大和街道第3回 西笠田駅集合~岩出駅解散

「大和街道」
一般的に、大和街道は奈良が都であったころ、都と地方を結ぶ道として誕生した。
日本歴史地名体系では、京から大和への大和街道と三重から大和への大和街道が紹介されている。

街道の日本史35巻「和歌山・高野山と紀の川」(藤本清二郎、山陰加春夫編)によると、紀北の街道として次のように紹介されている。
南海道 古代の官道=南海道は、大和から紀伊に入り、紀の川北岸を通り、加太駅から海を渡り土佐へ至る道である。
高野参詣道 京都から高野山へ参詣する道である。
17世紀の道(紀伊国絵図) 伊勢街道、熊野街道、上方街道、淡路街道、高野山と龍神温泉へ向かう往還
紀伊続風土記の道 上方街道、伊勢街道、熊野街道、熊野古道、高野街道ほか
大和街道 紀伊国名所図会に伊勢街道は「大和街道」と記されている。19世紀初めごろから大和街道という言葉が使用されるようになったという。
       明治9年(1876)から明治11年にかけて、国道、仮定県道が定められた。
       紀北筋では、上方街道が大坂街道と称され、伊勢街道は「大和街道」と規定された。
       この時以来大和街道の名が定着したという。


西笠田駅

昭和27年(1952)10月1日開業。
2010年度の1日平均乗降客数は、43人。

万葉桟敷

万葉桟敷は、和歌山県かつらぎ町背山の中腹にある。
万葉集の歌枕として有名な背山の畑地に万葉植物を植えて、万葉歌のボードが設置されている。
西側の展望が開けており、紀の川下流が眺められる。
JR和歌山線西笠田駅下車、木製看板に沿って坂道を300m登って徒歩10分。


龍之渡井

龍之渡井は、和歌山県紀の川市にある小田井用水の水路橋である。
小田井用水の工事で一番苦心したといわれるところで、穴伏川の谷を跨いで水路橋が架けられている。
この龍之渡井は、18メートル余りの川幅を両岸の岩盤を利用して支え、中間に一本の支柱も使わずに木製の掛樋(かけひ)を通したことで知られている。
現在の施設は、大正8年(1919年)に改修されたレンガ石張り造りアーチ橋で、上部盛土部に三和土(土・石灰・ニガリの混合物)を用い、表面は自然石で覆われている。
小田井用水には、龍之渡井以外にも明治から大正時代にかけて改修された水路橋(小庭谷川渡井、木積川渡井)とサイホン(中谷川水門)がある。
これらの4カ所の施設が、平成18年4月に和歌山県内の土木構造物では初めて、登録有形文化財となっている。
JR和歌山線西笠田駅下車、徒歩10分。



高田地蔵尊

高田地蔵尊は、和歌山県かつらぎ町にある。
大和てまり街道ガイド編には、次のように記されている。
地蔵祠:往来安全を願って設けられた。当地高田地区内で還暦を迎えた人の1年交代で毎日祀られている。
1月24日と8月24日には地区のお祭りとして「餅まき」をする。
地蔵の「前垂れ」に文化財委員一同とあり、この地区の信仰と歴史に対する関心の深さを物語っている。

JR和歌山線西笠田駅下車、徒歩5分。

華岡青洲の墓 華岡青洲の妻「加恵」の墓

華岡青洲の墓は、和歌山県紀の川市西野山の菖蒲池に面した華岡家の墓地にある。
墓地入り口には、江戸末期の儒学者 仁井田好古撰書による墓碑銘が建てられている。

華岡青洲の墓石は、頂上に笠石を置いたもので、次のように刻されている。
(正面)  天聴院聖哲直幸居士
(東側面)華岡随賢名震字伯号青洲先生
(西側面)天保六年乙未十月二十日歿得生七十有六

