大和街道第2回 高野口駅集合 西笠田駅解散
高野口駅は、和歌山県橋本市高野口町にある。
明治34年(1901)3月29日に紀和鉄道名倉駅として開業した。
明治36年(1903)1月1日に高野口駅に改称された。
紀和鉄道は、明治29年(1896)に設立された鉄道会社で、五条和歌山間を建設運行していた。
その後、明治37年(1904)に関西鉄道に買収され、さらに明治40年鉄道国有法により国有化された。
明治から大正時代にかけて、同駅は高野山参詣の表玄関となり、駅前には旅館が建ち並び、人力車が行列をなして参詣登山口の九度山まで往復した。
大正4年(1915)4月1日から5月20日までの50日間、「高野山開創千百年記念大法会」が執行された。
その時の高野登山者の紀和鉄道での各駅の乗降者は次のとおりである。
高野口駅 27万1855人 橋本駅 8万5290人
妙寺駅 1万5179人 笠田駅 1万7883人
約7割の参詣者が高野口駅経由で、椎出、神谷の新高野街道を使って高野山に登っていた。
その後、大正14年(1925)に大阪から高野山への登山鉄道が開通し、参詣者は鉄道利用に変わっていった。
JR和歌山線高野口駅下車。
葛城館は、和歌山県橋本市高野口駅前にある。
木造3階建て、入母屋造りの旅館で延べ約323㎡で、明治時代後期の建築である。
千鳥破風と軒唐破風を3階本屋根の正面に取り付け、銅板葺の庇と正面が総ガラスとなっている。
内部は旅館営業当時そのままに残されており、明治大正時代の常連が残した看板(講中札)や竈などがある。
高野口は、明治34年(1901)に紀和鉄道名倉駅の開業以来、高野参詣の入り口となり、
葛城旅館のほか、東雲旅館、高島館、大仲館、水野館、富久屋、守内席、平野屋、増田屋、盛進楼、
九重館、全盛楼、笠本館、下村屋、福の屋、東屋、桃山館、橋詰館、布袋屋などが営業していた。
葛城館は、平成13年11月20日に国の登録有形文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅下車すぐ。
ババタレ坂は、和歌山県橋本市高野口町にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
ババタレ坂(高野街道・大和街道)
明治33年紀和鉄道(当時)高野口駅が開設されて以来、
高野山への本道として賑わい、多くの参詣客が徒歩や人力車で通ったところです。
高野山の杉材(成育九十九年毎)を九度山町入郷の営林署から
JR高野口駅まで牛馬によって運ぶ際に、駅手前の急な坂で牛馬がババ(糞)をしたために、
この先の天井川に架かる橋までが、「ババタレ坂」と呼ばれるようになりました。
高野口町
名倉市場蛭子神社は、和歌山県橋本市高野口町名倉にある。
現地の由緒書きには、次のように記されている。
由 緒 名倉(藏)市場蛭子神社
当社は、名倉市場を守護するために祭祀された神社です。
名倉村は、高野山領荘園で最古の官省符荘の中で中心的な村落であり、
市場は遅くとも鎌倉時代から開設され、荘内の交易の中心的な存在でした。
江戸中期の葛城修験者の回行地の記録に、「エビス名藏ノ町」とあり、
市場蛭子神社が聖地の一つで、古来市場では、市祭が修験者によって実施されていたことの名残りです。
大正元年八幡宮へ合祀の後、しばらくして町内で風邪ひきが流行し蛭子神社を祭らなければいけないとなり、
八幡宮から再び社をこの場所にお迎えし、えびす講でお祭りすることになりました。
毎年一月九日(宵戎)、一月十日(本戎)は「名倉市場えびす」として大勢の参拝者で賑わい、
商売繁盛、家内安全など開運の願い事を叶えてくれる福の神として親しまれています。
JR和歌山線高野口駅下車徒歩5分。
地蔵寺は、和歌山県橋本市高野口町にある真言宗山科派の寺院である。
本尊は、地蔵尊大菩薩(石造)である。
創建は定かではないが、延宝5年(1677年)の大指出帳に地蔵寺の名が記されている。
この寺は、西隣にあった西福寺が座衆(元からの居住者)の寺であるのに対して、平(新たな居住者)の建てた寺だと伝えられている。
