金剛峯寺案内

金剛峯寺

金剛峯寺は、和歌山県高野町にある高野山真言宗の総本山である。
開創は、弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った816年である。その後幾度となく火災で喪失した。
1593年に豊臣秀吉が亡き母大政所天端院を弔うために青厳寺を建立し、その隣に木食応其が興山寺を建立した。
1869年に、この両寺が併合されて、改めて金剛峯寺と名付けられた。
金剛峯寺の名称は、開創以来高野山の伽藍全体の名称としても使われている。
創建当初の様式を伝える現在の建物は1863年のもので、東西54m南北63メートルの大主殿の中に大広間、梅の間、柳の間などがある。
大広間と梅の間には、江戸初期の画家、狩野探幽の作といわれる見事な襖絵が描かれている。
柳の間は、別名「秀次自刃の間」と呼ばれ、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次が追放され切腹した所である。
幡龍庭は、石庭としては我が国最大の広さ(2340㎡)があり、雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されている。
大主殿の北側には、空海の甥、真然の廟がある。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車すぐ。
自家用車の場合は、表門前に無料駐車場がある。



常楽会(涅槃会)

常楽会は、釈迦の入滅日(2月15日)前夜の14日午後11時から翌日昼頃まで行われる。
涅槃とは、悟りの境界ということで、これには常楽我浄の4つの徳が含まれる。
常とは永遠、楽とは安楽、我とは絶対、浄とは清浄を意味し、これから常楽会と呼ばれるようになった。
大広間に「仏涅槃図」が掲げられ、数十人の僧侶と専修学院生が集まり、法会が行われる。
「四座講式」という、特別なお経や節をつけた「声明」を唱える。
大広間の隣の土室の間で割り木が炊かれ、信者や参観者は座って声明に聴き入る。

内談義

内談義は、旧暦6月9日、10日の2日間午前10時から行われる。
高野山には古来より「学道」というものがあり、様々な経典や弘法大師が書いた書物を勉強し、またその知識をさらに研鑽するために、
質問する側と答える側にわかれて問答するという行事が行われてきた。
独特の節をつけて問答を行う内談義は、もともとは練学会(れんがくえ)という名で、10日間にわたって行われていたが、
現在は2日間で、前年の堅精の一、二臈が左右学頭となり一日ずつ出仕する精談儀式法会である。
内談義の式場については、「屋内大広間角の間には、学頭机を据え、右の金筒に箸、羽箒、灰ならしを立て、
中央に香炉、左に香箱、両脇に花瓶を据え五段の生花をさす」と定められ、立派な五段花が飾られる。






金剛峯寺正門

金剛峯寺正門は、和歌山県高野山金剛峯寺にある。
正門(表門)は、金剛峯寺前駐車場から境内に入る時に最初にくぐる門で、公式の行事のある時には、階段の両側に向かいあって馬水桶が並べられ、一つ一つが杉の葉で飾り付けられる。
かつて、将軍や大名の高野詣りの時、馬に水を飲ませたり餌付けをした名残りが現在まで続いている。
正門は、文久2年(1862)再建とされるが、延宝8年(1680)に落慶した「「青厳寺上門」の可能性も挙げられている。
東側のくぐり戸は、一般の僧侶が利用するもので、昔は正門は、天皇・皇族・高野山の重職だけが利用していた。
階段南側の橋の両側の枝垂れ桜が春の参詣者を、また階段西側の紅葉が秋の参詣者を出迎える。


金剛峯寺 かご塀

金剛峯寺 かご塀は、和歌山県高野山にある。
金剛峯寺正門の西にある案内板には、次のように記されている。
金剛峯寺かご塀
  和歌山県指定文化財
  指定 昭和四十年四月十四日
現在の金剛峯寺の前身である学侶方の総本山であった旧青厳寺の寺域を区切るためにもうけられた築地塀である。
南西部分の塀は、文久二年(一八六二)の建立と思われるが、西面する部分は柱の風飾状態などから一時代古いものと思われる。
総延長二〇二mを有する檜皮葺のかご塀である。
  和歌山県教育員会
  (財)高野山文化財保存会


