大和街道第1回 隅田駅集合~高野口駅解散

「大和街道」
一般的に、大和街道は奈良が都であったころ、都と地方を結ぶ道として誕生した。
日本歴史地名体系では、京から大和への大和街道と三重から大和への大和街道が紹介されている。

街道の日本史35巻「和歌山・高野山と紀の川」(藤本清二郎、山陰加春夫編)によると、紀北の街道として次のように紹介されている。
南海道 古代の官道=南海道は、大和から紀伊に入り、紀の川北岸を通り、加太駅から海を渡り土佐へ至る道である。
高野参詣道 京都から高野山へ参詣する道である。
17世紀の道(紀伊国絵図) 伊勢街道、熊野街道、上方街道、淡路街道、高野山と龍神温泉へ向かう往還
紀伊続風土記の道 上方街道、伊勢街道、熊野街道、熊野古道、高野街道ほか
大和街道 紀伊国名所図会に伊勢街道は「大和街道」と記されている。19世紀初めごろから大和街道という言葉が使用されるようになったという。
       明治9年(1876)から明治11年にかけて、国道、仮定県道が定められた。
       紀北筋では、上方街道が大坂街道と称され、伊勢街道は「大和街道」と規定された。
       この時以来大和街道の名が定着したという。



隅田駅

隅田駅は、和歌山県橋本市芋生にあるJR西日本和歌山線の駅である。
明治31年(1898)4月11日紀和鉄道の五条、橋本間で開業した際に設置された。
駅舎と待合室には、隅田中学美術部員が絵を描いている。(2011年)
駅前には、次の万葉歌碑がある。
   亦土山 暮越行而 廬前乃 角太河原爾 独可毛将宿 萬葉三 弁基 

亦土山(まつちやま)夕越え行きて 廬前(いほさき)の 隅田(すみだ)河原に ひとりかも寝む 万葉集 巻3-298 弁基 
(意味)亦土山を夕方に越えて行って、廬前の隅田の河原に独り寝ることであろうか。

紀の川河口から60㎞の地点で、わかやまサイクリングマップの案内と、紀の川サイクリングロードのスタート、ゴール案内の石柱がある。



真土山

真土山は、和歌山県橋本市にある旧跡である。
真土山は、標高約120m、葛城連峰の最南端にあり、対岸に恋野の山地が迫り、その間を紀ノ川が流れる景勝の地である。
国道24号線の南側に、万葉の道、真土山の石碑がある。
奈良からの旅では、この真土山を越えれば、あさもよし(枕詞)紀の国であり、万葉集では八首の歌が読まれている。
紀伊国名所図会に、真土山の風景が描かれている。
中央に真土山とあり、たくさんの松と桜が描かれた小山となっている。
右に大和側の「真土峠」、「真土川」(落合川)とあり、現在の極楽寺は「薬師」となっている。
上欄には歌が書かれている。
江戸時代の国学者で、松坂の本居宣長、養子の大平の作品である。

多ひなれハ 多れ加者王を 満川ちやま ゆふこえゆきて や登者とふとも
(旅なれば 誰かは我を 真土山 夕越え行きて 宿は問うとも)
雪と見亭 釣やな川まむ 白妙尓 尓保ふ 真土の 山さくら者那
(雪とみて 釣やなつまん 白妙に におう 真土の 山さくら花)
紀州より大和国尓修行せしみぎり 両国のさ可ひ真土山尓てよミ侍(はべ)る
きのく尓の さ可ひをしらハ 真土山 よしの川登も これよりそいふ  遊行地阿

本居宣長は、享和8年(1800年)から2年間、紀州藩を訪れ、紀伊国名所図会の執筆者、伊達千広や加納諸平、紀伊続風土記の仁井田好古等に国学の講義をしている。



慈願寺

慈願寺は、和歌山県橋本市にある浄土真宗の寺院である。
山号は旭日山と号し、江戸時代に刊行された紀伊続風土記には、上夙村の項に次のように記されている。
 浄土真宗西派海部郡和歌浦性應寺末 小名 小平(こびら)にあり 堂下除地なり
創建は、照玄法師で、境内には親鸞聖人像があり、古代の大賀蓮が育てられている。
蓮は、株分けされて万葉池や沼に植えられており、6月下旬から7月中旬の朝に見頃をむかえる。



笠朝臣金村 万葉歌碑

笠朝臣金村 万葉歌碑は、和歌山県橋本市隅田にある。
平成10年11月23日に橋本万葉まつり実行委員会により建立された石碑には、次のように刻されている。

     笠朝臣金村作歌
大君の 行幸のまにま もののふの
八十伴のをと 出でゆきし 愛し夫は
天飛ぶや 軽の路より 玉襷
畝火を見つつ あさもよし
紀路に入り立ち 真土山 超ゆらむ君は
黄葉(もみじば)の 散り飛ぶ見つつ 親(むつま)しく
われは思はず 草枕 旅をよろしと
思ひつつ 君にあらむと あそそには
かつは知れども しかすがに
黙然(もだ)も得あらねば わが背子が
行きのまにまに 追はむとは
千たび思へど 手弱女(たおやめ)の
わが身にしあれば 道守の 問はむ答を
言ひ遣らむ すべ知らにと
立ちてつまづく
            井関潤石
        万葉集 巻四ノ五四三



真土山万葉歌碑(万葉古道沿い)

真土山万葉歌碑(万葉古道沿い)は、和歌山県橋本市真土の飛び越え石に至る古道沿いにある。
隅田駅から飛び越え石に至る万葉古道沿いに、隅田駅前歌碑笠朝臣金村歌碑、石上歌碑、橡(つるばみ)歌碑、いで吾が駒歌碑の五基の石碑が建てられている。
当地の見開きの形の石上歌碑には次のように刻されている。

   紀ノ川の万葉   犬養 孝
まつちの山越え 大和の万葉びとが紀伊国にはいる最初の峠は、紀和国境のまつち山である。
そこは、五条市の西方、和歌山県橋本市(旧伊都郡)隅田眞土とのあいだの山で、
昔は山が国境であったが、現在は山の西方、落合川(境川・眞土川)が県境となって、その間に両国橋が架けられている。

  石上乙麻呂卿配土左国之時歌
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は たわやめの まとひによりて
馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢かくみて
大君の みことかしこみ 天ざかる 夷(ひな)へに退(まか)る
古衣(ふるころも) 又打山(まつちやま)ゆ 還り来ぬかも
                                    (巻六 - 一〇一九)

