高野山壇上伽藍は、和歌山県高野町にある高野山の諸堂の集まる所である。
伽藍とは、梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行する閑静清浄な所という意味である。
壇上とは、大塔の鎮まる壇、道場という意味である。
空海が、伽藍の建設に着手したのが816年で、完成は寛平年間(889-898)の頃と考えられる。
高野山伽藍は、奈良仏教の伽藍形式と違い、大日経と金剛頂経を象徴する2つの塔、東塔と西塔を左右に配し、根本大塔が中心に建っている。
根本大塔は、真言密教の根本道場として伽藍の中心に建設された。
弘法大師空海が819年に建立に着手し、2世真然大徳の代に落慶したが、以降5回の焼失と再建を経て、現在の建物は1937年に完成した。
高さ49m、約24m四方の一層塔である。
胎蔵界の大日如来を本尊とし、その四方には金剛界の四仏が配置されている。内陣の16本の柱には堂本印象画伯の色鮮やかな金剛界の菩薩絵が描かれている。
金堂は、高野山一山の総本堂で、創建当初は講堂と呼ばれた。後に嵯峨天皇の御願によって完成したことから、御願堂と呼ばれている。
数度の火災を経て、現在の建物は1932年に再建された。秘仏の本尊は薬師如来で、髙村光雲が80歳の高齢をおして復元したものである。
高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の正門は中門と呼ばれている。819年創建で、焼失と再建が繰り返された。
1843年焼失後は、礎石だけが露出した中門跡となっていたが、2015年の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された。
焼失を免れた持国天、多聞天に、新たに増長天、広目天を加えて、四天王が安置されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車すぐ。
自家用車の場合は、中門前に無料駐車場がある。(Y.N)
御影堂は、和歌山県の高野山壇上伽藍の金堂北方にある御堂である。
空海在世中、御堂に如意輪観音を安置し、常に念誦していたので、念誦堂、持仏堂または御庵室と呼ばれていた。
空海入定後に弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため、御影堂と呼ばれるようになった。
数度の焼失を経ており、現在の建物は嘉永元年(1848年)に、紀州藩徳川家を壇主として再建された。
3間4面の檜皮葺、宝形造りで、屋根の勾配の曲線が美しい建物である。
内陣には、大師御影を安置し、中陣には両界曼荼羅、外陣には十大弟子と祈親上人、真然大徳の絵像がかかげられている。
堂前には、空海が唐からの帰途船上から投げた(飛行)三鈷杵が懸ったと伝えられる「三鈷の松」がある。
この松は、葉が3本に分かれた珍しいもので、葉を拾って肌身につけていると御利益があると言われている。
飛行三鈷杵は、全長23.8cmで鋳銅鍍金が施され、把径3.3cmの中央把に厳しく隆起した鬼頭四つを施し、左右に単弁八葉の連把を配した造りで、国の重要文化財に指定されている。
御影堂の周囲には、防火のためのドレンチャーがあり、火災の際には、建物の屋根の高さまで放水されるようになっている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。
毎年、新暦及び旧暦3月21日には奥の院と御影堂で正御影供(しょうみえく)と呼ばれる弘法大師の法会が行われる。
旧正御影供前日の御逮夜は、日没前から御詠歌と舞踊の奉納が行われ、午後8時から御影堂で法要が行われる。
法要が終了すると、一般参拝者も堂内外陣を参観できる。また、壇上伽藍各堂の扉が開かれ、各本尊を拝観できる。
三鈷の松は、和歌山県高野山壇上伽藍の御影堂の前にある。
大同元年(806年)、弘法大師が唐から帰国するとき、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵」を投げた。
帰国後、その三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたという。
こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなった。以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰をあつめている。
普通、松の葉は2葉か5葉であるが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっており、肌身につけると御利益があると言われて、参拝者が葉を探す姿が見られる。
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准胝堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある。
光孝天皇の御願により、真然大徳が建立したものである。
本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として、自ら造立したものと伝えられている。
この観音は、伽藍建立当時食堂に安置されていた。
准胝観音は、准胝仏母、七倶胝仏母とも呼ばれ、准提とも書く。真言系の六観音の一つで、無数の仏を生み出す女性尊であることから、出家得度の本尊として信仰されている。
現在の建物は、明治16年(1883年)に再建されたものである。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。(Y.N)