天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹「高野槙」

天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹「高野槙」は、和歌山県高野山金剛峯寺境内にある。
経蔵前に建てられた案内板には、次のように記されている。
・昭和52年4月18日
 昭和天皇 皇后両陛下 行幸啓記念植樹の「高野槙」です。
 悠仁親王殿下のお印になっております。
The Koya-maki (Japanese umbrella pine) was planted
to celebrate the imperial visit of Emperor and Empress Showa on April 18, 1977.
Koya-maki is the seal of Prince Hirohito.


高野槙(学名 Sciadopitys verticillata (Thunb.) Sieb.et Zucc.)は、コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキで、一科一属一種の木として知られる。
もとは、スギ科のコウヤマキ属として扱われていた。
高さ30m近くまでまっすぐに伸びる端正な樹形から、優良な造園樹としてヒマラヤシーダー、アロウカリアと並んで世界の三大公園樹と呼ばれている。
自生地は、本州、四国、九州などで、和歌山県の高野山に多く分布することから、コウヤマキと名付けられた。→ 高野山コウヤマキ希少樹林個体群保護林
用途としては、耐水性に優れているため、棺桶、浴槽、風呂桶、流し板などに利用される。
近畿地方の古墳から出土する木棺は、ほとんどがコウヤマキから作られていたという。
高野山では、マツ、スギ、ヒノキ、モミ、ツガ、コウヤマキの六種の針葉樹を、「高野六木(こうやりくぼく)」として保護してきており、切枝を仏前に供え、墓前の供花として使われるため、高野詣でのみやげとして販売されている。


金剛峯寺 経蔵

金剛峯寺 経蔵は、和歌山県高野山にある。
経蔵前の案内板には、次のように記されている。
金剛峯寺経蔵
  和歌山県指定文化財
  指定 昭和四十一年四月十四日
総本山金剛峯寺の前身である学侶方本山青厳寺の経蔵である。
本経蔵は江戸時代初期の延宝七年(一六七九)に再建されたものである。
その構造は桁行六.二六m、梁間四.三〇mの塗篭造りの経蔵部に、正面唐破風付三間四面の入母屋造り檜皮葺の覆屋を設けている経蔵である。
  和歌山県教育委員会
  (財)高野山文化財保存会

正面扁額には次のように記されている。
當一切経幷
庫蔵施主摂
州天満之住
伊川氏都光
浄栄信士爲
頓證菩提也

かつては、火災に備えて主殿とは離れた建物に仏像仏具、経典等が収蔵されていたが、
現在、それらのものは高野山霊宝館に保管されている。




金剛峯寺 鐘楼

金剛峯寺 鐘楼は、和歌山県高野山にある。
鐘楼南東にある案内板には、次のように記されている。
金剛峯寺鐘楼
  和歌山県指定文化財
  指定 昭和四十年四月十四日
本鐘楼は、金剛峯寺の前身である青厳寺の鐘楼である。
その構造形式から万延元年(一八六〇)に山上の大火で類焼後、大主殿などの建物とともに、
本鐘楼も元治元年(一八六四)に再建されたものと考えられ、
桁行三間、梁行二間、袴腰付入母屋造りの形式とする鐘楼である。
  和歌山県教育員会
  (財)高野山文化財保存会

鐘は戦時中に一度徴用され、現在の鐘はその後再製されたものといわれている。
普段は使われていないが、本山内の行事の時に使用される。




蟠龍庭 

蟠龍庭は、和歌山県高野山金剛峯寺の勅使門と奥殿の間に造られた石庭である。
面積2,340㎡で、わが国最大の石庭である。
雲海の中で雌雄一対の龍が、金剛峯寺の貴賓室である奥殿を守っている形が表現されている。
龍は弘法大師のふるさと四国産の花崗岩140個が並べられ、雲海には京都の白砂が使われている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩5分。自家用車の場合は、表門前に無料駐車場がある。




