紀北の魅力発見コース 紀北の魅力発見コース2

向副 観音寺 

向副観音寺は、和歌山県橋本市にある高野山真言宗の寺院である。
創建は安土桃山時代で、詳細は不明である。
織田秀信公(織田信長の嫡孫)の位牌が安置されている。
本堂に安置されている木造薬師如来座像と木造大日如来座像は、橋本市の指定文化財となっている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩25分。


織田秀信終焉の地

織田秀信終焉の地は、和歌山県橋本市にある史跡である。
織田秀信(岐阜中納言)は、織田信長の嫡孫(信忠の長子)で、幼名は三法師と呼ばれた。
天正10年(1582年)に本能寺の変で、信長、信忠死去の後、清洲会議で織田家の家督を継いだ。
文禄元年(1592年)に岐阜城主となり、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは西軍に味方して敗れ、岐阜の円徳寺に入って剃髪した。
その後、高野山に入ったが、山徒は快く迎えなかったので下山して、相賀荘向副村に閑居した。
「濃陽将士伝記(濃陽諸士伝記)」には、「紀州高野山に登り給ひしが、岐阜中納言殿は、(高野)聖を成敗なされ給ひしとて、高野に入れ申さざるに付、麓におはしける」と記されている。
その後、銭坂城主生地新左衛門尉 阪上真澄の娘「町野」を妻として、一子恒直をもうけたが、入山後2年で病気となり、慶長10年(1605年)に向副村で死去した。
江戸時代の「紀伊續風土記」には、「秀信卿の墓は高野山光台院の後の山に五輪塔ありて銘文も明なり、然して當寺(善福寺)にあるは此に居住せし故なるべし」と記されている。
位牌は、向副観音寺(明治25年に善福寺と合併)に祀られており、善福寺跡には、秀信の墓所と伝える自然石の墓石があり、織田秀信顕彰碑(「織田秀信公碑」)、松山タケノ頌徳碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。



織田秀信公碑 

織田秀信公碑は、和歌山県橋本市の善福寺跡にある。
大正7年4月に建立されたものである。
背面には、後裔 織田信之助、織田亀吉、松山タケノの他、発起人氏名等が記されている。
碑文は次の通り。なお、9行目「舊稱」は、「旧稱」で表示している。

    宮内省主獵官正三位勲四等子爵織田信親題額
岐阜黄門秀信卿小字三法師贈正一位太政大臣織田信長公嫡
孫信忠之長子也天正十年六月本能寺之變卿在岐阜信忠託之
前田玄以玄以扶之以赴清洲羽柴秀吉誅明智光秀也與諸将議
使卿居於安土二叔信雄信孝補佐之十二年秀吉徙卿岐阜分名
字以命秀信累進為参議慶長五年関原之役石田三成誘致卿據
岐阜城八月二十三日徳川家康使武将攻之衆寡不敵遂降焉卿
従近侍十四人就芋洗里常泉坊以住職教了爲戒師薙髪赴高野
山常泉坊實我圓徳寺旧稱也卿在高野害聖派僧下山閉居於相
賀荘向副村娶阪上眞澄女生一男曰恒直慶長十年七月二十七
日薨法諡號大善院殿圭岩貞松大居士家系至今儼存住于學文
路村今茲大正七年四月後裔並有志者相謀将建碑以祈冥福来
請余記其事由乃叙梗概云                 
大正戊午四月     黄門戒師之裔圓徳寺松田宗教撰
                 少僧正瀧本智順書



松山タケノ女史 頌徳碑 

松山タケノ女史頌徳碑は、和歌山県橋本市向副善福寺跡の織田秀信終焉の地にある石碑である。
松山タケノは、織田信長の子孫の一人で、和歌山県伊都郡助産婦会を創設した。
石碑は昭和13年に建立されたもので、碑文は、次の通り。

女史織田信長公之後裔織田宗太郎氏之長女也母
大西氏明治二年生於學文路年甫八歳父亡廿九歳
為井澤家養女後嫁他家擧一女而夫君無操行遂決
意獨身入東京市産婆學校三十年卒業在大和五條
開業後再嫁九度山松山翠氏家道背運具甞辛楚其
間創設伊都郡助産婦會自任幹事次組織伊都郡産
婆會柀推為會長本年三月縣産婆會創立五月任其
副長女史業産婆四十餘年而出其門者不尠寔可謂
郡産婆之重鎮矣本年適相當古稀仍門人相謀建立
其頌徳碑勒功績以貽後昆云
  昭和十三年十月高野山天徳院穆韶書


定福寺

紫雲山定福寺は、和歌山県橋本市賢堂にある高野山真言宗の寺院である。
当寺は高野山参詣道の黒河道のスタート地点に位置しており、黒河道は平成27年(2015年)10月に国の史跡に指定され、平成28年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。
本尊木造阿弥陀如来坐像は像高88cmで、両手を腹前で組んで上品上生(弥陀定)印を結んでいる。
檜材の一木造りのこの像は、腹部の丸みに合わせて刳り込んだ一材の両膝を矧(は)ぎ寄せる手法で作られ、平安時代中期(10~11世紀)の作品である。
均整のとれた頭体で、和歌山県の有形文化財に指定されている。
境内下にある九重塔(橋本市指定文化財、砂岩、総高244cm)は、相輪部九輪の六段目以上と塔身部第八層目が欠損しているが、基礎部の銘から弘安8年(1285年)に建立された石造層塔である。
「伊都郡学文路村誌」には、「何の為に建立されたものかに就いては異説紛々、或は朝鮮より渡来せりといひ、容易に判定し難いが、塔の下には、石棺を埋めてあると言はれ、『一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず』との伝えがあるとて、人々畏怖して手を触れず」と記されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩9分、JR和歌山線及び南海高野線橋本駅から徒歩25分。