本堂の西側に、高さ2m、幅70~80cmの均斉のとれた優美な五輪塔がある。
正平11年・延文1年(1356年)名倉村の有力農民層であった光明真言一結衆等が、西福寺境内に建立したが、明治初年廃寺となり、東隣の地蔵寺に引き継がれ現在地に移築された。
南北朝(吉野朝)時代のもので、和歌山県の重要文化財に指定されている。
当寺庫裡裏に元名倉村弁天の森にあったとされる石灯籠の円柱(直径25cm、高さ70cm)が保管されている。
中央に「光明真言講中」左右に「大道元年七月吉日」と刻まれている。紀伊續風土記では、「南朝に奉仕せし人の子孫等、当時の年号を用ふるを快とせずして、私に建てた号なるべし」と記され、南北期末に使われた私年号とされている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩3分。
前田邸は、和歌山県橋本市高野口町にある前田家の店舗兼住宅として代々承継されてきた建物である。
江戸時代から薬種商を営み、大庄屋もつとめたこともある町家である。
屋号は、「辻本屋」で、これは旧大和街道と旧高野街道が交差する場所に建てられていたことに由来する。
初代 前田嘉助(1746-1815)は、薬種商で当時流行の石門心学を学び、その普及に努めた。
二代 前田文治郎(俳号・文鵲 1762-1847)は、先代の心学を継承するとともに、紀州俳諧の中興の祖とされる松尾塊亭の門人として「双松」の標号をうけたため、前田邸は「双松舎」とも呼ばれている。
六代 前田友次郎(1871-1935)は、奈良の出身で高野口郵便局長となり、地元の人々から敬愛された。
友次郎は、徳富蘇峰と親交があり、日露戦争に従軍記者として出向いた志賀重昂(しがしげたか)とも友人であった。
その縁で、日露戦争当時の乃木希典司令官が、「二〇三高地」の攻防で書いた「爾霊山」の詩が保存されている。
日曜日に内部が無料公開され、土蔵の中には、江戸・明治時代の生活を偲ばせる品々が展示され、主屋と書院も見学できる。
主屋(江戸時代)、中書院(明治時代)、新書院(大正時代)の三棟が、国の有形登録文化財に指定されている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩5分。西側に見学者用の駐車スペースがある。
旧高野口尋常高等小学校校舎は、和歌山県橋本市高野口町にあり、現在も高野口小学校として利用されている。
同小の起源は、明治8年(1875年)に村学として開校し、明治9年又新(ゆうしん)小学校、明治18年名倉小学校、明治44年(1911年)高野口尋常高等小学校となった。
昭和12年(1937年)、四川合流による田原川跡地を利用して現在の地に木造平屋建て桟瓦葺きの校舎が建設された。
小学校の北・東・南側には低い石垣と生け垣があり、正面門柱の内側に見える入母屋屋根の式台構えを思わせる正面玄関、瓦葺きの品格のある校舎である。
平成23年に耐震補強を含む改修工事が完成し、平成26年1月に重要文化財に指定されている。
小田井用水は、和歌山県にある用水路で、小田井堰は、和歌山県橋本市にある。
小田井用水は、宝永年間(1704〜1711)伊都郡学文路村出身の大畑才蔵によって開削された紀州随一の用水路である。
伊都郡小田村(現在の橋本市高野口町)で、紀ノ川に井堰を設け、葛城山脈(和泉山脈)の山裾沿いに那賀郡今中村(現紀の川市)まで水路をうがって水を引いている。
紀伊国の穀倉地帯592haを潤し、全長28kmで、「南紀徳川史」や大畑才蔵が元禄9年(1696年)から約20年にわたって実践的に活動した時の記録である「在々御用日記」によると、工事は三期にわたり、一〇余年の歳月をかけて行われた。
第1期工事は、宝永4年(1707年)に着工、小田から那賀郡市場村(現紀の川市)まで21km余りの水路が開かれた。
工事には、延べ二十万余の人夫を動員した。宝永6年(1709年)には、井堰の延長が望まれ、市場から田中(現紀の川市打田町)までの、5kmに及ぶ工事がなされた。