青洲の妻「加恵」の墓は、そのすぐ奥に建てられており、「蓮光院法屋妙薫大姉」と刻まれている。



青洲の里 春林軒

青洲の里 春林軒は、和歌山県紀の川市にある。
青洲の里は、江戸時代の外科医 華岡青洲(1760年-1835年)の居住地に紀の川市(旧那賀町)が作った公園で、春林軒とフラワーヒルミュージアムがある。
春林軒は、「医聖」と呼ばれた華岡青洲の住宅兼病院、医学塾であった建物群である。
主屋、門下生部屋、入院患者のための病室などが復元されている。
フラワーヒルミュージアム内の展示室では、青洲と門弟たちが残した資料を展示している。
邸宅跡は、紀の川市の史跡に指定され、主屋は同市の文化財に指定されている。
JR和歌山線西笠田駅又は名手駅下車、徒歩20分。道の駅青洲の里の無料駐車場がある。



名手八幡神社

名手八幡神社は、和歌山県紀の川市にある。
当社は、紀北地方を開拓された祖神(おやがみ)、丹生津比売大神降臨の聖地で、古来から名手荘十一箇村の産土神として奉斎されている。
神功皇后が三韓征伐の後、筑紫から凱旋する途中、応神天皇の誕生を奉告し、約三か月当山に駐輦した。
その縁で誉牟田別命(第15代応神天皇)を当社の主祭神として勧請し、奉斎している。
鳥居の扁額に「八幡神社」と書かれているが、この額は慶安元年(1648)紀州徳川家初代藩主徳川頼宣から奉納されたものである。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた際に当社に行幸し、その際今日まで絶えたことのない秋の例大祭(10月15日)に奉納される稚児の渡御式が始められた。
木造檜皮葺春日造の本殿の三棟は、和歌山県の文化財に指定されている。
境内南には、応神山神宮寺清浄金剛院があり、阿弥陀如来がまつられている。
JR和歌山線名手駅下車徒歩10分。


旧名手宿本陣

旧名手宿本陣は、和歌山県紀の川市にある国史跡である。
名手宿の本陣をつとめた妹背家は、中世以来紀伊八庄司(しょうじ)のひとつにあげられた名家で、当時名手荘及び丹生谷を領した土豪であった。
元和5年(1619年)徳川頼宜が紀伊国に封じられた後、在地の由緒ある家筋のものを地士として処遇し、妹背家は地士頭(じしがしら)の扱いを受けた。
寛永16年(1639年)からは名手組の大庄屋になり、世襲した。
住宅は名手市場村にあり大和街道沿いに面していたので、参勤交代や鷹狩の折りに、藩主がこの家に宿泊するようになり、以降本陣と呼ばれた。
住宅の敷地は、大和街道に沿って間口40m、奥行き70mで、約2800㎡の広さである。
敷地内の主屋、米蔵、南倉は、旧名手本陣妹背家住宅として、国指定の重要文化財となっている。
主屋は、江戸時代初期の建築であったが、正徳4年(1714年)の火災で焼失し、享保3年(1718年)に再建された。
妹尾家は、華岡青洲の妻 華岡加恵の実家であり、屋敷の北には江戸時代伊都郡代官の建物があった。
JR和歌山線名手駅下車、徒歩5分。本陣東側に来訪者用の駐車場がある。



光明寺の松

光明寺の松は、和歌山県紀の川市名手市場にある。
光明寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。
永正4年(1507)僧 了道の開基で、その後天正11年(1583)境内拡張の時、村の富豪 怱助が自庭内にあった松を寄進して当地に植えたと伝えられている。
樹齢約400年と推定され、本幹の周り2.9m、高さは70cmで、子幹は南西北の三方向に射出して水平に伸び、傘状の独特の樹観を形成している。
この樹形は、庭園の関係上、このように仕立てられたもので、本堂に一層の美観を添えており、昭和23年(1948)に和歌山県の文化財(天然記念物)に指定されている。
JR和歌山線名手駅下車、徒歩10分。