金剛峯寺奥殿

金剛峯寺奥殿は、和歌山県高野町の金剛峯寺主殿西隣にある。
奥殿の建物は、昭和9年(1934)弘法大師御入定1100年御遠忌の際に建てられた。
当時の入札価格約6万円で和歌山市の建築家西本健次郎が請け負った。
建物の周囲は、日本最大の広さの石庭 蟠龍庭がある。
室内の襖絵は、建設に先立ち、昭和8年に画家石崎光瑤に揮毫を依頼した。
石崎光瑤は、大正5年に続き、再度インドを訪問し、植物や風景を写生し、カシミール渓谷最高峰コラホイ(5440m)にも登頂した。
襖絵「虹雉(こうち)」は、このようにして描かれたもので、紙本着色襖12面にヒマラヤシャクナゲの風景などが描きあげられ、
その絵画に因んで、「雪嶺の間」「瑤雞の間」「渓流の間」などの名が付けられている。
また、桜の間の障壁画は、中島千波が描いた朝方の桜の古木である。
北側の部屋には、高野山百景と題した富山護国寺住職石田俊良画伯の襖絵がある。


真然大徳廟

傳燈國師眞然大徳廟は、和歌山県高野山金剛峯寺主殿の後山、阿弥陀峰の山腹にある。
真然僧正は讃岐国佐伯氏に生まれ、弘法大師の甥にあたる。
高野山第二世として、弘法大師から高野山の経営を引き継ぎ、56年にわたり尽力した。
伝法会のもとを開き、次の時代の覚鑁上人に空海の精神を伝えた。
高野春秋編年輯録によると次のように記されている。
「真然は(891年)秋の9月11日に中院(今の龍光院)において、愛染王の三魔地に住して、病もなく忽然と遷化した。
門人は、中院の東方の原野に埋葬した。(略)八九歳であった。」
紀伊続風土記「青厳寺」の項に、「真然僧正の廟堂」として記されている。
昭和63年11月の発掘調査により真然大徳の舎利器(緑釉四足壺、器高18.1cm)が出土した。
昭和40年4月14日に和歌山県の史跡に指定されている。
毎年、9月11日には金剛峯寺で伝灯国師忌が行われる。



高野の火まつり

高野の火まつり 柴燈大護摩供は、例年3月第1日曜日に高野山で開催される。
場所は総本山金剛峯寺前駐車場で、午後1時から金剛峯寺座主高野山真言宗管長による「お清めの儀式」がある。
柴燈護摩は、修験道独自の護摩儀礼で、野外に護摩木や藁などを積み上げ弓や剣で結界を張り、そこへ仏菩薩を招き点火する。
その火により修験者の煩悩を焼き尽くすとともに、天下国家安穏、家内安全、五穀豊穣などを祈願する。
護摩供の後、お守りが授与される。


六時の鐘 

六時の鐘は、和歌山県高野山金剛峯寺にある。
この鐘楼は、当初福島正則(1561-1624)が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立したものである。
福島正則は、桶屋福島正信の長男として尾張国に生まれた。母が、豊臣秀吉の叔母木下氏であったことから、幼少から秀吉に仕え、柴田勝家との戦いでは、賤ヶ岳七本槍と言われて活躍した。
その後武功を挙げて清須城主となり、秀吉没後は、徳川家康に仕えて安芸広島城主となって、高野山に六時の鐘を建立した。
正則の死後、寛永7年(1640年)に鐘は焼失したが、寛永12年(1645年)に子の福島正利が再鋳した。
「紀伊国名所図会」には、鐘の銘が記されており、山内に「二六時を報ずる聲なし」との文がある。
二六時とは、一日の時間を「子の刻」「丑の刻」など十二刻で表していた時代の使われ方で、一日中を意味していた。
一方、岩波仏教辞典によると、「六時ろくじ」は、次のように説明されている。
読経・法要などを行うために昼夜をそれぞれ三分したもので、昼を<晨朝じんじょう><日中にっちゅう><日没にちもつ>、夜を<初夜しょや><中夜ちゅうや><後夜ごや>に区分する。(後略)