右側の副碑には、次のように記されている。
     真土の万葉歌碑
第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く
橋本の万葉が受け継がれる事を祈り
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 
文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の
著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻し
ここ万葉のふるさとにこれを建つ
  二〇〇〇年十一月二十三日 
   橋本万葉の会

赤御影石製の橡歌碑には、次のように刻されている。
(上面)
  橡之 衣解洗 又打山 
   古人尓者 猶不如家利
(前面)
                 作者不詳
  橡(つるばみ)の 衣解き洗ひ 眞土山
   本(もと)つ人には なお如かずけり
          万葉集 巻十二-三〇〇九


飛び越え石 神代の渡し

飛び越え石は、和歌山県橋本市と奈良県五條市の県境にある。
かつての紀伊国と大和国の境にある場所で、落合川を飛び越えるように渡ったことが名前の由来である。
万葉人が紀伊国への往還の際、故郷への郷愁と異国への思いを馳せた場所で、万葉の時代から現代まで姿を変えずに残っている全国でも珍しい場所である。
飛び越え石のすぐ上の階段横には、次の歌碑が建てられている。
(正面)乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 而速見年
    「いで吾が駒 早く行きこそ 亦打山
       待つらむ妹を 行きてこそ早見む」 作者未詳 (万葉集 巻12-3154)
    【意味】 さあわが駒よ早く行っておくれ、きっと今ごろ私を待っている妹に 早く逢いたいから。
(左面)いつしかと 待乳の山の桜花 まちてよそに 聞くが悲しき 後撰和歌集一二五六
(右面)誰にかも 宿りをとはむ待乳山 夕越いけば 逢ふ人もなし 新千載和歌集八〇七
東側には、とびこえ休憩所が作られている。
また奈良県側には、阪合部旧蹟保存会の「神代の渡し」の表示がある。



極楽寺

極楽寺は、和歌山県橋本市にある浄土真宗の寺院である。
山号は「真土山」と号し、紀伊続風土記には浄土真宗和州蘇我村(現在の奈良県桜井市蘇我町)の光専寺末と記されているが、
紀伊国名所図会三編巻三には薬師寺と表示されている。
過去帳などによると、最初は草葺建築の小堂であったが、明和3年(1766年)に現在のような五間四面の建物になったとされている。
境内には、橋本市指定文化財となっている宝篋印塔がある。
全高1.76m、緑泥片岩製で室町時代様式の典型的なものである。
塔身四方には梵字種子が陰刻されている。
他に銘文の存在は認められないが、橋本市内小峯寺の尺授年間宝篋印塔と造立年代が相前後すると推定されている。
この宝塔は、もと北方の山上にあったと伝えられる大聖寺跡より、江戸期に村人たちによって現在地に移建護持されたといわれる。
境内の薬師堂内には、薬師如来坐像、木造十一面観音立像、木造毘沙門天立像が安置されており、橋本市の指定文化財となっている。
平成6年(1994年)の三仏の修復で、十一面観音菩薩(157cm)の胎内から、如来立像(33cm)、地藏立像(37cm)の二体の仏像が発見された。




真土の万葉歌碑(国道24号線沿い)

真土の万葉歌碑(国道24号線沿い)は、和歌山県橋本市にある。

橋本市浄水場入口の万葉歌碑には、次のように刻されている。
    紀ノ川の万葉  犬養孝
 こんにちは、国道二四号線が山の北側を通り、鉄道が南側の山裾の川べりを通っているが、
古代は川べりを避けて、現、国道より南の低い、川ぞいの丘辺を越えていた。
峠の上は、東方は五條一帯の吉野川の広い流域を望み、一方西方には紀ノ川(和歌山県にはいると吉野川は紀ノ川と呼ばれる)の明るい河谷を望む。
紀路にあこがれる旅人のエキゾチシズムを刺激するのは当然のことであろう。

あさもよし 紀へゆく君が 信土(まつち)山
越ゆらむ今日そ 雨な降りそね
       -作者未詳- (巻九 - 一六八〇)

副碑には次のように刻されている。
  真土の万葉歌碑
第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く
橋本の万葉が受け継がれる事を祈り
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 
文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の
著書「紀ノ川の万葉」より その遺墨を刻し
ここ万葉のふるさとに これを建つ
  二〇〇〇年十一月二十三日 
   橋本万葉の会

上記歌碑の東側 国道を挟んだ向かい側の調首淡海の歌碑には、次のように刻されている。

朝毛吉 木人乏母 亦打山
行来跡見良武 樹人友師母
                   孝書

文武天皇大宝元年 紀伊牟婁の湯行幸の途次 調首淡海の作れる歌
あさもよし 紀人ともしも まつち山 
  行き来と見らむ 紀人ともしも
                      萬葉集巻第一
国際ロータリー創立七十五周年
橋本ロータリークラブ創立二十五周年
の記念事業として 萬葉歌碑の揮毫を
大阪大学名誉教授文学博士犬養孝先生に依嘱し 郷土のためこれを建つ
昭和五十五年十一月九日
  橋本ロータリークラブ



隅田八幡神社

隅田八幡神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
社伝によれば、859年の建立という。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、丹生都比売神(にうつひめがみ)、瀬織津比女神(せおりつひめがみ)で、中世には隅田荘の領主、石清水八幡宮の別宮であった。
正月15日の管祭り(くだまつり)は粥占神事として、管竹三本の束「舟」を小豆粥に入れて稲作の豊凶を占うもので、橋本市の無形民俗文化財に指定されている。
三本の竹筒は、穴一つが早稲(わせ)、穴二つが中稲(なかて)、穴三つが晩稲(おくて)で、小豆粥の釜に舟をつけ、神殿に供えた後、いずれの筒に多く米が入っているかを確かめ、参拝者に稲の作柄を宣言する。
神社に伝わる青銅鏡として、国宝の人物画像鏡がある。
江戸時代後期に、現在の橋本市妻で刀剣や土器とともに発見されたと伝えられ、我が国最古の金石文の一つして知られている。
直径19.9センチの国宝は東京国立博物館に寄託されており、境内では、国宝記念碑で拡大したものを見ることが出来る。
平成9年には、神社正遷宮の境内整備によって、隅田八幡神社経塚が発見された。
約5m四方の範囲に3基の経塚が確認され、うち1基は当時の姿をほぼ残していると見られており、墨書銘で長寛2年(1164年)に書写されたものであることが確認され、和歌山県指定文化財に指定されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩20分。