玉垣勾頓宮跡

玉垣勾頓宮跡は、和歌山県紀の川市にある。
万葉時代に紀伊国行幸(天皇の紀伊国への旅)は、4度行われた。
その多くは、紀の川筋の道をたどっている。
聖武天皇は、神亀元年(724)に玉津島(若の浦)を訪ねた。
10月5日に平城京を出発し、7日に「那賀郡玉垣勾頓宮(たまがきのまがりのみや)」に宿泊した。
その地は、粉河寺の南東の紀ノ川近くと考えられており、当地には「玉垣勾頓宮跡」の石碑が建てられ、裏面には「神亀元年十月七日 聖武天皇行幸跡」と刻されている。
北側の建物には、玉垣寺 薬師如来堂がある。
JR和歌山線粉河駅下車、徒歩20分。

粉河寺

粉河寺は、和歌山県紀の川市粉河にある天台宗の寺院である。
寺歴によると、770年に大伴孔子古(おおとものくじこ)が、現在の本堂の場所に庵を建て、千手観世音菩薩を本尊としたのが始まりである。
鎌倉時代には、4キロ四方を超える広大な境内に、七堂伽藍、550坊が建ち並び、隆盛を極めたが、1585年に豊臣秀吉の根来攻めによりほとんどの堂宇を焼失した。
江戸時代に入り、紀州徳川家の援助を受けて復興した。
大門をくぐり、右手の粉河を見ながら参道を進むと、1832年に建立された中門がある。
紀州徳川家第10代藩主徳川治宝による「風猛山」扁額がかかっている。
中門を入り左側に、西国霊場三十三所の中で最も大きい本堂がある。
本尊は、千手千眼観世音菩薩である。
本堂前の庭園は、桃山時代の枯山水で国の名勝に指定されている。
寺の創建から本尊の霊験を記した「粉河寺縁起」一巻は、平安時代末の天台宗の僧侶鳥羽僧正の筆といわれ国宝に指定されている。
令和2年(2020)10月に創建1250年記念特別展「国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史」が和歌山県立博物館で開催された。
展示会場では、粉河寺縁起と千手千眼観世音菩薩のレプリカも展示され、写真撮影が認められたので、その写真を下に掲載した。
JR和歌山線粉河駅下車、徒歩15分。



風市森神社

風市森神社は、和歌山県紀の川市嶋にある神社である。
祭神は、級長戸邊尊(しなとべのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、丹生都比賣尊(にゅうつひめのみこと)である。
天正の兵火で社殿、文書等は全て焼失したため、由緒の詳細は不明である。
紀伊国那賀郡長田庄六ケ村の産土神である。
級長戸邊尊は、この地に鎮まる神で、風の神として伊勢の風宮から勧請したと言われる。
若一王子社(天忍穂耳尊)は、元は当社から南三丁の神木塚という所にあり、丹生明神社(丹生都比賣尊)は、大字北長田の地に鎮座していた。両社とも延暦年間(782-806)に当地に遷したといわれる。
正暦2年(991)粉河寺に下賜された太政官符に、西限り風の社とあるのは、当社の事である。
毎年旧1月15日には、御管粥祭りの神事が行われ、その年の年穀の豊凶が占われる。
JR和歌山線紀伊長田駅下車、徒歩10分。

長田観音

長田観音(如意山厄除観音寺)は、和歌山県紀の川市にある真言宗の寺院である。
開山は、延喜21年(921年)で、旧長田庄に在したため、通称長田観音といわれ、一般に「厄除観音」又は「厄観音」と呼ばれている。
かつては、紀州徳川家の祈願寺であった。
本尊は、如意輪観音で、毎年初午や二の午には多くの参詣客が訪れる。
また、桜の名所としても有名で、春には花見に訪れる人で賑わう。
JR和歌山線紀伊長田駅下車、徒歩4分、参拝者用の無料駐車場がある。



八幡神社(紀の川市上田井)