工事に携わった人夫は延べ2万3千人余りであった。さらにこの後今中村までの工事が行われたが、詳しい記録は残っていない。
紀ノ川右岸の等高線を巡るように開削されたため、途中にいくつもの河川の谷間と交差する難工事となったが、渡井(とい)(水路橋)や伏越(ふせご)(サイホン)による立体交差で克服した。
その後、井堰は荒れたが、明治38年(1905年)に改修工事を起工し、昭和6年(1931年)に完成した。
小田井用水は、平成18年2月に農林水産省主催の「疏水百選」に認定された。
また、明治から大正時代にかけて改修された水路橋(龍之渡井(たつのとい)、小庭谷川渡井(こにわだにがわとい)、木積川渡井(こづみがわとい)とサイホン(中谷川水門)の4施設が、和歌山県内の土木構造物では初めて平成18年3月に登録有形文化財(文化庁)となった。
平成29年(2017年)には、小田井用水が「世界かんがい施設遺産」に登録された。同遺産は「国際かんがい排水委員会」(本部・インド)が2014年に創設した。
歴史的、社会的に価値のあるかんがい施設の顕彰や保全を目的としており、これまでに8か国47施設(日本国内27カ所)が登録されている。
小田井堰へは、JR和歌山線高野口駅下車、徒歩19分。
中谷川水門は、和歌山県かつらぎ町にある。
紀ノ川にほぼ並行して流れる小田井用水が中谷川と交差する地点に築かれた暗渠(あんきょ)で、明治45年に建造された。
サイホンの原理を利用して中谷川の下を用水路が通っている。
アーチは煉瓦造り4枚厚で、壁面をフランス積(フランドル積)とし、頂部にパラペット(平屋根)を立ち上げる。
小田井用水は江戸時代に大畑才蔵が開削したもので、平成18年3月23日に、国の登録有形文化財に登録された。
JR和歌山線中飯降駅下車、徒歩5分。
中飯降道標石
中飯降道標石には次のように刻されている。
(正面) 右 高野山慈尊院 九(度山)
左 いせ はし本 五(条)
(右) すぐ こかわ いわで
(左) 右 こかわ いわで わ(かやま)
(裏) 施主 岡本惣次郎
初桜酒造
江戸時代の中頃から、紀の川上流地域で生産された米を原料として、風味豊かな「川上酒」が造られてきた。
醸造元の初桜酒造は、慶応2年(1866)創業で、この伝統を守り、手作りのお酒の良さを現代に伝えている。
「高野山般若湯」が人気商品である。
蔵を含めた建物は、国の重要文化財となっている。
法花(華)一字一石塚 一字一石法華塔
かつらぎ町内には、15の一字一石法華塔、一石塚があるという。
往来安全や除災厄除として建立されたもので、石の下には、法華経の経文を一字ずつ墨書した石が埋納されているという。
下記の写真の法花一字一石塚は、隣接する旧妙寺村と中飯降村の境界の四隅に建てられた境界柱の一つで、災いが村に入ってこないことを願った塚と言われている。
延命地蔵尊 法花一字一石墳
延命地蔵尊は安藤堤の東端にあり、堤防の安全と道中安全を祈願したといわれている。
七郷井は、和歌山県紀の川北側にある農業用用水路である。
かつらぎ町にある案内板には、次のように記されている。
七郷井(ななごうい)のご案内
大和街道沿いを西に流れる七郷井は、水田を灌漑する農業用水路です。その起源は古く、今から300年余り前の江戸時代前期までさかのぼります。
「七郷井」は、はじめ「中飯降井(なかいぶりい)」と呼ばれていました。
古文書には、寛文8年(1668)から延宝7年(1679)のころ、中飯降村に取水口をもつ用水路の存在することが記されています(七郷井堰絵図<元形>))。
寛永年間(1624~44)、紀州藩の奨励で新田開発が盛んに行われたことから、用水路の開削も飛躍的に進んだのでしょう。
別の古文書には、正徳3年(1713)に初めて「七郷井関(堰)(ななごういせき)」の文字が見られ、
妙寺・丁ノ町(ちょうのまち)・新田・大藪・大谷・新在家(現:大字蛭子(えびす))・佐野(さや)の七か村の田地を潤していたため「七郷井」と呼ばれるようになりました。
紀州藩の歴史書である「南紀徳川史」によれば、その灌漑面積の石高は3,500石でした。大和街道が開かれたころ、それに沿って七郷井も開削されたものと考えられます。