石碑「隅田党発祥の地」

石碑「隅田党発祥の地」は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社境内にある。

隅田党は、鎌倉時代以降紀伊国伊都郡隅田荘(現在の橋本市隅田町)を中心に活躍した同族的武士団である。
隅田は、「須美田」「須田」などとも記され、「信土山」「待乳山」とともに、万葉集、粉河寺縁起などに出ている地名である。
隅田八幡宮は、平安時代に石清水八幡宮の隅田別宮と呼ばれ、長治2年(1104年)忠延(ただのぶ)という人物が、八幡隅田別宮俗別当職に任命され、その子、藤原忠村が保安5年(1124年)に同職に任命されている。
また、石清水八幡宮寺政所の支配する荘園「須田荘」の荘務一切は、在地の土豪に任されていた。
隅田別宮俗別当職の忠延は、天永2年(1111年)隅田荘公文書職に補任され、その子、忠村は保安3年(1122年)に公文職となっている。
その後も忠延、忠村の子孫が荘務の公文職と別宮俗別当職を兼帯して、隅田荘の中心的存在となった。
そして北条家に仕えることとなり、この一族は地頭職を世襲して隅田氏を名乗っている。

太平記などによると、元弘元年(1331)隅田忠長が、六波羅検断、軍事奉行として鎌倉幕府方として活躍した。
元弘3年(1333)六波羅探題 北条仲時一行が京都から鎌倉に逃れる途中、近江国番場宿まで来たが、数千の朝廷方に包囲され四百三十余人が自刃した。
蓮華寺の住職同阿はこれを悼んで、墓を建て、紙本墨書陸波羅(ろくはら)南北過去帳を書いたが、その中に隅田左衛門尉時親など次の隅田一族11名が含まれている。
 隅田左衛門尉時親(39歳)、孫五郎清親(28歳)、藤内左衛門尉八村(42歳)、与一真親(19歳)、四郎光親(26歳)、五郎重親(20歳)
 新左衛門尉信近(20歳)、孫七国村(22歳)、又五郎能近(16歳)、藤三国近(17歳)、三郎祐近(25歳)

「隅田党発祥の地」石碑は、隅田八幡神社の正遷宮を機に、平成29年に隅田党一族の会が建立したもので、裏面に次のように刻されている。
   隅田党は隅田八幡宮の祭祀と隅田荘を基盤とした武士団として知られ、元弘3年(1333年)六波羅探題北条仲時とともに京都から鎌倉へ落ちる途中、
   近江国馬場宿に於いて主従四〇〇余人とともに一族十一人が自刃したと「太平記」に見える。
   室町時代には紀伊守護畠山氏の被官として各地を転戦、その活躍は「畠山記」に記され、城跡も隅田荘内各所に残る。
   江戸時代には紀州藩の支配下となる。
        隅田党一族の会
     平成29年10月吉日


霜山城

霜山城は、和歌山県橋本市隅田町中島にある城跡である。
「郷土・橋本市の城」によると、古城跡としてその遺構をはっきりと残しているが、築造者や城主は詳らかではない。
江戸期の資料やつい最近までの所有者に野口氏が知られている。
鎌倉末期から室町期にかけて、同地に中島氏や下山氏の名が見え、あるいはこの両氏が霜山城主であったとも考えられている。
霜山城は、隅田川と高橋川にはさまれた、隅田八幡神社を含む台地の西南端を占め、東は野口池に、西と南は断崖によって護られた要害の地にある。
北は空堀が二重に作られており、二重の堀にはさまれた細長い土塁は、蔀(しとみ)土塁と言われている。
城内は東郭と西郭に分かれ、間は土橋でつながっている。
民有地のため、立ち入りは制限されている。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩20分。



能近のうた石碑と阿弥陀如来像

能近のうた石碑と阿弥陀如来像は、和歌山県橋本市隅田町中島にある。
大和街道沿いの民家敷地内に建てられている。
又五郎能近は、隅田党に属し、元弘3年(1333)に近江の国番場宿(滋賀県米原市)の蓮華寺で自刃した。
当地の石碑は、能近を偲んで建立されたもので、石碑横には阿弥陀如来立像がある。

隅田党は、鎌倉時代以降紀伊国伊都郡隅田荘(現在の橋本市隅田町)を中心に活躍した同族的武士団である。
隅田は、「須美田」「須田」などとも記され、「信土山」「待乳山」とともに、万葉集、粉河寺縁起などに出ている地名である。
隅田八幡宮は、平安時代に石清水八幡宮の隅田別宮と呼ばれ、長治2年(1104年)忠延(ただのぶ)という人物が、八幡隅田別宮俗別当職に任命され、その子、藤原忠村が保安5年(1124年)に同職に任命されている。
また、石清水八幡宮寺政所の支配する荘園「隅田荘」の荘務一切は、在地の土豪に任されていた。
隅田別宮俗別当職の忠延は、天永2年(1111年)隅田荘公文書職に補任され、その子、忠村は保安3年(1122年)に公文職となっている。
その後も忠延、忠村の子孫が荘務の公文職と別宮俗別当職を兼帯して、隅田荘の中心的存在となった。
そして北条家に仕えることとなり、この一族は地頭職を世襲して隅田氏を名乗っている。

太平記などによると、元弘元年(1331)隅田忠長が、六波羅検断、軍事奉行として鎌倉幕府方として活躍した。
元弘3年(1333)六波羅探題 北条仲時一行が京都から鎌倉に逃れる途中、近江国番場宿まで来たが、数千の朝廷方に包囲され四百三十余人が自刃した。
蓮華寺の住職同阿はこれを悼んで、墓を建て、紙本墨書陸波羅(ろくはら)南北過去帳を書いたが、その中に隅田左衛門尉時親など次の隅田一族11名が含まれている。
 隅田左衛門尉時親(39歳)、孫五郎清親(28歳)、藤内左衛門尉八村(42歳)、与一真親(19歳)、四郎光親(26歳)、五郎重親(20歳)
 新左衛門尉信近(20歳)、孫七国村(22歳)、又五郎能近(16歳)、藤三国近(17歳)、三郎祐近(25歳)