八幡神社(紀の川市上田井)は、和歌山県紀の川市上田井の旧大和街道沿いにある。
祭神は、帯中日子命(たらしなかのひこのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、品陀別命(ほむたわけのみこと)である。
当神社は、旧長田村大字上田井の氏神で、天文年間まで、紀の川近くに村及び社があったが、川筋が変わり、現在地に移転された。
社伝によると、承和元年(834)宇佐八幡宮の分霊を遷し祀ったといわれる。
例祭は十月十日(十月第二日曜日)で、餅まきなどが行われる。
JR和歌山線紀伊長田駅下車、徒歩15分。



東田中神社

東田中神社は、和歌山県紀の川市打田にある。
祭神は大山祇ほか13神である。
当地には、もとは山王権現社(日吉神社)があり、昭和20年(1945)に中世の田中荘に鎮座した8社(田中庄八社)のうち、日吉神社、一之宮神社、若宮神社、中村神社を合祀し、昭和21年東田中神社と改称した。
当時は、本殿4社が並んでいたが、旧中村神社、若宮神社の2殿が焼失、台風により倒壊して、現在は2殿となっている。
第一殿の日吉神社は、天長年間に慈覚大師が勅命により江州坂本から勧請した。
第二殿の一之宮神社(竹房神社・前の神)は、もと田中村大字竹房に鎮座していたもので、檜皮葺隅木入春日造の社殿は、和歌山県の文化財に指定されている。
神社北側には、弥生時代中期の東田中神社遺跡がある。
JR和歌山線打田駅下車、徒歩20分。西側に参拝者用駐車場がある。



打田一里塚跡

大和てまり街道ガイド編によると、東田中神社前の田の中に、戦前まで一里塚(京橋より5里)と樹木があった。
「五里ところ払い」の罪人がここで解き放たれ、この地の庄屋がが身元引受人となって使役に従事させたといわれている。



西行法師像

歌聖西行法師像は、和歌山県紀の川市にある。
西行法師(1118-1190)は、俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての代表的歌人である。
佐藤氏は、田仲荘・池田荘(旧打田町)の在地領主で、代々京都に出仕して左衛門尉(さえもんのじょう)や検非違使等の官職を勤めた。
西行も保延元年(1135年)、18歳で左衛門尉となり、北面の武士として鳥羽上皇を護衛していたが、保延6年(1140年)に23歳で突然出家した。
出家後は、歌道の研鑽、諸国行脚の日々を送り、宗教、文学、政治、芸能など、多方面で活躍した。
西行が育ったとされる紀の川市竹房は、西行法師像から500m東の地にあり、付近には「佐藤城址」という通称名が残っている。
西行は、建久元年(1190年)73歳で、河内国弘川寺で生涯を閉じた。
約2mのブロンズ像の台座には、次の歌が刻まれている。
  歎けとて 月やはものを 思はする 
   かこち顔なる わが涙かな
JR和歌山線打田駅から車で約10分。来訪者用の駐車スペースがある。


西田中神社

西田中神社は、和歌山県紀の川市中井阪にある。
旧村社で、祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)ほか14柱である。
この神社は、もと羊の宮神社と呼ばれていた。
昭和21年(1946)に約400m東にあった若宮八幡宮本殿が、移築合祀され、西田中神社と改められた。
紀伊続風土記によると、羊宮は、下井阪、中井阪、花野、上野、馬場、西大井の6村の産土神で、荘内に祀る神が8つあり、これを田中の八社といい、当社もその一つとする。
旧羊の宮本殿(向かって左側)は、様式上から室町時代末期の建立と推定され、一間社隅木入春日造りで装飾彫刻が多い。向拝の木鼻が鯱の形をしている。
旧八幡神社本殿(向かって右側)は、二間社流造で勾欄宝珠に寛永12年(1635)の刻名がある。
この2棟の本殿は、西田中神社本殿として、昭和48年に和歌山県の指定文化財となっている。
JR和歌山線下井阪駅下車、徒歩15分。