「高野山名所図会」によると、その後、宝暦元年(1751)6月鐘楼が傾頽したため修理し、石壇を3尺まで高くした。
明和8年7月に重ねて修理、文化6年7月の火災に罹(かか)り、仮堂を数年置いた後、天保6年(1835)冬旧製に復した。
午前6時から午後10時まで、偶数時に12回ずつ一日計百八回撞かれている。
「野山名霊集」には、「六時堂」と記されており、大納言(烏丸)光広卿の次の歌が紹介されている。
  高野山 なき身の数に けふもまた もれて聞ぬる 入相のかね
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車すぐ。金剛峯寺前に来訪者駐車場がある。




常喜院

常喜院は、和歌山県高野山南谷の大師教会北側にある。
寺伝によると、空海の十大弟子のひとり道光大師実恵が開基で、その後、保元元年(1156年)仏種坊心覚が、一夜の庵を建てて再興した。
心覚は、奈良東大寺の学僧で小野諸流、保寿院流などの密教事相(修法の仕方)を受け、広沢流の一派常喜院流を開いた。
古くは、往生院谷にある聖の寺であったが、江戸時代は行人方の一院となり、小田原谷の枝谷浄土院谷入口西側に移転、明治3年(1870年)来迎院、三室院を併せて現在地に移転した。現所在地は最勝院の跡地で、同院の名跡は常喜院が管理している。
本尊の木造地蔵菩薩坐像は、国の重要文化財に指定されている。
常喜院校倉は、寛永年間に行人方が造立したもので、興山寺の東照宮の境内にあったものを移築したといわれ、和歌山県の指定文化財となっている。
宝形造りで、内部は内陣、外陣に分かれ、内陣は土蔵で本尊に普賢延命菩薩を安置している。
護摩堂の本尊大威徳明王は、天正19年(1591年)第22世の編覚律師が豊前小倉城内で祈祷し、その喜びで黒田長政が寄進したものである。
山門横の地蔵堂には、恵方地蔵尊(愛称:赤じぞう、紅箔じぞう、玉じぞう)のほか、さすり地蔵などが安置されている。
南海高野線高野山駅からバスで金剛峯寺前下車、徒歩2分。




高野山大師教会

高野山大師教会は、和歌山県高野町にある。
大師教会大講堂は、大正14年(1925年)高野山開創1100年記念事業で建設されたもので、本尊は弘法大師、脇仏は愛染明王、不動明王が祀られている。
各種法会、儀式をはじめ、全国詠歌大会などが行われる。
仏教的な教えを授かる授戒の儀式は、大講堂の奥にある授戒堂で行われ、阿闍梨が参加者に「菩薩十善戒」を説く。
教化研修道場は、昭和57年(1982年)に竣工したもので、弘法大師信仰の教化と研修の中心施設となっている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。→ 趙樸初作漢俳碑 志太野坡句碑


宗祖降誕会 青葉まつり

宗祖降誕会は、弘法大師の誕生日を祝う金剛峯寺の恒例法会で、6月15日午前9時から大師教会大講堂で行われる。
青葉まつりは、高野町民により組織された高野山奉賛会が主催するもので、各種行事が開催される。
令和2年(2020)以降、青葉まつりの花御堂渡御は、6月第2日曜日に開催されることとなった。
前夜祭では、奉燈行列が行われる。
青葉まつり当日の正午から花御堂渡御が奥の院一の橋を出発し、小学校鼓笛隊や御詠歌隊などが「大師音頭」「いろは音頭」「稚児大師音頭」を踊る人々とともに、金剛峯寺までの約1.5㎞を練り歩く。
花御堂には、弘法大師の幼少時の姿といわれる稚児大師像が奉安され、その前後を「門民苦使(勅使)」「四天王」が守護している。
これは、奈良時代に国民の生活苦を聞いて回る問民苦使が、讃岐に派遣された際に、
他の子供たちと戯れている幼少の大師を敬って四天王が天蓋を奉持している様子を見て、馬から降りて礼拝したという弘法大師行状絵詞巻一の故事「四天侍衛」をもとにしている。
高野山内では、いけばな展、書道展などの奉賛展や奉賛スポーツ行事も行われる。



