淀君、豊臣秀頼五輪塔

淀君、豊臣秀頼五輪塔は、和歌山県高野山奥の院の上杉謙信霊屋西側にある。

二基の五輪塔は、大きく欠損していたが、令和5年(2023)に修復された。

淀君五輪塔の総高は295cmで、墓石には、次のように刻されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)大虞院殿英岩大禅定尼尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
淀君の墓所は、大阪市北区の太融寺にある。

豊臣秀頼五輪塔は、総高302cmで、銘文は、次のように記されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)嵩陽院殿秀山大居士尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
秀頼の首塚は、京都市の清凉寺にある。 → 高野山奥の院豊臣家墓所

銘文にある筑波山知足院の僧侶 光誉は、大坂冬の陣、夏の陣の時に、徳川家康の陣にいて戦勝を祈願した陣僧とされている。
豊臣家滅亡の際に、徳川家康は淀君と秀頼の供養のため、筑波山知足院の光誉に命じて、2基の五輪塔を建立したといわれる。

淀君(1567年-1615年)は、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母である。
父は、近江浅井郡小谷城主の浅井長政、母は織田信長の妹 お市の方である。→ 浅井三姉妹ゆかりの地
天正元年(1573年)に信長に包囲された小谷城から、母妹とともに脱出した。
1582年に柴田勝家に再嫁した母に従い、越前北之庄(福井)城に入った。
1583年に北之庄(福井)城が落城し、豊臣秀吉に庇護された。
その後、秀吉の側室となり、鶴松と秀頼を生み、慶長20年(1615年)に大坂城落城により、秀頼とともに自刃した。





修復前の写真



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