉田の「一本松」の御旅所まで行き、御神体のみさきを御影石の台に立て、神事が執り行われ、榊の枝は参拝者に分けられる。
上(東)の榊は腰から上の、下(西)の榊は腰から下の病に効くといわれている。



上小倉神社

上小倉神社は、和歌山市下三毛にある神社である。
和銅年間(708~)の創立で、金銀銅を以って社殿を装飾し華麗なこと界隅無比といわれたが、天正の乱(1585)の兵火に罹り社殿と社寺を焼失した。その後、慶長年間に再建された。
明治6年村社となり、九頭神社と称されたが、明治43年神社合祀の際、上小倉神社と改称された。
主祭神は、手置帆負命(たおきはへのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)で、誉田別命ほか三柱が配祀されている。
大和橿原の宮建立に際し、手置帆負命、彦狭知命の二神の孫が当地に移り来て、材木の調達や正殿の建築に大いに活躍し、
その功績によって地領を与えられ、当地で住み暮らすことになり、その祖神を祀ったといわれており、大工の神様と称されている。
鳥居から拝殿に至る参道横には、天然記念物一葉松跡がある。
松葉は、一般的には二本であるが、この木の松葉は一本の丸い葉で、学問上も非常に珍しく、後鳥羽上皇が熊野参詣の際に、吐前王子社宿泊中、歯の痛みに悩まされて、
その夜の夢で当社に立ち寄るようお告げがあり、この松の葉で歯痛を直したとの故事がある。
そのことから、「歯治しの宮」と言い伝えられ、後世 「はなしの宮」、或は、「はだしの宮」となまって伝えられている。
この一葉松は、和歌山県の文化財に指定されていたが、昭和45年(1970)に老枯し、現在は根と写真が展示されている。
拝殿西には、夜泣き石がある。
この一組の石は、昔、新庄山の中腹に、蔵王権現の社があり、その境内山の入口に置かれて、袂石(たもといし)と呼ばれていた。
天正年間に光恩寺を開山した信譽上人(しんよしょうにん)が、その一つの男石を光恩寺に持ち帰り据え置いたところ、残されたもう一つの女石が、「夜な夜なすすり泣きをする」とのうわさが広まったという。
信譽上人はそのうわさを伝え聞き、心を痛めて早速元の所に石を戻したところ、夜ごとのすすり泣きが止んだという。
そのような話もあり、土地の人々から、「結縁石(けちえんいし)」、なまって「けっちん石」と呼ばれ、子授けに霊験ありとのことで、「子授け石」などとも呼ばれた。
その後、明治時代末の神社合祀の際に、この一組の石が当社に移され、夫婦石として安置されることとなった。



光恩寺

懐岳山正清院光恩寺は、和歌山市にある浄土宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来である。
天正18年(1590)小倉郷の津田監物に招かれた信誉が建立し、信誉が自分の法諱をもって寺号を光恩寺とした。
境内墓地には、徳川家康第三女振姫の墓がある。
振姫(1580-1617)は、徳川家康の三女で、天正8年に側室、お竹の方との間に生まれた。
文禄4年(1595)会津若松城主蒲生秀行と結婚したが、慶長17年(1612)秀行と死別した。
元和2年(1616)に当時の紀伊和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)と再婚して、翌年光晟(みつあきら)を生んだが、出産の16日後、元和3年8月29日38歳で死去した。
和歌山城下の吹上寺で火葬され、墓所は、京都の金戒光明寺につくられ、後に広島の正清寺に改葬された。元和4年には、高野山奥の院に供養塔が建立された。
元和7年(1621)紀州藩初代藩主 徳川頼宣が、姉の振姫(正清院(しょうせいいん))の遺骨を、吹上寺から当寺に改葬した。
その後、紀州徳川家の手厚い保護を受けたという。
明治12年(1879)火災により、堂宇が焼失したが、その後復興され、明治13年(1880)和歌山城から本丸御殿の御台所を移築して、庫裏とした。
建物に較べて小さい入口など城郭建築の特徴を有し、庫裏内の杉製の引き戸には、表面に竹林と2頭の虎が、裏面に水辺で遊ぶ鵞鳥が描かれている。
昭和46年(1971)に「光恩寺の庫裏」として、和歌山市の文化財(建造物)に指定された。



吐前王子跡

この王子社名は、藤原定家や藤原頼資(よりすけ)に日記に見られる。
藤原頼資の承元4年(1210)の御幸随行の日記は「修明門院熊野御幸記」と呼ばれる。
それによると、承元4年(12104月24日修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着く。この「在崎」は、吐崎(吐前)の書き間違いと考えられている。
吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離(みずごり)を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例であった。
江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていた。
当地の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていたが、現在は削平されている。
地元に人は、この土地を「オコードー」と呼んでおり、御幸道、あるいは御幸堂の意味と考えられている。



布施屋の渡し場

布施屋(ほしや)の渡し場説明板は、和歌山市内の紀ノ川南岸堤防道路下にある。
和佐歴史研究会の説明版から約300m北に、昔の渡し船の発着場があった。
古くは、熊野詣の人々は、紀の川北岸から吐(はんざき)に船で渡っていたが、やがて紀ノ川の流路の変化により布施屋に渡るようになり、渡し場が設けられた。
昭和30年半ばまでは、対岸の川辺に渡る交通の要所となっていた。