今日では当時の姿は少なくなりましたが、現在では往時を偲ぶ遺跡が残されています。
例えば、大字妙寺から大字新田にかけての水路には所々に当時の石積みの痕跡が見られるほか、大和街道沿いの集落を紀ノ川の洪水から守る堤防遺跡が幾筋も現存しています。
七郷井の取水口は、開削当時は中飯降村、その後 妙寺村上端(かみのはし)(現在の大字妙寺の東端)に移り、現在は大字中飯降の西端の小田井にあります。
七郷井は小田井よりも古い用水路であり、先人の英知と熱い志によって造られました。
そして近郷の農家代々の皆さんによって支えられ、今日まで脈々と受け継がれています。
平和祈念像は、和歌山県かつらぎ町かつらぎ公園にある。
和歌山県出身の洋画家・彫刻家の保田龍門(1891-1965)が原型をデザインしたもので、高さ18m(台座を含めると22m)のコンクリート製の像である。
万国戦没者の精霊を供養し、平和を祈念するために、昭和34年(1959年)に着工し、昭和36年(1961年)に像が完成した。
その後、全国から浄財を募って建物の建設が進められ、昭和45年(1970年)に完成した。
像の台座部分は、世界44か国から集めた小石が礎石に組み込まれている。
当時の外務大臣であった藤山愛一郎の協力で、在外公館を通じてそれぞれ由緒ある小石を収集したもので、残った小石の一部は、建物内に展示されている。
建物内には、地蔵菩薩像が安置されており、毎月24日には、建物の扉が開放される。
毎年3月24日には、春の大祭が行われ、新入学児童の稚児行列が行われ、8月には万国戦争犠牲者の慰霊祭が開催される。
保田龍門は、彫刻家として、この平和祈念像のほか、「丹生都姫」「高倉下命」の壁彫2面、「岡崎邦輔像」「松下幸之助夫妻像」「南方熊楠胸像」など100点以上の作品を残している。
JR和歌山線妙寺駅下車、徒歩5分。
佐野寺(さやでら)跡は、和歌山県かつらぎ町大字佐野にある飛鳥時代後期の寺院跡である。
平安時代初期に作られた日本で最初の仏教説話集である「日本国現報善悪霊異記」(略称「日本霊異記」)の中巻第11話には、「紀伊国伊刀郡桑原之狭屋寺」の名があり、
本寺跡は、7世紀後半にさかのぼる古代寺院であることから、この「狭屋寺」ではないかと考えられている。
これまでの発掘調査から、伽藍配置は、東に塔、西に金堂を配置し、その北側に講堂、南側に門を置いたことが分かっている。
寺域は、南北114m、東西79mで、塼仏(せんぶつ)、風招(ふうしょう)、佐波理鋺蓋(さはりわんぶた)が出土している。
平成25年にかつらぎ町指定文化財(記念物(史跡))、平成28年に和歌山県指定文化財(記念物(史跡))に指定された。
JR和歌山線笠田駅下車、徒歩10分。
十五社の樟樹(じごせのくすのき)は、和歌山県かつらぎ町大字笠田東(かせだひがし)字拾五社にある。
江戸時代の終わりごろ妙楽寺には、薬師堂、大日堂と15神を祀る十五社明神が鎮座しており、
そのそばにあることから「十五社明神の楠」と呼ばれていた。
その後、明治42年に十五社明神が、宝来山神社に合祀された。
昭和26年に作られた佐藤春夫作詞の笠田小学校校歌では、「大樹の樟よわが庭よ千年の命貴しと---」と詠まれている。
平成3年の環境庁の巨樹、巨木調査によると、幹回り13.4m、樹高20m、枝張り25mで、全国で43番目、近畿では一番大きい樹木とされている。
樹齢600年以上といわれ、昭和33年に和歌山県の天然記念物に指定されている。
支幹が八方に張り、その様が森のように見えることから十五社の森とも呼ばれている。
JR和歌山線笠田駅から徒歩10分。
宝来山神社は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある。
本社四殿に猿田彦大神、菅原大神、八幡大神、大山祇(おおやまつみ)大神を祀る。
社伝によると、宝亀4年(773年)に和気清麻呂が八幡社を勧請したのに始まるという。