利生護国寺

利生護国寺は、和歌山県橋本市下兵庫にある真言律宗の寺院である。
寺伝等によると、聖武天皇が行基に命じて建てた畿内四十九院の一つである。
その後寺は荒廃したが、弘安年間(1278-88)に最明寺(北条)時頼が再建した。
利生護国寺文書によると、弘安8年(1285年)、沙弥願心が兵庫荒野並びに田畑等を寄進した。
また永仁6年(1298年)関東祈祷諸寺注文では、鎌倉幕府の祈祷寺34か寺の一つにあげられ、鎌倉幕府の信仰を得ていたことがわかる。
利生とは、「利益(りやく)衆生」の意味で、仏・菩薩が衆生に利益を与えること、またその利益を指す。
覚王山利生院と号し、通称で大寺さんと言えば、伊都地方ではこの寺を指す。
中世には地名に因んで兵庫寺などとも呼ばれ、隅田一族の氏寺として栄えた。
本尊は行基作と伝えられる木造大日如来像で、和歌山県の重要文化財に指定されている。
本堂は、一重寄棟造、本瓦葺き、朱塗りの建物で、南北朝期の天授年間(1375-81)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
本堂北側に、裏山の斜面から移転した隅田一族の墓石群があり、「元中元年(1384年)」銘の墓石もある。
本堂前には、太閤駒繋松があり、「紀州名所図会」には、次のように記されている。
 「馬繋松 境内をおほへる大樹なり。文禄三年豊太閤高野参詣のとき、帰路当寺に止宿し給へるとき、馬を繋ぎしにより此名ありとぞ。(後略)」
2年に一度、大茶碗でお茶をいただく「大茶盛」が開催される。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩5分。本堂北側には、参拝者用の駐車場がある。



闇峠(くらがりとうげ)

闇峠(くらがりとうげ)は、和歌山県橋本市下兵庫にある。
大和街道は伊勢街道とも呼ばれ、室町時代の末期から、伊勢神宮へ庶民が参拝するようになり、各地に伊勢講が組織された。
橋本においても、道筋に茶店ができ、向副の二軒茶屋や下兵庫の「闇坂」が知られている。
闇坂茶店の土産物として「まんじゅう」が有名で、数年に一度の講参の時には、欠かすことのできない土産物であった。
紀伊名所図会には、「闇饅頭屋(くらがりまんじゅうや)」として当時の様子が次のように描かれている。
参宮の往来ここで茶を飲み、懐中の銭を探るところの黒暗嶺(くらがりとうげ)
名物の夫婦饅頭うまし、草津の姥ガ餅(うばがもち)にまけず 唐遣木
現在は、木製の道標が建てられている。



西光寺

法燈山西光寺は、和歌山県橋本市河瀬にある真言宗の寺院である。
紀伊続風土記の伊都郡 隅田荘 河瀬村の項に次のように記されている。

〇西光寺  真言宗古義垂井村大高能寺末
村の東にあり 古き地獄の書 大幅五幅あり 拙書なれども三百年も歴し物と見ゆ

かつては、年に一度お盆の施餓鬼に「地獄絵」が開帳された。
五幅が地獄画、一幅が現世の悪行の数々が描かれている。


妻の杜

妻の杜は、和歌山県橋本市にある。
この森は、東 中 西と3か所あり、西の森の場所に万葉歌碑が建てられている。

西の森

大宝元年(701年)辛丑十月大太上天皇(持統天皇)文武天皇の紀伊国に幸し時坂上忌寸人長(さかのうえいみひとおさ)の作れる歌

 紀の国に 止まず通わむ 妻の杜
  妻寄しこせね 妻といひながら
     或云(こくうん) 坂上忌寸人長(さかのうえのいみきひとおさ)(巻九 一六七九)

原文 城国尓 不止将往来 妻杜 妻依来西尼 妻常言長柄

紀の国へは 度々通うことにしよう
そこには妻の神のいる森がある その名の通りならきっと妻を授けてくれるだろう どうか私にも良い妻を

この歌は大宝元年(701)の持統、文武両帝の紀伊国、紀の温湯(きのゆ)(白浜温泉)行幸の際に、その従者の一人が詠んだものである。
妻を迎えたいという願う気持ちを、地名にかけてうたっている。
この歌で詠まれている「妻の杜」は、和歌山市平尾の都麻都比賣神社とみる説や、和歌山市和佐関戸の妻御前社の跡と見る説、その他があるが、犬養孝氏の「紀の川の万葉」によると、「南海道に沿う橋本の妻ではなかろうか。」と記している。

南海高野線及びJR和歌山線橋本駅下車、徒歩10分。



中の森と九品山阿弥陀寺

九品山阿弥陀寺前には、妻の杜保存会の説明版が建てられている。
説明版の地図によると、現在の国道24号線の北に「伊勢街道」が通っており、南に「南海道、大和街道」が通っていた。



東の森



橋本駅前万葉歌碑

橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。

白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
 わが馬なづむ 家恋ふらしも  作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。

右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
 2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会

紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。




伊勢(大和)街道 古佐田道標石

伊勢(大和)街道 古佐田道標石は、和歌山県橋本市にある。
平成9年に橋本市の文化財に指定された。
各面に、次の銘文が刻されている。
(東面) 左 かうや 古かわ
       き三井寺 わか山
(南面) 右 いせ 山上 よしの
        なら はせ たへま
(北面) 銘なし
(西面) 塀に接しており不明
昭和50年刊行の橋本市史下巻の金石文調査によると、嘉永3年(1850)建立とされている。
道路拡張の際に現在位置に置かれた。伊勢街道は、現在の道路と同じくここでかぎ型に曲がっていたと伝えられている。




愛宕大権現

愛宕大権現は、和歌山県橋本市古佐田にある。
愛宕信仰は、愛宕神社の祭神にかかわる火伏せ、防火の信仰である。
根本社は、京都市右京区の愛宕山に鎮座し、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、迦俱槌神(かぐつちのかみ)、雷神(いかづちのかみ)ほか数神を祀っている。
愛宕の語源は、「背面」「日隠」の意味を持つ「あて」による(柳田国男「地名の研究」)とも、
母神の伊弉冉尊を焼死させた火神の迦俱槌神が仇子(あたご)であるから(本居宣長「古事記伝」)ともいう。
愛宕信仰では、火伏せの信仰と地蔵信仰との結びつきが認められ、これは、神仏分離以前の愛宕山の本地仏として勝軍地蔵が祀られていたことに由来する。
勝軍地蔵は、戦の守護神として武将などから厚く信仰され、同時に京都愛宕山が平安京を守護する神であったように、境の神として塞(さえ)の神の性格を持っていた。
千日詣でと称して、旧暦6月24日(現7月31日)に参詣すれば、千日分に当たるといわれる。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅下車、徒歩10分。



