天皇行幸の道 ~飛鳥時代~
飛鳥 芋峠 吉野離宮跡
芋峠ハイキング
実施年月日 令和5年5月28日 → 第2回 宮滝 吉野離宮ハイキング
電車時刻 (日曜時刻)
駅 名 | 往 路(740円) | 復 路 (料金片道810円) | |||||
JR橋本駅 | 7:26 | 8:13 | 8:56 | 15:19 | 16:43 | 18:07 | 18:07 |
JR吉野口駅 | 7:56 | 8:42 | 9:25 | 14:49 | 15:49 | 17:39 | 17:39 |
乗換待ち | (18分) | (4分) | (16分) | (6分) | (28分) | (87分) | (57分) |
近鉄吉野口駅 | 8:14 | 8:46 | 9:44 | 14:42 | 15:41 | 16:11 | 16:41 |
近鉄飛鳥駅 | 8:25 | 8:56 | 9:55 | ||||
近鉄大和上市駅 | 14:17 | 15:11 | 15:41 | 16:11 |
集合 近鉄飛鳥駅 午前9時
解散 近鉄大和上市駅 午後3時 又は 午後4時
ウォークルート(概略)(標準時刻) 約16㎞
近鉄飛鳥駅(9:10) 🚻 → 国営飛鳥歴史公園館(9:20) 🚻 → 朝風峠(9:55) ベンチ休憩
→ 男綱(10:10) → 龍福寺(10:30) 🚻 → 南淵請安墓(10:50)
→ 飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(11:20) → 女綱 (11:40) 昼食 (12:10)
→ 芋峠 (13:10)→ せせらぎ公園 (14:10) 🚻 → 大和上市駅 (15:00) 🚻
参考地図 歩くなら 持統天皇行幸の道 ヤマレコ古道芋峠道 吉野~大和八木 藤原京から吉野へ。持統天皇行幸の道をたどる
天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、奈良県明日香村野口にある。
野口集落の西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、野口大墓(のぐちおおはか)、青木御陵(あおきのみささぎ)とも呼ばれ、天武、持統両天皇を合葬した「檜隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)」に治定されている。
大内陵は持統天皇元年(686)10月、草壁皇子以下により築造され、翌2年11月11日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝3年(703)12月26日合葬された。(続日本紀)
陵墓は文暦2年(1235)に盗掘され、その際の調査記録である「阿不幾乃山陵記(あお(ふ)きのさんりょうき)」や藤原定家の「明月記」に内部の状況が詳細に描かれている。
阿不幾乃山陵記によると、墳形は八角形で五段築成、周囲に石段がめぐらされている。
切石積みの石室は、前室と奥室の二室で、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)(麻布と漆を塗り重ねた棺)と、持統天皇の金銅製骨蔵器(こつぞうき)が納められている。
古くは「王(皇)ノ墓」と呼ばれたこの古墳は、江戸時代から明治初期まで文武天皇の檜隈安古岡上(ひのくまのあこのおかのへ)陵とみなされることが多かった(天武持統合葬陵は現橿原市の「五条野丸山古墳」とされた)が、
明治13年(1880)に阿不幾乃山陵記が知られ、明治14年(1881)に治定の変更が行われた。
天皇陵古墳の中で被葬者がほぼ特定でき、築造実年代が確定できる数少ない古墳である。
なお、「五条野丸山古墳」は、奈良県最大の前方後円墳で、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙がっている。
現在の墳丘は、南北約50m、東西約45m、高さ約9m、周囲約120mで八角形に近い形となっている。
また墳丘の位置は、藤原京の中軸である朱雀大路の延長線上にあり、計画的な墓地選定を指摘する説もある。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩15分。東南麓に駐車スペースがある。
朝風峠 案山子(かかし)ロード 稲渕の棚田は、奈良県明日香村にある。
峠北側に石碑が2基あり、次のように記されている。
(1基目)
朝風
(2基目)
飛鳥時代の聖なる山の一つ南淵山と眼下に飛鳥川の清流を望む景勝の地。
平城京の長屋王家木簡に「旦風」「竹野王子」「竹?野王子山寺」と記したものがあり、