伽藍准胝堂において、7月1日に准胝堂陀羅尼会が行われる。
この法会は、明算大徳(1021-1106)の時に始められたと伝えられている。
「尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)」を唱え、日々の罪過を懺悔する法会である。
孔雀堂は、和歌山県高野山壇上伽藍にあるお堂である。
孔雀明王院、孔雀明王堂とも呼ばれる。
本尊の木造孔雀明王像は、孔雀にまたがる一面四臂の菩薩形で、像高78.8cm。鎌倉時代の名仏師快慶作で、国指定の重要文化財である。
孔雀は、よく毒草や害虫を食するということで、インドで孔雀明王は諸人の罪障を除く神として崇められてきた。
正治元年(1199年)、後鳥羽法皇の御願によって、京都東寺の延杲大僧正が干天に降雨を祈願し成就したことから、法皇の賞賜として、正治2年(1200年)に建立された。
昭和元年(1926年)金堂とともに類焼し仮堂のままとなっていたが、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業の一環として、昭和58年(1983年)に再建された。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩5分。中門前の無料駐車場を利用できる。(Y.N)
西塔は、和歌山県高野山の壇上伽藍西北にある。
承和元年(834年)に弘法大師空海によって記された「知識を勧進して仏塔を造り奉る書」(性霊集)の「毘盧遮那法界体性の塔二基」は、根本大塔と西塔を指すと言われている。
金堂の東西後方に毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)二基が配置される形で、壇上伽藍が構想された。
そして弘法大師入定後、仁和2年(886年)に第二世真然大徳が光孝天皇の命を受けて、西塔が建立された。
現在の建物は、五度目の再建で、天保5年(1834年)に建立された。
現在の西塔は、高さ九丈(27.27m)で、下層を柱間五間の方形、上層を円形の平面として、上下層ともに四角の屋根を掛けた二重の塔で、頂部には擬宝珠高欄と相輪を載せ、相輪上部と上層屋根の四隅を宝鎖(ほうさ)で繋いでいる。
このような形式の塔を「大塔」と呼んでいる。根本大塔も大塔形式であるが、昭和12年(1937年)に鉄筋コンクリート造りで再建されている。
木造の大塔は、西塔の他に根来寺の大塔が現存するのみである。
大塔形式を小規模にした建物が「多宝塔(たほうとう)」と考えられている。
大塔、多宝塔共に真言宗独特の建物形式であるが、多宝塔は大塔と異なり全国に多数の残存例がある。
大規模のため資金や部材、労力が膨大にかかる大塔に比べ、高い技術が必要なものの比較的手軽に建てられる多宝塔が、大塔に代わり普及したと考えられている。
柱は、外陣に20本、内陣に12本、中心に4本合計36本に中心柱を加えて金剛界37尊を象徴している。
本尊は、金剛界大日と胎蔵界四仏(開敷華王(かいふけおう)如来、宝幢(ほうどう)如来、天鼓雷音(てんくらいいん)如来、無量壽如来)の五仏が安置されており、これにより「金胎両部不二」の教義が示されている。
来迎壁背面には、一対の迦陵頻伽(がりょうびんが 上半身が人、下半身が鳥の想像上の生き物)と蓮池が描かれており、阿弥陀の浄土を表わしていると考えられる。
西塔前の石灯籠には、天保5年の再建時に尽力した正智院第40世良應とその兄である華岡青洲(隨賢)の名前が刻まれている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩10分。中門前に駐車場がある。
御社(みやしろ)は、和歌山県高野山の壇上伽藍西端にある。
西塔南側の小高い場所に位置しており、北側から一宮、二宮、三扉の総社と呼ばれる三社が並列している。
一宮には、丹生都比売明神、気比明神、二宮には、高野狩場明神、厳島明神が祀られている。
総社には、北の扉に十二王子、中の扉に百二十伴神、南の扉に摩利支天が祀られている。
現在の社殿は、大永2年(1522年)に再建されたもので、一宮、二宮は一間社春日造、総社は三間社流見世棚造である。
御社は、弘仁10年(819年)弘法大師が高野山開創にあたり、地主神として丹生明神と高野明神を勧請したと伝えられている。
地主神の守護のもと、真言密教の道場を築くもので、神仏習合の原点ともいえる。
平安時代の寛治2年(1088年)「白河上皇高野御幸記」には、丹生高野明神に奉幣が行われた事が記されている。
御社の前に、拝殿の山王院が建てられており、御社とともに国の重要文化財に指定されている。
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高野山「山王院」は、和歌山県高野山の壇上伽藍にある御社の拝殿である。
創建は、11世紀中頃といわれ、地主の神を「山の神」と信じることからこの名がついたとされる。
桁行21.3m、梁間7.8m両側面向拝付入母屋造りの現在の建物は、弘化2年(1845年)に再建された。御社とともに国の重要文化財に指定されている
毎月16日、山内の僧侶による「法楽論議」が行われる。
旧暦5月1日、2日の両日には、南院波切不動を勧進して、夏季の祈りの法会が行われている。
弘仁10年(819年)5月3日の高野明神勧請の日に因み、旧暦5月3日に「竪精(りっせい)明神論議」と呼ばれる、論議形式の法会が夜を徹して行われる。
旧暦6月10日、11日には、金光明最勝王経を唱える「御最勝講(みさいしょうこう)」が行われる。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金堂前」下車、徒歩10分。中門前の無料駐車場を利用できる。(Y.N)