飛び込み岩

飛び込み岩は、和歌山県橋本市の紀ノ川にある。
前畑秀子と古川勝は、ともに橋本市出身の水泳選手で、オリンピックで金メダルを獲得するなど輝かしい業績を残した選手である。
大正年間、昭和初期は、紀ノ川の水量は今よりも多く、子どもたちは紀ノ川で泳いでいた。
前畑秀子(1914-1995)の生家は、紀ノ川北岸で、この飛び込み岩付近で水泳の練習をしていた。
小学校4年生で水泳部に入部し、高等科1年生(現中学1年生)で100m平泳ぎの日本新記録を樹立している。
その後、室内プールを完備した名古屋の椙山高等女学校に編入し、昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
4年後の昭和11年(1936)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、日本人女性初となる金メダルを獲得し、ラジオ中継で「前畑ガンバレ」と、ガンバレを23回連呼した伝説のアナウンスは後世にも語り伝えられている。
古川勝(1936-1993)は伊都郡橋本町(現在の橋本市)で生まれ、紀ノ川に潜って幼少期を過ごした。
中学校の水泳大会で優勝し、前畑秀子から平泳ぎに専念するように指導を受けた。
その後、橋本高等学校、日本大学で水泳を続け、昭和31年(1956)のメルボルンオリンピック200m平泳ぎで優勝し、水泳競技で戦後初の金メダリストとなった。




旧橋本本陣 池永家住宅

旧橋本本陣 池永(洋三)家住宅は和歌山県橋本市橋本2丁目にある。
平成10年に国登録有形文化財に指定された。
国道24号線の南側に接し、紀ノ川との間に建てられている。
国道に接して主屋、表門を挟んで西側に土蔵、その南側に中庭をおいて、紀ノ川を眼下に見下ろす離座敷が配されている。
主屋は入母屋造本瓦葺つし2階建の建物で、大棟鬼瓦銘から宝暦2年(1752)の建築と推定されている。
1階玄関西側に格子、2階には虫籠窓が入る重厚な建物である。
離座敷は襖の木箱銘から享和3年(1803)の建築と推定され、文化2年(1805)には紀伊藩八代藩主徳川重倫が宿泊した。
弘化3年(1846)2月1日久野丹波守が田丸帰国の際に本陣を務め、離座敷を利用したという。
土地区画整理事業が実施され、曳家工法で当初の位置から南に約6m移転した。


前畑秀子古川勝資料展示館

前畑秀子資料展示館は、和歌山県橋本市にある。
前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋の長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正14年(1925年)には、11歳で50m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。
前畑秀子資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されている。
資料館では、「前畑がんばれ」の実況音声の録音を聴くことが出来る。また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。

橋本戎神社

橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。

橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。

紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように知るされている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ

現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



旧橋本町道路元標

旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。




応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
1587年に応其によって創建され、山号は中興山と号する。
応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。



みそや別館

みそや別館は、和歌山県橋本市橋本1丁目にある。
橋本は、東西に走る伊勢(大和)街道沿いに多数の町家が建ち並び、町並みを形成していた。
みそや別館はこの伊勢街道沿いに建つ町家の一つで、もとは谷口家住宅であったが、今はみそや呉服店となっている。
幕末までは味噌を扱っていたのでこの屋号となっている。
街道沿いの主屋は、切妻造桟瓦葺の建物で、屋根をコの字形にかけ、西半は中庭とし、2階には数寄家風の座敷を設けている。
明治17年(1884)に京都の大工を招いて建てられたもので、緩い起り屋根、虫籠窓風の2階窓など京町家のたたずまいを伝えている。
土地区画整理事業(曳家工法)によって、仮移転を経てほぼ元の位置に戻された。
平成16年に、国の登録有形文化財に指定されている。



火伏医院

火伏医院は、和歌山県橋本市橋本1丁目にある。
伊勢(大和)街道に接して南側に建てられていた。
火伏家は、江戸時代は塩問屋に名を連ね、醤油醸造も業とした。
大正6年(1917)に医院を開業している。
主屋は切妻造り桟瓦葺つし二階建の町家建築である。
西部分を中土間とし、東部分の2室の座敷は落棟で江戸時代末期の改築とみられている。
享保6年の棟札が残り、建築年代が明らかな和歌山県内で最も古い町家である。
主屋の西側に隣接して大正10年(1921)に建てられた木造2階建ての洋館建築があり、医院として用いられている。
外壁は下見板張りの洋館建てで、縦長の窓が設置されている。
高床式の床は、洪水対策のためで、たびたび洪水に見舞われた橋本の町で、当地の特徴が良くあらわれた造りである。
土地区画整理事業(曳家工法)により、現在地に移転した。
平成16年に国の登録有形文化財となっている。

太神社 一里塚(一里松)  橋本川船仲間中石灯籠

太神社(だいじんじゃ)と一里塚(一里松)は、和歌山県橋本市にある。
江戸時代に旅人の便宜を図るために、街道の両側に一里(約4㎞)毎に土を盛り、里程の目標として塚を築いて「一里塚」と呼んでいた。
その広さは五間四方(約81㎡)とかなり大きく、塚の代わりに榎や松を植えたところもあった。
紀州藩では、和歌山城下の京橋北詰を起点に紀の川に沿って1里(約4㎞)毎に設けられていた。
当地は11里目にあたり、10里の松は高野口町名古曽、12里は隅田町中島にあったとされているが、現存していない。
多くの一里松が失われた中で、当地の一里松は戦前まで残っていたが、現在は一里松を再現した松が植えられ、近くに一里塚の石柱が建てられている。
江戸時代初期から当地は川原町と呼ばれ、船宿や紀の川を行き来する川船仲間の舟運業者が軒を並べていた。
太神社は天正年間(1573-92)に木食応其上人が松ケ枝橋の東詰に勧進したものと伝えられ、
地元では「ゴウシンサン」と呼ばれている。
祠前にはほぼ同型同規模の二基の石灯籠が建ち、右側(東)の石灯籠一基は、寛政8年(1796)当地川船仲間が神前に奉納したもので、橋本市の文化財に指定されている。
竿部には次の通り刻まれている。
 右、東面 寛政八丙辰十二月 日
 正、南面 太神社夜灯
 左、西面 橋本川船仲間中
拝殿に向かって左側には、16年後に建てられた石灯籠がある。
竿部に次の銘文がある。
 右、東面 文化九年壬申九月吉日
 正、南面 太神社
 左、西面 町内中