「旦風」は「あさかぜ」と読み、現在、明日香村稲渕の龍福寺境内にある竹野王層塔銘文の
「朝風」にあたると考えられている。
案山子ロード横には、木製ベンチが設置されている。
稲渕棚田は、奈良県明日香村にある。
稲渕周辺名所マップには、次のような説明がある。
◀◀◀ 稲渕棚田
千数百年の時を超え飛鳥京のおもかげを今もとどめる稲渕地域は、ゆるやかな山並みに縁取られた農村で、中心部を万葉集でも詠まれた飛鳥川が流れる里山である。
なだらかに傾斜する地形に沿って等高線を刻むかのような棚田は奥行のある景観を醸している。
稲渕地区の棚田は、約17.5haの中に、500枚程度存在する。
美しい日本のむら景観百選(1991年)、日本の棚田百選(1999年)、日本の里100選(2009年)、重要文化的景観(2011年)に選ばれている。
この歴史亭にも文化的にも重要な稲渕地区の歴史的風土を、後世に継承するため、平成8年から棚田オーナー制度を実施。
平成22年には地元住民だけでなく、オーナーが、NPO法人明日香の未来を創る会を設立し、棚田保全に精力的に活動しています。
棚田、千枚田へのリンク → あらぎ島 丸山千枚田 下赤阪の棚田 芋谷の棚田 日本の棚田百選
稲渕の男綱、栢森の女綱は、奈良県明日香村の飛鳥川に掛けられている。
稲渕の綱掛神事と栢森の綱掛神事の案内板が、それぞれ男綱と女綱の場所に設置されている。
綱掛神事は、稲渕(いなぶち)と栢森(かやのもり)両大字に伝わる神事で、毎年正月11日に行われる。カンジョ掛神事ともいう。
子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などがこの道とこの川を通って侵入するものを押しとめ、住民を守護するための神事といわれている。
稲渕大字の神事の特徴は、全体を神式で行うことである。飛鳥川の川の上に陽物(ようぶつ)をかたどった「男綱(おづな)」を掛け渡し、神所橋(かんじょばし)と呼ばれる橋に祭壇を設け、神職が御祓いをする。
栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行うことである。福石(陰物ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱(めづな)」を掛け渡す。
綱掛(縄掛)については、趣旨目的など異なるが、三重県の花の窟(はなのいわや)、大阪府の流谷八幡神社などでも見られる。
飛鳥川の飛び石は、奈良県明日香村稲渕にある。
少し離れて2か所の飛び石があり、奈良県の景観資産となっている。
犬養孝書の次の万葉歌碑が置かれている。
「飛鳥川 明日も渡らむ石橋の 遠き心は想ほえむかも」
(明日も私はこの石橋を渡り、あなたのもとへ向かうでしょう。その想いはこの石橋のように離れずにあなたの心の傍にあるのです)
天徳山 和合院 龍福寺は、奈良県明日香村稲渕にある浄土宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来である。→ 仏像分類表
境内参道横の解説案内板には、次のように記されている。
稲渕竜福寺と竹野王碑
飛鳥川の上流稲渕は南淵漢人請安の居住した地と伝える。
竜福寺は浄土宗鎮西派の末寺で境内には、もとは五重層塔とみられる石塔があり、現在は下から三重目と四重目の軸部のみが残る。
屋根には下り棟の形の浅い造り出しがあり、屋根裏に傾斜をつけ、上の軸部に対し下の屋根の軸部受けの造り出しもあるなど手の込んだ作品である。
初層軸部四面に「天平勝宝三年(751)歳次辛卯四月二十四日丙子、従二位竹野王」と判読される文字が刻まれている。
もしそれに誤りがないとすれば、わが国に現存する在銘の層塔として最も古いものといえる。
竹野王については平城京出土の長屋王家木簡にもその名がみえ興味深い。
大和・紀伊寺院神社大事典によると、竹野王について、「公卿補任」に天平16年(744)従三位となり、天平宝字2年(758)に正三位となった竹野王がみえるが、当地の刻銘には符合しないとされている。
また「続日本紀」は天平勝宝3年(751)1月25日、従二位となった竹野女王が記されている。
南淵請安先生の墓は、奈良県明日香村大字稲渕にある。
南淵請安(みなみぶちじょうあん/みなみぶちのしょうあん)は、7世紀前半の学問僧で、南淵漢人(あやひと)請安(青安)ともいい、南淵に居住した朝鮮渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)の一族である。