閼伽井(あかい)は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵東南にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「閼伽井(あかのい)
御社の南、林間にあり。大師の鑿開(せんかい)し給ふ処、天竺の無熱池の水を湛ふとなん。
凡(およそ)一山灌頂曼供等の大法会には、必ず是をもって閼伽とす。」
弘法大師空海が自ら掘った井戸で、無熱池の水が湛えられている。
無熱池とは、インドで考えられた理想郷の池で、阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住むという、炎熱の苦しみがない池である。
そこに咲く青蓮華が樒の葉に似ていることから、仏に樒を供えることになるとされている。
また、この池の岸が金、銀、瑠璃、玻璃の四宝で飾られ、冷たい清らかな水が湧き出し流れ出て四大河のもとをなし、世界を潤すと考えられている。
閼伽井の水は、灌頂や曼荼羅供などの高野山の大法会に使われている。
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六角経蔵は、和歌山県高野山の伽藍南西部にある六角六面二重塔様式の経蔵である。
鳥羽上皇妃、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために、平治元年(1159年)に建立された。
このとき、美福門院自ら書写した紺紙金泥一切経3575巻が納められ、この経に荒川荘(現和歌山県桃山町)を付けて寄進したため、荒川経蔵、金泥一切経蔵とも呼ばれる。
天正19年(1591年)には、高野山中興の祖応其上人の発願で大規模な修理が行われ、本尊「宝冠釈迦如来坐像」が安置された。
現在の建物は、昭和9年(1934年)に再建されたものである。
紺紙金字一切経(荒川経)は、料紙に銀泥の界を引き、金字で書写した装飾経で、重要文化財に指定され霊宝館に保管されている。
基壇の把手を持って台座を一回転すると、一切経を読んだと同じ徳を得られると言われている。
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中門は、和歌山県高野山の金堂前にある。高野山の総門である大門に対して、壇上伽藍の結界ともいえる五間二階の楼門である。
弘仁10年(819年)の創建と伝えられている。
当初は、鳥井状のものであったが、承和14年(847年)に弘法大師の弟子実恵によって、立派な門が建立された。
その後、焼失と再建が続き、江戸時代には3回焼失したことが知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843年)焼失後は、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡だけが残されていたが、平成27年(2015年)の高野山開創1200年記念大法会の特別事業として、172年ぶりに8代目の門が再建された。
正面に安置されている多聞天(毘沙門天)、持国天の二天像は、文政3年(1820年)再建時のもので、天保の大火では焼失を免れて、根本大塔内に保管されていた。2015年の再建に合わせ、二天像が修復され、
さらに内側に増長天、広目天が安置され、四天像が揃う形となった。
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登天の松・杓子の芝は、和歌山県高野山壇上伽藍の六角経蔵の北側にある。
江戸時代に書かれた「野山名霊集」には、この松と芝の故事について、杓子芝(しゃくしのしば)と題して、次のように書かれている。
「経蔵の前にあり、昔明王院の如法上人、久安五年(1149年)四月十日生身(いきなから)白昼に兜率天に登り給ひけるか、はき玉ふ所の沓(くつ)落ちて明王院の後山の松にかゝれり、
是を沓かけの松と号して今猶彼所にあり、其のとき、弟子皈従(きしう)といふ僧、上人の跡をしたふて手に杓子を持なから天上せしか、
暫して後杓子を此所におとしたりといふ、(中略)生身に弥勒の浄土に往生し、(中略)上人の登天これにあたれり、」
また「西鶴諸国ばなし巻四」には、宝亀院の住職が天に登り、弟子が杓子を持って続いた話(大門の杓子天狗)が載せられている。
高野山では、信仰や伝説に関わる七本の名木があり、「七株(ななもと)の霊木」と呼ばれて大切にされてきた。三鈷の松をはじめ、登天の松も上記伝説とともに語り伝えられているものである。
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大塔の鐘(高野四郎)は、和歌山県高野山壇上伽藍の鐘楼堂にある。
弘法大師が、「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」(性霊集)で鋳造を発願し、高野山第二世真然大徳の時代に完成した。
度重なる火災のため三度の改鋳を繰り返し、現在の銅鐘は天文16年(1547年)に再興したもので、直径2.12m、高さ2.5mの大きさである。
改鋳当時は、東大寺の鐘「南都の太郎」に次ぐ大きさで「高野二郎」と呼ばれたが、その後、知恩院と方広寺の鐘が出来たため、「高野四郎」と呼ばれるようになったという。
この鐘は「時を告げる時」や「法会などの儀式の合図」として鳴らされる。
毎日5回、午前4時、午後1時、午後6時、午後9時、午後11時に鐘が撞かれ、1日に鳴り響く鐘の音は合計108回になる。
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