元歴元年(1184年)に桛田(かせだ)荘が、神護寺領として立券された際に作成されたと言われる桛田荘絵図(神護寺蔵)には、「八幡宮」とその神宮寺とみられる「堂」が描かれており、前者が宝来山神社、後者が宝来山延命院神宮寺(現神願寺)といわれている。
神護寺の僧文覚(もんがく)の懇請で、後白河法皇が桛田荘を寄進して神護寺領桛田荘成立と同時に勧請、荘鎮守の役割を担い、その後も荘域内の村々の氏神として尊崇された。
紀伊続風土記によると、東村(現在のかつらぎ町笠田東)の加勢田是吉(仙人翁是吉)の尽力により再興され、大永5年(1525年)後柏原天皇御宸筆の神位勲位の勅額(正一位勲八等日本第一大福田宝来山大明神)に関する綸旨が出された。
元亀・天正時代に、織田信長の高野攻めに際してその兵火にかかり、天正10年(1582年)社殿が炎上した。
その後慶長19年(1614年)に再建されている。
現在の本殿4棟は、国の重要文化財に指定されており、その両脇に二間社流造の末社殿が一棟ずつ建ち、六棟の社殿が横一列に並ぶ珍しい形式である。
JR和歌山線笠田駅下車、徒歩20分。参拝者用の駐車場がある。
稲本保之輔君紀念碑は、和歌山県かつらぎ町宝来山神社境内にある。
稲本保之輔(いなもとやすのすけ)は、和歌山県伊都郡西部地区を代表する有力な政治家で、和歌山県会議員をつとめた。
大正7年刊行の和歌山県伊都郡誌によると、産業振興に努めたほか、私学校を創設したり、日刊紀陽新聞発行にも参画している。
明治21年(1888)秋に、和歌山県治安裁判所の出張所(土地の登記事務を扱う役所)の設置場所をめぐって、伊都郡内の東部と西部で争いがあり、暴動事件まで発生した。
稲本保之輔は、その中心人物として参加し、設置場所が東部の橋本に決まったため、事件後の明治21年11月14日自宅土蔵の2階で割腹自決し、38歳の生涯を閉じた。
その一周忌にあたる明治22年11月14日に笠田村有志の手で、伊都郡東村の妙楽寺境内の大樟の側に石碑が建てられ、その後昭和49年(1974)に宝来山神社境内に移された。
JR和歌山線笠田駅下車、徒歩20分。参拝者用の駐車場がある。
文覚井(もんがくゆ)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある。
京都神護寺の僧文覚が開削したという伝承のある全長約5㎞の水路で、一の井は中世農耕用水路文覚井として和歌山県史跡となっている。
水路は、宝来山神社北方の静川(現、穴吹川)から取水し、丘陵の鞍部を越えて風呂谷川に至る用水路で、人工的に水系をかえて地域を潤した。
文覚井は、南下して萩原字三分(みわけ)で、萩原へ行く水路と笠田中、笠田東に行く水路に分かれる。
萩原へ流れる水路は、宝来山神社境内の本殿裏を通っており、神社の使い水などに利用されている。
史跡文覚井の石碑は、国道480号線の北川橋東交差点南側に建てられている。
文覚は、平安時代から鎌倉時代初期の僧で、俗名は遠藤盛遠(もりとお)といった。
初め上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻 袈裟(けさ)に恋慕し、誤って袈裟を殺してしまったため、出家した。
後白河法皇を敬愛し、寿永2年(1183年)法皇から紀伊国桛田荘(かせだのしょう)を寄進されたのを始め、源頼朝からも寄進を受け、神護寺の復興に努力した。→ 通り堂(文覚堂)
しかし、法皇や頼朝の死後は、佐渡や対馬に流されて生涯を終えた。
相原精次氏は、「文覚上人の軌跡」の中で、文覚が鎌倉幕府成立に大きな役割を果たしたことを紹介している。
JR和歌山線笠田駅から徒歩20分。
才蔵堀跡は、和歌山県かつらぎ町大字背の山にある。
小田井土地改良区の資料によると、黒みかげ石の石碑には、次のように刻されている。
(前面)
才蔵堀跡
(背面)
由来之記
小田井用水路ハ宝永四年藩主吉宗済民ノ志ニヨリ学文路ノ人大畑才蔵
之ヲかいさくセリ、背ノ山地区ハ特ニ難工事ナリシガ能クソノ工ヲナシ
延長九里八丁伊、那両郡千町歩ヲかんがいシ近代ニ至ル。
時移リ昭和三十六年県営、続テ昭和四十三年団体営ニテ大改修ヲ進ム
其間背ノ山隧道ハ昭和四十年見事完成ス、カクテ旧水路ノ去就ニツキテ