史跡 八幡塚古墳

史跡 八幡塚古墳は、和歌山県紀の川市下井阪にある。
現在は、周囲が削られて変形しているが、墳丘の規模は、高さ4m、直径20mほどの円墳と考えられている。
当古墳は、昭和50年(1975)に発掘調査が行われ、墳丘中央部に緑泥片岩などの板石を用いた箱式石棺が確認された。また、中央から東南5mの位置には、石棚、石障(せきしょう)を備えた割石積の横穴式石室が構築されていた。
箱式石棺は、古墳時代中期、横穴式石室は、古墳時代後期と推定されている。
当地の東約100mには、5~7基の古墳群から構成される三昧塚古墳群がある。
JR和歌山線下井阪駅下車、徒歩10分。

三昧塚古墳群  ツバキの純林

三昧塚古墳群、ツバキの純林は、和歌山県紀の川市中井阪にある。
5~7基の古墳で形成される群集墳で、現在も両墓制の墓地として利用されている。
最大の4号墳は、前方後円墳で、長径30m、短径8m、高さ3mの規模である。
同墳裾部からは円筒埴輪片が確認されている。

ツバキの純林は、紀の川市の天然記念物に指定されている。
ヤブツバキの純林で、最高樹は8.75m、約80本が現存している。
もとは、ツバキが密生する自然林であったが、間引きが行われて大きさが揃っている。
かつては、この実を取り換金して三昧墓地の清掃費に使ったといわれている。


紀伊国分寺跡

紀伊国分寺跡は、和歌山県紀の川市東国分にある国史跡である。
紀伊国分僧寺の跡地で、僧寺は紀の川北岸の段丘上に創建された。
東西、南北二町(約220m)四方の寺域で、そのうち西側4分の3地区が伽藍区域となっている。
天平13年(741)聖武天皇による国分寺建立の詔が出され、天平勝宝8年(756)頃には、金堂、塔などの主要伽藍が完成していたとみられている。
東側の塔跡を見ると、塔の基礎にあたる「基壇」が残され、一辺が16mの正方形をしており、高さが1.2mある。
土や砂を突き固めて重ねていく「版築」(はんちく)技法で築かれ、周囲に平瓦を積み上げた「瓦積基壇」と呼ばれるものである。
塔の中心には、塔の芯柱を据えた大きな礎石があり、その周囲に16個の礎石が残されている。
塔は、礎石の配置から見ると、初層部分の柱間が9.3mで、高さ50mの七重塔であったと推定されている。
講堂跡の上に建つ本堂は、元禄13年(1700)に再建されたもので、国分寺医王院として江戸時代から存続している。
現在は、全体が史跡紀伊国分寺跡歴史公園となっており、南には紀の川市歴史民俗資料館、北東には日吉(ひえ)神社がある。
JR和歌山線下井阪駅下車、徒歩10分。公園北東部に駐車場がある。



日吉神社

日吉神社(ひよしじんじゃ/ひえじんじゃ)は、和歌山県紀の川市東国分にある神社である。
祭神は、国常立命(くにとこたちのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)ほか11柱である。
紀伊国分寺本堂の北東約200mの杜叢の中にある。
古くは山王権現と称され、滋賀県大津市坂本の日吉大社の勧請を受けた神社といわれている。
日吉大社は、平安京の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除け、災難除けを祈る社として、境内には魔除けの象徴として、神猿(まさる)と呼ばれる猿が祀られ、「魔が去る、何よりも勝る」に因んで大切されている。
当社も、紀伊国分寺本堂の表鬼門(北東)にあたることから、魔除け、方除け、災難除け、厄除けの神社として崇敬されてきた。
本殿中央には、魔除けの神猿(まさる)と呼ばれる神の使い「魔が去る、何よりも勝る」の彫刻が施されている。
本殿は、三間社流造、屋根は元檜皮葺であったが、現在は銅板で葺かれている。
正面中央に千鳥破風を設け、さらに軒に唐破風を取り付けるなど豪奢な造りとなっている。
建立年代を直接示す資料はないが、江戸初期17世紀中頃であると推定されている。
JR和歌山線下井阪駅下車徒歩20分。当社西隣に紀伊国分寺跡歴史公園の駐車場がある。