東家の追分石

東家の追分石は、和歌山県橋本市東家にある。
追分とは、道が左右に分かれるところをいう。
伊勢(大和)街道と高野街道が交差する四つ辻に旅人の便宜を図るためにもうけられた道標石である。
東面に「右 京大坂道」、西面に「右 こうや 左 京大坂道」
南面に「南無大師遍照金剛 施主 阿州一楽村 藍屋元次郎 
     世話人 当邑 河内屋次右エ門」
北面に「右 わかやま こかわ
     左 い勢 なら はせ よしの 追分」
と刻まれている。
阿州とは、徳島のことで、徳島県の北の粟の生産地で「粟の国」、南の「長の国」と呼ばれ、大化の改新の後に「粟国」に統一された。
和銅6年(713年)、元明天皇の命により、地名を二字で表記するため、粟は「阿波」に変更された。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。




巡礼観音

巡礼観音は、和歌山県橋本市東家にある。
地元では「かんのんさん」と呼び親しまれている。
脚の痛みを治してくれる観音といわれる。
行き倒れた巡礼者が死んだため、村人がお堂を建て、背中に背負っていた観音さんを祀ったという。
初午には近辺の有志から寄付を集めて餅を搗き、般若心経を唱えた後、この境内と広場で餅まきをしている。
また9月20日前後の日曜日に有志が集まり、千部観音経を唱えて拝んでいる。
巡礼観音の西側に、藤紫大明神と書かれた社がある。
南海高野線橋本駅下車、徒歩10分。



大師の井戸

大師の井戸は、和歌山県橋本市東家1丁目にある。
大和街道南側に大師の井戸の石柱と祠があり、井戸の上には蓋がされている。


相賀大神社

相賀大神社は、和歌山県橋本市市脇にある神社である。
祭神は、天照大神、伊邪那岐神、伊邪那美神である。
かつて相賀荘20ケ村の氏神で、豪族生地(おいじ)氏が神官であったと伝えられている。
相賀荘は、平安時代末期に高野山密厳院領として成立した。
その後、鎌倉時代に密厳院が大伝法院とともに根来に移って根来寺となると、相賀荘は根来寺領として引き継がれ、その時にこの神社は、相賀荘の鎮守として根来の三部権現を勧請したといわれている。
紀伊名所図会では「總社三部明神社」と書かれており、現在の社殿にも扁額が掲げられている。
境内では古くから市が営まれ、この市は中世には惣社之市といわれ、「市脇」という地名はこのことによる。
社前の石燈籠は、高さ1.8m、砂岩の六角形で竿部節間上段に「正平十年(1335年)十一月一日」、下段に「大師講衆敬白」と刻銘されている。
かつて根来寺の領地で繁栄した時代の面影を残す燈籠で、県の文化財に指定されている。
釣鐘は、元禄13年(1700年)の鋳造で、橋本市旧柏原村の鋳物工長兵衛の作である。
柏原村は、鋳造師の里として南北朝時代から知られ、伊都や大和の梵鐘が作られていた。
第二次世界大戦で供出されたが、終戦で改鋳を免れて戦後返却されたもので、供出の際につけられた小穴が残っている。
本殿裏には、市脇相賀古墳群が発見されている。
南海高野線橋本駅からバスで城の内住宅前下車、徒歩5分。


市脇相賀古墳群 

市脇相賀古墳群は、和歌山県橋本市の相賀大神社の北にある史跡である。
山田川と市脇川に挟まれた南に突き出した丘陵先端の南斜面に造られた古墳群で、昭和43年に橋本市の文化財に指定されている。
「紀の川用水建設事業に伴う発掘調査報告書」(昭和53年)によると、昭和44年(1969年)の段階ですでに開口している横穴式石室をもつ古墳が3基知られており、分布調査の結果、さらに5基の円墳が確認された。
すでに知られていた3基のうち1基は造成工事により消滅していたため、7基が残されていた。
1号墳は神社のすぐ背後にあり、古墳の南側は水路により削り取られている。径3.6m、高さ1.8mの墳丘規模で、内部主体は緑泥片岩を用いた割石積みの横穴式石室となっている。
石室は南に開口するが、羨道(遺体を納める部屋に至る通路)部は、ほぼ全壊しており、長さ2.8m、高さ1.5m、幅1.5mの両袖式の玄室(遺体を納める部屋)部が残存していた。
副葬品等は伝えられておらず、詳細は不明であるが、後期古墳に属するものとみられている。しかし、昭和の末期、台風による倒木のため崩壊した。
また、背後の斜面には4号墳から8号墳の5基の墳丘が認められるとともに、西方50mには2号墳が入口部分を破壊された状態で玄室のみが残っている。(現地の案内板から)
南海高野線橋本駅からバスで城の内住宅前下車、徒歩5分。




銭坂城跡 

銭坂城跡は、和歌山県橋本市野にある史跡である。
銭坂城は、野の北方、標高60mの小丘にあった生地(恩地)氏の居城である。生地(おんじ)城、相賀(おうが)新城ともいう。
紀伊續風土記によると、生地氏は本姓坂上氏で、坂上氏は相賀荘下司である。
承久年間(1219-22)坂上朝澄の時、軍功によって「禿村東岡」(現在の学文路)に畑山城を築いた。
その後、生地氏は伊都郡司として楠木正成と婚姻関係を結び、河内千早・赤坂城などの戦いに加わり、以降も南朝に属して没落した。
応永年間(1394-1428)畠山基国に属し、足利義満から旧地を与えられ、永享年間(1429-41)畑山城をこの地(相賀荘)に移し、相賀新城と称して、居城としたのが始まりである。
日本城郭全集では、坂上田村麻呂の子孫 生地俊澄が築いた城とされている。
畠山氏滅亡後は織田・豊臣両氏に属したという。
城の規模は、紀伊續風土記によれば、「周三百五十間、東南北は高さ九間、西は平地、四間余の空堀あり」と記されている。
城跡は「城の内」にあり、土塁・空堀の一部が残っている。
また、城跡の北の尾根を「馬場の尾」と称し、方150mほどの平地で、出城跡といわれている。
吉田亘氏の「郷土・橋本市の城」によると、同城は、紀の川とその支流山田川にはさまれた台地の先端部に設けられた館城で、城域の北は、山田川に向かって、東は台地末端の、南は紀の川に臨んで三方が約八米の切り立った断崖状をなしていた。
城西側の土塁は、今も「鈴ケ森」と呼ばれ、小さな社が鎮座する台形の土木構築物として残され、その外側(西側)には、堀の跡が草木に覆われて残っている。
北の祠の前には、生地石見守の石碑が建てられている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。