隠れ谷池

隠れ谷池は、和歌山県橋本市清水にある。
紀州へら竿は、100年以上の伝統を有し、国の伝統的工芸品に指定されている。
隠れ谷池は、「紀州へら竿の聖地」と呼ばれ、竿師が竿の研究に使う池を開放したものである。
午前8時から午後4時まで営業しており、貸し竿で気軽にヘラブナ釣りが楽しめる。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩10分、来訪者用の駐車場がある。


永楽寺

正覚山永楽寺は、和歌山県橋本市清水にある。
永楽寺の「略縁起」によると、「弘仁7年弘法大師高野山に伽藍を創建し、三冬厳寒を避けんが為、此地に一宇を結んで、高野山政所支所支庁とす、是則紀州伊都郡清水村正覚院永楽寺と言う。」と記されている。
本尊は、薬師如来像である。
高野玉川新四国霊場の第4番となっている。
当寺の鰐口は、慶長8年(1603年)橋本市内旧柏原(かせばら)村の九郎左衛門が、旧清水村定福寺の什物として鋳造寄進したもので、柏原の鋳物師の数少ない遺作として、橋本市の文化財に指定されている。
定福寺は、当永楽寺の旧名で、明治時代末期、旧永楽寺を廃し村役場、庁舎に転用し、定福寺に合併して寺号を永楽寺と改められたといわれている。
南海電鉄高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。



萱野家

萱野家は、和歌山県橋本市にある。
清水の古い町並みは、清水長町と呼ばれており、この景観は1997年に和歌山県ふるさと建築景観賞を受賞している。
萱野家は、高野山領行人方の大庄屋を勤めてきており、高野山の高僧が下山したときの宿泊所、お宿となった屋敷である。
紀伊続風土記には、旧家として 地士萱野孫四郎が記されている。
江州佐々木義秀の一族佐々木左大夫の末裔で、この家の庭には真田幸村(信繁)から贈られた柊と手水鉢がある。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。


清水三井(しみずさんせい)

清水三井(しみずさんせい)は、和歌山県橋本市清水にある。
昔から弘法大師空海の加持水とする井が、三か所あって、それぞれ石井、薦(こも)池井、清水井と呼んできた。
石井は社皇神社の南にあって、応永年間(1394-1427)に、石井入道の邸宅内にあったという。
薦池は社皇神社の東にあったが、現在は潰れている。
清水井は、紀伊清水駅の北、河川敷に隣接した場所にあり、現在もなお水が湧き出ている。
清水の地名は、これに由来するといわれている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。


社皇王神社

社皇王神社は、和歌山県橋本市清水にある神社である。
社伝によると、大同2年(807年)平城天皇の時代に勧請されたといわれる。
祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神、熊野夫須毘命、尾船豊受姫神、尾船夫夫能智神、手置帆負神、彦狭知神である。

紀伊続風土記には、次のように記されている。
當社は、荘(相賀荘)中の大社にして、當村(清水村)の古き氏神なり
里人相傳へて、市脇村三部明神の姉君といふ
三部明神の祭禮の時 神主幷神子當社前に来り 湯立し祝詞をあけて帰り
後三部明神の神輿渡御の事を取行ふを舊例とす
神名或は 尺王子とも書しといふ

相賀荘の成立により、総鎮守として根来から三部明神が勧請され、相賀大神社となった。
相賀大神社から当社に神輿渡御が行われていたという。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩20分。



高野街道六地藏 第一 西行庵

高野街道六地蔵第一(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市清水にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、当地から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
「地蔵堂(清水村にあり。この堂より山上まで、六地蔵とて六体あり。その一なり。)」
第一は清水、第二が橋本市南馬場、第三が九度山町繁野、第四が同町河根(かね)峠、第五が高野町西郷の作水(さみず)、第六は同町桜茶屋にそれぞれ祀られている。
当時どのような規模で祀られていたか、明らかでないが、信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産である。

当地に西行庵がある。
「紀伊続風土記」の清水村の項には、
「地蔵堂 村の東端にあり 高野街道六地藏第一といふ堂内に西行の像あり
長七寸許坐像にて包を背に背負へり」
と書かれている。
平安時代末期の歌人西行が、一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されており、西行ゆかりの地として
「正覚山永楽寺西行庵」と呼ばれている。

「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
 西行上人像 堂内に安ず。坐像。背に包みを負へり。長七寸許。西行此地にすみしといふ。
 西行松 堂の側にあり。
        西行の 草履もかゝれ 松の露 芭蕉
 衣掛櫻 堂の前にあり。光厳院法皇の御衣をかけたまへる。櫻の古木の枯れたるあとなりとて。
      今さくらの小樹を植ゑたり。
       とりかけし御衣の雫かしこみて 今も涙のちる櫻かな 橘 可折

また、太平記巻39には、光厳法皇が紀の川を渡る時に、橋から落ちて辻堂で衣を変えたことが次のように記されている。
 紀伊川を渡らせ玉へば、--- 法皇は橋の上より推し落とされ玉ひて、水に沈ませ玉ひけり。
 --- 御衣は水に漬りて --- 辻堂へ入れ進らせて、御衣を解ぎ替へさせ ---
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。


三軒茶屋大常夜燈籠 

三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。
この石灯籠には、宝暦2年(1752年)「高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領」の銘が刻まれている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。


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