史跡 西国分塔跡

史跡 西国分塔跡は、和歌山県岩出市にある。
聖武天皇は天平13年(741)に諸国に命令して国分寺を建立させた。
国分寺には金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪之寺(尼寺)があり、いずれも高台の景勝地を選んで建立された。
岩出市西国分には国分寺建立以前に白鳳寺院が建立されており、天平期に尼寺として使用されたと考えられている。
紀伊続風土記によると、昔は南北に長く東西に短い長方形の広大な境内で、その中に堂塔伽藍が並んでいたと想定されているが、現在では塔跡の芯柱の礎石が残されているだけである。
この西国分塔跡は昭和3年2月7日に史跡として国の文化財に指定された。
JR和歌山線下井阪駅下車徒歩20分。




岡田の石仏道標

岡田の石仏道標は、和歌山県岩出市岡田の旧大和街道沿いにある。
道標各面には、次のように刻されている。
(南面)石仏 左リ 紀三井寺道
            わか山
(東面)右 こかわ 二里 道
       いせかうや
(西面)文政九丙年(1826)十二月建之
(北面)南無阿弥陀佛 左リ ねごろ 道
     為先祖代々一切   大坂

「大和てまり街道とその周辺アラカルト ーガイド編ー」によると、もと東にあった道標が、道路拡幅に伴い近くの正覚寺に移され、その後当地に移されたという。



いわで御殿

いわで御殿は、和歌山県岩出市の紀ノ川沿いにある。
現地の案内板には次のように記されている。

    いわで御殿の由来と沿革
昔からこのあたりには風光明媚な小山があり、周辺の人々に景勝地として親しまれてきました。
そこに妙見堂という建物がありましたが、慶安二年(一六四九)紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣がこれを和歌浦に移した後、その跡地に別荘を築かれたそうです。
この建物を「巌出(いわで)御殿」と呼び、歴代藩主が参勤交代の時など、ここに宿泊していたそうです。八代将軍吉宗も幼少の頃は、ほとんどここで過ごしていたと伝えられています。
この地からは大台ケ原や吉野に源を発する紀の川、箱山、紀州富士の名で知られる龍門山の美しい姿を望むことができます。
また当時は岩出の地名どおり川の中には人とり岩・畳岩・なまず岩・えぼし岩や車岩などと呼ばれる奇岩が点在していたそうです。
さらに上流は我国有数の材木の産出地でしたので、筏が下り、景観に風情を添えていたと思われ、紀州家が別荘を建てていたことがなるほどと頷ける景勝の地であったと思われます。
巌出(いわで)御殿は、宝暦一四年(一七六四)に取り壊された後、時代の流れとともに大阪では八州軒、横浜では臨春閣と所・名前を変えながらも、現在は横浜市・三渓園に「臨春閣」として国の重要文化財に指定され当時の姿を残しています。
さてこの地は、巌出(いわで)御殿が取り壊された後、御殿山と呼ばれ昭和のはじめ頃まで公園として地元の人々に親しまれていましたが、
奇岩のあった辺りが川の流れの障害となり再三にわたる岩出の水害の原因となっていたので川幅を広げるため、奇岩及び御殿山の一部を取り崩すことになり、かつての姿は失われています。
    岩出市

現在は、地域交流の場、住民の憩いの場としての入浴施設となっている。
また、敷地内に勤操塚跡の石碑が建てられている。
JR和歌山線岩出駅下車、徒歩10分。利用者用の駐車場がある。


岩出駅
明治34年(1901)10月10日開業。
2010年度の一日平均乗降客数は、1908人。


大和街道第1回 大和街道第2回
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