川端王子跡

後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、吐前王子に参ったのち、日前宮の奉幣使として御幸に一行と別れ、日前宮に参拝している。
その後、両人は和佐、平緒王子社に参らずに、奈くち(菜口)王子社に参拝するが、川端王子は中世の参詣記に登場しない。
したがって、中世には川端王子社はなかったと考えられている。
その後、江戸時代初頭には、二社の和佐王子社があったようである。
一社は坂本(和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿いの川端にあったものが、現在地に移されたといわれる。
この王子社が、川端王子と呼ばれるようになった。明治時代に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されたが、地元の人々が当地に小祠を建て、現在に至っている。



松下幸之助生誕地

松下幸之助生誕地は、和歌山市禰宜にある。
松下幸之助(1894-1989)は、大正、昭和時代の企業経営者である。
明治27年(1894)に当地の農家の三男として生まれ、9歳で小学校を中退し、丁稚奉公のため大阪に出た。
明治43年(1910)大阪電燈に入社し、工事員、検査員として働き、大正6年(1917)同社を退き、改良ソケットの製造販売を行い独立した。
大正7年(1918)松下電気器具製作所(のちの松下電器産業、現パナソニック)を創業し、自転車用電池ランプ、電気アイロン製造などで成功を収め、同社を一流企業に成長させて、「経営の神様」と呼ばれた。
企業経営のほか、PHP運動でも指導的役割を果たしたほか、昭和55年(1980)には、「松下政経塾」を創立し、政治家経営者の育成にも尽力した。
当地の石碑には、ノーベル賞受賞者 湯川秀樹の書で、「松下幸之助君生誕の地」と刻されている。
これは、湯川氏の父親が和歌山の出身で同郷のため揮毫されたという。
裏面には、「昭和三十九年五月建 大阪 音無會」と書かれている。
石碑南には、松下家墓所がある。
JR和歌山線千旦(せんだ)駅下車、徒歩5分。来訪者用の駐車スペースがある。

当地の1.5㎞南にある旧中筋家住宅に下記の文章が掲出されている。

松下幸之助翁の少年時代 in 和歌山

【出生 ~ 転居】
〇幸之助少年は、明治27年(1894)11月27日、和歌山県名草郡和佐村千旦ノ木(せんだのき)で生まれました(現在は和歌山市禰宜)。
屋敷内に樹齢700年~800年の「千旦の松(せんだんのまつ)」があり、「松下姓」はこの松から来ているといわれています(松は落雷と民家の火災で枯れています)。
松下家のあった地域は、おいしいお米がとれ、山手にはミカン畑が多く、養蚕も盛んだったようです。
幸之助少年の祖父のころは、松下家から田井ノ瀬橋(西約1.8㎞)まで他の家の土地を踏むことなく行けるほど裕福な家でした。
〇幸之助少年は、父政楠と母とく枝との間に生まれました。男3人、女5人の8人兄弟の末っ子で、兄弟姉妹で一番かわいがられていました。
子守に負われて、小川で魚を捕ったり、ドジョウをすくったりして遊び、夕暮れには子守の背中で子守唄を聴き、ウトウトしながら家に帰ったといいます。
〇幸之助少年が4歳のとき、父親が事業で失敗し財産を失いました。一家は住み慣れた千旦の木を離れ、和歌山市内
に移り住みます。知人の紹介で本町1丁目で下駄屋を始めますが、1,2年のうちに店をたたんでしまいます。
その後、父が大阪に単身赴任して生計を立てることになります。(後略)


旧中筋家住宅

旧中筋家住宅は、和歌山市禰宜148番地にある。
中筋家は、天正13年(1585)羽柴秀吉による根来攻めを逃れ、根来から当地に移ってきた文貞坊(ぶんていぼう)に始まる。
貞享4年(1687)4代良政が禰宜村の庄屋となり、寛延3年(1750)5代良重が和佐組の大庄屋となった。
現在の主屋が建てられたのは、8代 良秘(よしやす)の時代で、嘉永5年(1852)に建築された。
その後、10代 良恭(よしやす)のときに現在の屋敷構えが整った。
主屋は、三階の望山楼を備えた大庄屋にふさわしい屋敷構えで、付属の門、蔵を含めて紀ノ川流域随一の大規模民家となっている。
昭和49年(1974)には、国の重要文化財に指定された。
旧中筋家住宅は、戦後 楫本重一(かじもとしげかず)氏の所有となり、維持管理されてきたが、その後、和歌山市が管理団体となっている。
平成12年(2000)から約10年をかけて保存修理事業を行い、平成22年(2010)から一般公開されている。
JR和歌山線千旦駅下車、徒歩20分。約300m南に来訪者用の無料駐車場がある。駐車場から旧中筋家住宅までは、熊野古道経由で歩くことができる。



和佐大八郎の墓

和佐大八郎の墓は、和歌山市禰宜にある。
紀州藩の弓術指南役であった和佐大八郎(1663-1713)は、
貞享3年(1686)に京都三十三間堂の通し矢(廊下の端から端まで一昼夜の間に射通す矢の数を競うもの)において、
(13053本のうち)8133本という日本一の記録を打ち立てた弓の名人である。
JR和歌山線千旦駅下車、徒歩25分。

田井ノ瀬駅

明治31年(1898)5月4日開業。
紀和鉄道としての開業時の駅名は「岩橋」で、開業半年後に現在の駅名に改称された。
開業当時、路線は和歌山駅(現在の紀和駅)と結ばれていたが、昭和36年(1961)に当駅から東和歌山(現在の和歌山駅)間に短絡線が開業し、
のちにこの短絡線が本線となって、田井ノ瀬~紀和間は廃止された。
2010年度の一日の乗降客数267人。


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