推古天皇16年(608)に小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)らとともに遣隋使学問僧として中国にわたり、舒明天皇12年(640)に玄理らとともに新羅を経て帰国した。
33年間の中国滞在中に、随、唐の興亡、唐の隆盛を直接見聞し、この経験が帰国後に大きな影響を与えたといわれる。
中大兄皇子・藤原鎌足らは、南淵請安に「周孔の学」すなわち儒教を学んだといい、その往復の途次に蘇我入鹿、蝦夷討滅の計画をたてたという。
当地の墓は寛文2年(1662)に建てられたもので、歌碑や顕彰碑なども建立されている。
飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社は、奈良県明日香村稲淵小字宮山にある。
飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社(あすかのかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)は、大字稲淵・栢森・入谷・畑の氏神で延喜式内社である。
祭神は、宇須多岐比売、神功皇后、応神天皇である。
本殿はなく、拝殿後方の南淵山を御神体とする原始神道の神社である。
明治時代までは、雨乞いの「なもで踊り」(南無手踊り)が行われていた。
奥明日香 栢森 万葉歌碑は、奈良県明日香村栢森バス停南にある。
碑面には次のように記されている。
(西面)
今往而 聞物尓毛我 明日香川 (いまゆきて きくものにもが あすかがは)
春雨零而 瀧津湍音乎 (はるさめふりて たきつせのおとを)
善信筆
(東面)
揮毫 西岡善信 平成二十四年三月
明日香村文化協会 明日香村 飛鳥・橿原ユネスコ協会
万葉集 巻10-1878 「春の雑歌」に収録されている。
川を詠む
今行きて 聞くものにもが 明日香川
春雨降りて 激(たき)つ瀬の音を
(歌意)
今行って 聞くことができたら良いのに 明日香川の
春雨が降って 激しく流れる瀬の音を
西岡善信(1922-2019)は、奈良県明日香村出身の映画美術監督である。
古道小峠は、奈良県明日香村の奥明日香にある。
栢森から芋峠に至る古道で、新道(車道)との交差部分に、次の案内板がある。
古道芋峠道
犬養孝 「万葉の大和路」より
明日香村大字岡のあたりから吉野へあるいてゆくのには、普通飛鳥川をさかのぼって大字稲淵・栢森と登りつめて、芋峠が吉野郡の境となって、これから吉野郡上市の町へと下るのである。
芋峠までくれば、吉野の山々を一つ一つ数えることができる。空気も国原とはとみに変わった感である。
この道は、明日香村の奥座敷で、静寂快適この上もない。
いまは自動車でこの峠をらくに越え、飛鳥吉野間の往復もしきりである。
昭和のはじめごろでは、まだ旧道であった。飛鳥川の東岸をゆく道は、栢森から左に曲がって登ってゆく道で、草茫々の廃道となり、峠へゆく途中の茶店の人も下の村におりて、家のあとだけがあった。峠のところで新道と合している。
持統女帝の吉野行幸道は、地形状況からいって、この道をゆくのがきわめて自然と思われる。
古道芋峠は、奈良県明日香村と吉野町にある。
芋峠(芋ケ峠)の古道と新道の交差箇所に次の案内板がある。
古道芋峠
犬養孝 「万葉の旅(上)」より
電車がひけるまでは、飛鳥地方と吉野をむすぶ重要な交通路となっていたが、こんにちは 誰ひとり越えるものはなく、草ぼうぼうで、道を失いがちであり、廃道に帰している実状である。
山道はもちろん、田舎の坦道さえ村から村へと歩く人影は、全国ともにほとんど見られなくなった。旧道は寸断され、旧峠などたいがいが廃絶の姿である。
古代から近代までつづいたあるくことによる距離の観念は、交通機関の発達によってみごと変革をとげているといってよい。
それだけに、万葉の歌の実相があるくことによってより正しく還元されるところの多いことが 峠の草など かきわけているときに、しみじみ感じられてくる。
み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ
君は降りける 間(ま)なくぞ 雨はふりける
その雪の 時なきがごと
その雨の 間(ま)なきがこと
隈(くま)もおちず 思いつつぞ来し その山道を
万葉集 巻一の二五
千股川 せせらぎ公園
千股持経塚観音堂
本居宣長 菅笠日記 和歌
菅笠日記の中に次の文がある。
春の日もいととく暮ぬれば、千俣(ちまた)といふ山ぶところなる里にとまりぬ、こよひは。
ふる里に通ふ夢路や たどらまし ちまたの里に 旅寝しつれば
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