寿命寺

瀧本山寿命寺は、和歌山県橋本市野にある高野山真言宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来である。
境内には、三社明神が祀られている。
また、「野簡易水道タンク跡」の石碑が建てられている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車徒歩10分。



六郷極楽寺 

六郷極楽寺は、和歌山県橋本市神野々にある寺院である。
神野々七墓(こののななはか)(周辺六地区の共同墓地)前に建つ阿弥陀堂で、14世紀初めの史料に出ている。
本尊阿弥陀如来坐像は、下品中生の説法印を結ぶ数少ない例で、鎌倉時代の作品として和歌山県指定文化財となっている。
境内には、正平七年七月一五日(南朝年号1352年 本堂に向かって左側)、正平一三年の五輪塔(いずれも橋本市指定文化財)が建ち、一字一石経も発見されている。
阿弥陀堂とその背後の山際斜面の七墓、そして頂上の熱田社に至るラインは、古代の霊魂山中他界説に基づいている。
日本人は死者が行く世界は三つあると考えていた。「山中他界」「地中他界」「海上他界」である。
地中の他界は「黄泉の国」、海上他界は「常世の国」と呼ばれる。
そのため、お盆には精霊は山(山中他界)から帰ってきて、常世の国(海上他界)に去っていくと考えられ、精霊流しが行われた。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。



山田地区公民館

橋本市山田地区公民館は、和歌山県橋本市柏原にある。
昭和41年3月に西部公民館として完成した。
平成7年3月に西部地区公民館に改称、改築を行い6月に開館した後、平成28年4月場所を西向かい側に移転新築し、山田地区公民館としてリニューアルオープンした。
延床面積は、619㎡で、事務所、研修室、和室、調理実習室、図書室、会議室がある。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。来館者用の駐車場がある。


応其太神社

応其太神社(おうごたいじんじゃ)は、和歌山県橋本市高野口町応其にある神社である。
主祭神は、天照大神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)の三神で、厳島大神(市杵島比売命)、桜木大神を配祀する。
当神社の創設年月日は明らかではないが、応其三社太神社ともいわれ、鳥居の扁額にも記されている。
境内から出土した土器片や布目瓦等から、平安時代に起源があるものともいわれる。
境内拝殿南には、梛(なぎ)の木雌雄の二本があり、明和8年(1771)と記された石燈篭一対がある。
昭和57年(1982)正遷宮によって本殿拝殿の改築、境内地の整備が行われ、遷宮を記念して、御遷宮実行委員会とどんぐり子供会が、拝殿地下にタイムカプセルを埋蔵し、西暦2042年10月2日に開封することになっている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩15分。


名古曽墳墓

名古曽廃寺跡の北東約200mにある一里山の丘陵地(名古曽墳墓)は、県史跡に指定されている。
昭和38年(1963年)10月13日、高さ23.1cm・幅27.6cmの三彩骨蔵器(国の重要文化財)が、滑石製石櫃(いしびつ)に収められた状態で出土した。発掘者は、名古曽の梅谷博男氏である。
奈良時代の典型的な薬壺形骨蔵器であり、蓋、身ともに緑、白、褐(かち)の三色の釉がかけられている。
全体に褐色が強いのは胎土に鉄分を含んだあらい土を使い、さらに一般の緑釉陶器等より高温で焼き上げられたからである。
形は中ふくらみの豊満の形で、色彩、光沢の鮮明さと大きさから奈良三彩の一品とされ、わが国考古学・陶芸史上貴重な存在である。
埋納土坑の須恵器から8世紀後半に成人男子火葬骨を葬ったものと考えられている。
実物は、京都国立博物館で保管され、橋本市産業文化会館にレプリカが展示されている。



史跡 一里松

和歌山城の京橋から10里目の松が植えられていた。
昔から、「10里四方ところ払い」といい、罪人はここで解き放たれた。
陸奥宗光の家族もところ払いとなった。
松は、戦時中に伐採され、新しい松が植えられている。


名古曽廃寺跡

名古曽廃寺(なこそはいじ)跡は、和歌山県橋本市にある和歌山県指定史跡である。
そこには「護摩石(ごまいし)」と呼ばれる大きな石が残されている。
かつて、祈親(きしん)上人が、この場所で護摩を修したとの言い伝えによりこの名がある。
この石は、長さ223cm、幅133cmで、中央に直径44cmの心柱をうける孔があり、さらにその中に仏舎利をおさめる孔がある。
これは、古代寺院の塔の心柱をすえる心礎と呼ばれる礎石で、平成元年度の発掘調査によって、一辺が約9mの規模を持つ塔跡であることが確認された。
平成2年度の発掘調査によって、塔跡の西側から東西約15m、南北約12mの規模の金堂跡が確認された。
これにより東に塔、西に金堂を配置する法起寺式伽藍配置であったことが明らかになった。
こうした発掘調査に基づき、現地に基壇や礎石が復元され、史跡公園として整備されている。



瀧井寺

不老山瀧井寺は、和歌山県橋本市高野口町にある。
境内には、「弘法大師不老水 瀧井之跡」の石碑が建てられ、次の説明文がある。
   不老の瀧井旧蹟
 弘法大師、高野山開創の砌、八町四方の伽藍でありし名古曽廃寺に錫を留め万民の浄福を祈りて、
薬師如来の実像を刻み、身とこころの病患を癒やす不老の浄楽を残せりと伝う。

