高野山奥の院 井伊家石塔

近江彦根藩 井伊家供養塔 (井伊直孝公御霊屋)

近江彦根藩 井伊家供養塔 (井伊直孝公御霊屋)は、和歌山県高野山奥の院22町石北西にある。
上杉謙信霊屋の南西方向上段に、平坦面を造成し、中型五輪塔5基、宝篋印塔3基がある。
(史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書)
寛政5年(1793)に作成された「高野山奥院総絵図」において、井伊掃部頭と記された霊屋が描かれている。
そのため、現在は霊屋は残っていないが、墓域内に「井伊直孝公(掃部頭)御霊屋」と記された案内石柱が建てられている。
中央には、井伊直孝供養塔(豪徳天英大居士)がある。
井伊直孝(1590-1659)は、近江彦根藩二代藩主である。
井伊直政の庶子で、大坂冬の陣、夏の陣で軍功を挙げ、寛永10年(1633)には譜代大名として破格の30万石を領し、徳川幕府の重鎮として、秀忠、家光、家綱の3人の将軍に仕えた。
直孝塔西側には、井伊直定供養塔(天祥院)がある。
井伊直定(1700-1760)は、近江彦根藩第9代、11代(再任)藩主である。




井伊家供養塔(井伊直弼他)

井伊家供養塔(井伊直弼他)は、和歌山県高野山奥の院24町石北西にある。
井伊掃部頭霊屋の西側に位置する。
井伊掃部頭霊屋前方には、井伊直弼供養塔(宗觀院殿正四位上前羽林 中郎将桺暁覺翁大居士)があり、
霊屋後方には、井伊直武(信武(なおたけ))供養塔(從五位下前伯州太守 原忠院殿高節元義大居士)がある。

井伊直弼(1815-1860)は、彦根藩第15代藩主で、徳川幕府大老となった。
父は、彦根藩第13代城主 井伊直中(なおなか)で、母は側室お富の方である。
天保2年(1831)直弼は17歳の時に彦根城中の槻御殿を出て、北の御屋敷「埋木舎(うもれぎのや)」に移り、部屋住みの生活をした。
嘉永3年(1850)第14代藩主直亮(なおあき)の死去に伴い、井伊直弼は36歳で第15代藩主となり、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)と称した。
安政5年(1858)に大老に就任し、日米修好通商条約に調印している。
幕府内の後継問題で反対する一橋派を弾圧して、安政の大獄を引き起こし、万延元年(1860)3月3日桜田門外の変で水戸藩士らによって暗殺された。

井伊直武(1650-1697)は、井伊直好の長男で、寛文12年(1672)に父の跡を継いで遠江掛川藩の第2代藩主となった。

史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓所には17基の五輪塔があり、彦根藩主 10代直禔、12代直幸、13代直中などの供養塔がある。

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 彦根藩 第10代藩主
井伊 直禔 (なおよし)
宝暦4年 見性院殿
観刹了因大居士
 
 ② 彦根藩 第12代藩主
井伊 直幸 (なおひで)
寛政元年 大魏院殿
弥高文山大居士
江戸幕府大老 
 ③ 彦根藩 第13代藩主
井伊 直中 (なおなか)
天保2年 観徳院
天寧広輝
井伊直弼実父 



井伊掃部頭霊屋

井伊掃部頭霊屋(墓所(廟))は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院23町石北東に位置し、鳥取池田家供養塔(池田恒興)の北側斜面上段にある。
井伊掃部頭霊屋前には、井伊直弼供養塔が建立されている。

史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、内部に宝篋印塔一基があり、建立時期は「江戸中期か」と記されており、次の記述がある。
「(奥の院の)古絵図には現在霊屋が立つ場所を含め、その他の場所にも複数の「井伊掃部頭」と記された墓所(五輪塔及び霊屋)が確認される。
複数の古絵図で現在位置に霊屋が2棟描かれているが、いずれも屋根形式が入母屋造となっており、当霊屋を示すものかどうかは俄に判断できない。
当霊屋が祀る対象を含め、今後の研究が期待される。」
上記報告書の地区平面図には、当地墓所は「井伊直政霊屋」と記されている。

岩堀元樹氏の「高野山奥の院 家康関係者墓碑」によると、霊屋内部の宝篋印塔の写真が掲載されており、井伊直政の墓碑と紹介されている。

井伊直政(1561-1602)は、徳川家康の重臣である。
遠江の名族 井伊氏の嫡子として、井伊谷(いいのや)に生まれた。
父 直親(なおちか)は、織田、徳川氏と通じているとの理由で、主君今川氏真(うじざね)によって謀殺されたが、当時2歳の直政は死を免れ、天正3年(1575)15歳の時に浜松で徳川家康に対面し、小姓に取り立てられた。
以後、家康旗本軍の有力武将となり、政務にも重要な役割を果たして、徳川家臣団の第一人者となった。
直政軍団の主力は武田氏旧臣で兵具を赤色としたので、井伊の赤備(あかぞなえ)と呼ばれ、直政は「赤鬼」の異称があった。
関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに監軍で諸大名を指示し、戦後は近江佐和山城で18万石を領した。




近江彦根藩 井伊家供養塔(3代直澄他)

近江彦根藩 井伊家供養塔(3代直澄他)は、和歌山県高野山奥の院24町石北西にある。
井伊掃部頭霊屋の東側に隣接している墓所である。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には大型五輪塔5基、中型五輪塔3基が建立されている。
主な石塔は次のとおりである。

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 近江彦根藩 第3代藩主
井伊 直澄(なおすみ)
延宝4年
(1676)
忠山源功
玉龍院
 
 ② 近江彦根藩 第5代藩主
井伊 直通(なおみち)
宝永7年
(1710)
光照院
天真義空
 
 ③ 近江彦根藩 第6代藩主
井伊 直恒(なおつね)
宝永7年
(1710)
圓城院
徳厳道隣
 
 ④ 近江彦根藩 第4代藩主
第7代藩主(再任)
井伊 直興(なおおき)
享保2年
(1717)
長壽院
覚翁知性
 ⑤ 近江彦根藩 第8代藩主
井伊 直惟(なおのぶ)
元文元年
(1736)
泰源院殿
海印指光
 




井伊家供養塔(直勝、直好他)

井伊家供養塔(直勝、直好他)は、和歌山県高野山奥の院24町石北西にある。
井伊掃部頭霊屋の北東にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、掛川、与板で藩主を務めた直勝系井伊家の墓所(一部彦根藩もあり)で、墓域内には五輪塔18基がある。
井伊直勝供養塔(寛文2年 雲光院月山了照)、井伊直好供養塔(寛文12年 大勝院日頼春杲)がある。
井伊直勝(1590-1662)は、井伊直政の長男として生まれ、慶長7年に佐和山城主となり、8年彦根山に築城を開始して、のちに彦根城に移った。
徳川家康の命によって彦根藩主を異母弟の直孝に譲り、3万石を分与され、慶長20年上野(群馬県)安中藩主井伊家初代となった。このときに直継(なおつぐ)から直勝に改名した。
井伊直好(1618-1672)は、井伊直勝の長男で、万治2年遠江(静岡県)掛川藩主井伊家初代となった。







出典 江戸時代全大名家事典



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