ハかつらぎ町ノ申出モアリ重議二年農免道路トシテ地域開発ニ役立ツコ
トトナレリ。
嗚呼「才蔵堀」今ヤ消ユ我等風光明媚ノコノ地ニ「才蔵堀跡」ト名付ケ
碑ヲ建テ永ク遺徳ヲ顕彰セントスルモノナリ
昭和四十五年四月 小田井土地改良区理事長 森田憲一
道端の古い溝が開削当時の小田井である。
現在の小田井は、当地より北方で背の山の下をトンネルで西に流れて穴伏川を横切っている。
大畑才蔵は、江戸時代に紀ノ川北部地域の灌漑用水路の小田井を開削した土木事業家である。
JR和歌山線西笠田駅下車、徒歩10分。
背山(せのやま)は、和歌山県かつらぎ町にある。
背ノ山は紀の川北岸にある標高167.6mの山である。
日本書紀の大化2年(646)正月1日条の、大化の改新の詔で、「紀伊の兄山」と記され、畿内の四至(しいし)の南限とされている。
背山には、鉢伏山と城山の二つの峯がある。
また、紀ノ川を挟んだ南岸には、妹山がある。
万葉の時代に、奈良の都から紀伊の国に向かった人々は、仲良く並んだ妹山、背山を遠望して、二つの山を夫婦や恋人にみたてた歌を残しており、
万葉集には、この地域を詠んだ歌が14首収められている。
西笠田駅南の万葉歌碑は、和歌山県かつらぎ町の国道24号線沿いにある。
石碑には、次の万葉歌碑が刻されている。
ひとならば
母の最愛子ぞ
あさもよし
紀の川の邊の
妹と背の山
(意味)
人であるならば母の最愛の子供のようだ。
紀の川の川辺にある妹の山と背の山は
万葉歌碑の東側には、次の句碑が建てられている。
紀の川は 長い長いと 鳴く雲雀
船岡山 妹山・背山万葉歌碑は、和歌山県かつらぎ町島にある。
船岡山は、紀ノ川中州にあり、東西約500m、南北約120mの島で、かつらぎ高野山系県立自然公園となっている。
紀ノ川南岸との間に厳島橋が架けられており、橋を渡ると厳島神社がある。
妹山・背山万葉歌碑は、厳島橋北詰の厳島神社前にあり、石碑には次のように刻されている。
(碑面)
勢能山爾
直向
妹山
事聴屋毛
打橋渡
孝書
(副碑)
背の山に直(ただ)に向へる妹(いも)の山
事聴(ゆる)せやも 打橋渡す
万葉集 巻七 - 一一九三 作者未詳
(背の山にまっすぐ向かい合っている妹の山は、相手の申し出を承諾したのか、打橋を渡している。
打橋を渡す とは、訪ねてくる男のために女が玄関先に橋を渡すこと、即ち男の訪問を許すことを意味する。))
国際ロータリー第二六四〇地区
地区大会記念事業として万葉歌碑の揮毫を
大阪大学名誉教授
甲南女子大学名誉教授
文化功労者
文学博士 犬養孝先生に
依嘱し郷土のためにこれを建つ
平成七年十一月二十三日
橋本ロータリークラブ
JR和歌山線西笠田駅下車徒歩約40分。厳島橋南詰西に、来訪者用駐車場がある。
紀の川万葉の里公園は、和歌山県かつらぎ町にある。
紀の川の河川敷に芝生が植えられ、ベンチも設けられている。
堤防の上からは、背の山と妹の山を望むことができる。
公園北側には、道の駅紀の川万葉の里があり、次の万葉歌碑が建てられている。
妹(いも)に恋ひ
我(あ)が越え行けば
背の山の
妹(いも)に恋ひずて
あるがともしさ
作者不詳 巻七 - 一二〇八
(意味)妻への恋心に苦しみつつ 山路を越えて行くと、
背の山が妹の山と一緒にいて、恋苦しんでいないのが羨ましいことよ
JR和歌山線西笠田駅下車、徒歩10分。道の駅万葉の里の駐車場がある。
西笠田駅南公園内の句碑
縞立てて 忽ち来る 夕立かな 巽居
昭和53年5月建之 泉大津句会 舟岡句会
高田地蔵尊は、和歌山県かつらぎ町にある。
大和てまり街道ガイド編には、次のように記されている。
地蔵祠:往来安全を願って設けられた。当地高田地区内で還暦を迎えた人の1年交代で毎日祀られている。
1月24日と8月24日には地区のお祭りとして「餅まき」をする。
地蔵の「前垂れ」に文化財委員一同とあり、この地区の信仰と歴史に対する関心の深さを物語っている。
JR和歌山線西笠田駅下車、徒歩5分。
大和街道第1回 大和街道第3回
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