本堂前には「瀧井寺再建の疏」の石碑があり、次のように刻されている。
 不老山瀧井寺は、弘法大師高野山開創の砌、錫を名古曽廃寺に留め、
佛縁深きこの地に不老の清水のあることを教え、薬師如来の霊像を刻みて、
住民の長寿と平安浄福を祈りし霊蹟なり。
長徳4年(998年)祈親上人定誉四十二歳の時、この地を尋ね厄除けの護摩を修せし文献と共に、
その霊験は長く伝承され来るも天災兵乱の災禍により当時の面影を偲ぶに由なく、
一宇を残せしも、明治維新の廃佛棄釈(毀釈)の法難により無住となる。
爾来幾度か修復を重ね護持に尽力し来れるも、荒廃の度ついに改修の及ぶ能わざるところとなりけり。
 この度、先祖菩提、子孫浄福、郷土発展を憶念せし檀徒の熱願が熟し、
本堂並びに庫裡再建の浄業を達成するに至る。佛天の冥護、期して待つべきものあり。
 ここに、再建の素懐を誌し、御寄進功徳主の法名を刻み、霊蹟の永く伝えるものなり。 合掌
     昭和六十三年三月吉祥日
                              瀧井寺兼務住職 大僧正 谷本 嘉隆

本堂には、瀧井寺御詠歌の額が奉納されている。
 本尊薬師如来
 苦しみを あだにはなせじ 滝の井の すめる心ろの うつる月かげ


田原川踏切

昭和7年(1922)8月、高野町議会に四川合流の提案が出された。
これは、政府の補助金を仰ぎ、田原谷川、盲川、東谷川、宮谷川の四川を合流して、嵯峨谷川に合流させるという内容で、
高野口町の中心街にあった天井川の流路を変更するものである。
工事は昭和8年(1923)から開始し、昭和10年(1935)に完成した。昭和11年に昭生(しょうぶ)川と命名された。
廃川の敷地は、町が譲り受け、高野口小学校用地や道路用地となった。


高野口駅

高野口駅は、和歌山県橋本市高野口町にある。
明治34年(1901)3月29日に紀和鉄道名倉駅として開業した。
明治36年(1903)1月1日に高野口駅に改称された。
紀和鉄道は、明治29年(1896)に設立された鉄道会社で、五条和歌山間を建設運行していた。
その後、明治37年(1904)に関西鉄道に買収され、さらに明治40年鉄道国有法により国有化された。
明治から大正時代にかけて、同駅は高野山参詣の表玄関となり、駅前には旅館が建ち並び、人力車が行列をなして参詣登山口の九度山まで往復した。
大正4年(1915)4月1日から5月20日までの50日間、「高野山開創千百年記念大法会」が執行された。
その時の高野登山者の紀和鉄道での各駅の乗降者は次のとおりである。
  高野口駅 27万1855人  橋本駅 8万5290人
  妙寺駅   1万5179人  笠田駅 1万7883人
約7割の参詣者が高野口駅経由で、椎出、神谷の新高野街道を使って高野山に登っていた。
その後、大正14年(1925)に大阪から高野山への登山鉄道が開通し、参詣者は鉄道利用に変わっていった。
JR和歌山線高野口駅下車。



葛城館

葛城館は、和歌山県橋本市高野口駅前にある。
木造3階建て、入母屋造りの旅館で延べ約323㎡で、明治時代後期の建築である。
千鳥破風と軒唐破風を3階本屋根の正面に取り付け、銅板葺の庇と正面が総ガラスとなっている。
内部は旅館営業当時そのままに残されており、明治大正時代の常連が残した看板(講中札)や竈などがある。
高野口は、明治34年(1901)に紀和鉄道名倉駅の開業以来、高野参詣の入り口となり、
葛城旅館のほか、東雲旅館、高島館、大仲館、水野館、富久屋、守内席、平野屋、増田屋、盛進楼、
九重館、全盛楼、笠本館、下村屋、福の屋、東屋、桃山館、橋詰館、布袋屋などが営業していた。
葛城館は、平成13年11月20日に国の登録有形文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅下車すぐ。


地蔵寺

地蔵寺は、和歌山県橋本市高野口町にある真言宗山科派の寺院である。
本尊は、地蔵尊大菩薩(石造)である。
創建は定かではないが、延宝5年(1677年)の大指出帳に地蔵寺の名が記されている。
この寺は、西隣にあった西福寺が座衆(元からの居住者)の寺であるのに対して、平(新たな居住者)の建てた寺だと伝えられている。
本堂の西側に、高さ2m、幅70~80cmの均斉のとれた優美な五輪塔がある。
正平11年・延文1年(1356年)名倉村の有力農民層であった光明真言一結衆等が、西福寺境内に建立したが、明治初年廃寺となり、東隣の地蔵寺に引き継がれ現在地に移築された。
南北朝(吉野朝)時代のもので、和歌山県の重要文化財に指定されている。
当寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石灯籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。
中央に「光明真言講中」左右に「大道元年七月吉日」と刻まれている。
紀伊續風土記では、「南朝に奉仕せし人の子孫等、当時の年号を用ふるを快とせずして、私に建てた号なるべし」と記され、南北期末に使われた私年号とされている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩3分。


前田邸 

前田邸は、和歌山県橋本市高野口町にある前田家の店舗兼住宅として代々承継されてきた建物である。
江戸時代から薬種商を営み、大庄屋もつとめたこともある町家である。
屋号は、「辻本屋」で、これは旧大和街道と旧高野街道が交差する場所に建てられていたことに由来する。
初代 前田嘉助(1746-1815)は、薬種商で当時流行の石門心学を学び、その普及に努めた。
二代 前田文治郎(俳号・文鵲 1762-1847)は、先代の心学を継承するとともに、紀州俳諧の中興の祖とされる松尾塊亭の門人として「双松」の標号をうけたため、前田邸は「双松舎」とも呼ばれている。
六代 前田友次郎(1871-1935)は、奈良の出身で高野口郵便局長となり、地元の人々から敬愛された。
友次郎は、徳富蘇峰と親交があり、日露戦争に従軍記者として出向いた志賀重昂(しがしげたか)とも友人であった。
その縁で、日露戦争当時の乃木希典司令官が、「二〇三高地」の攻防で書いた「爾霊山」の詩が保存されている。
日曜日に内部が無料公開され、土蔵の中には、江戸・明治時代の生活を偲ばせる品々が展示され、主屋と書院も見学できる。
主屋(江戸時代)、中書院(明治時代)、新書院(大正時代)の三棟が、国の有形登録文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩5分。西側に見学者用の駐車スペースがある。

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