大般若転読会

大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)は、毎年12月10日午前9時から高野山大師教会大講堂で行われる。
大般若経は、「大般若波羅蜜多(はらみった)経」の略称で、全600巻(20万頌640万字)あり、中国唐の玄奘三蔵が訳した。
玄奘三蔵は、順慶5年(660年)の正月1日から大般若経の翻訳に取り組み、竜朔3年(663年)10月末に3年近くをかけて翻訳を完成させた。
ひろさちや著「仏教の歴史」(6)には、翻訳の苦労を物語る次のエピソードが紹介されている。
インドの原典には、繰り返しの表現が多いため、中国人の好みに合うように内容中心の簡潔な翻訳にしようと考えた。
ところが、そのように訳し始めると玄奘は恐ろしい夢を見たという。
それで、玄奘は原文を一字一句も省略せずに翻訳する形に変えた。
すると吉夢を見るようになり、仏や菩薩が眉間から光を放つ夢を見ながら、翻訳を完成させたという。
大般若経は、初期の大乗仏教経典の一つで、この経には、「大品般若経」「小品般若経」「文殊般若経」「金剛般若経」などが含まれる。
何ものにもとらわれない「空観」(くうがん)の立場に立ち、その境地に至るための菩薩の六波羅蜜の実践、とくに「般若六波羅蜜」の体得が強調される。
大般若経には、般若経の読誦(どくじゅ)、書写、思索などによる諸功徳が説かれていることから、除災招福、鎮護国家などに有益とされた。
大宝3年(703)文武天皇のとき、大般若経の転読(経題や経の初中終の数行の略読を繰り返すこと)が行われたことが、「続日本紀」に記されている。
それ以降、宗派の別なくこの転読が行われている。。
高野山大師教会では、山内住職と金剛峯寺の僧侶が出仕し、経本を左手に持ち上げて、大きく広げる様は大変迫力がある。





趙樸初作漢俳碑

趙樸初作漢俳碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。

趙樸初(ちょうぼくしょ)(Zhao Puchu)(1907-2000)は、中国仏教の指導者で、詩人、書家としても知られる。
安徽省で生まれ、1930年代に上海で難民救済、浮浪児童救済に従事して、仏教者による社会福祉の分野で活躍した。
1952年以降、中国仏教協会の要職を歴任し、寺院の修復、国際交流事業に尽力したほか、「人間(じんかん)仏教」の理念を掲げ、仏教と現代社会の調和を図り、中国仏教の復興に尽くした。

弘法大師一千百五十年御遠忌に際し、中国仏教協会会長として、西安市恵果空海記念堂建立に尽瘁した功績を讃え、垣本剛一氏の寄進で、昭和59年1月30日に碑が建立された。
趙樸初自作の漢俳(中国流の俳句)が、碑面に刻されている。
山陰石楠氏の解説文に下記の読み下し文が載せられている。
   山ハ魏々タリ高野山
   金剛峯(コンゴウホウ)上 月輪(ガチリン)圓(マド)カニシテ
   霊気 人間(ジンカン)ニ満ツ
   西ニ長安(チョウアン)ヲ望メバ 海天ニ接ス
   當(マサ)ニ法(ノリ)ヲ求メシ年憶(オモ)ウベシ
   秘府(ヒフ)為メニ 門ヲ開キ
   豈ニ独リ 金胎(コンタイ)両部ヲ 承ケシノミナラズ
   文鏡自ラ 通明ス
   霧集リ 復(マタ)雲連ナリテ
   両邦世々弟兄ノ縁(エニシ)タラン
 弘法大師示寂一千一百五十年歳次甲子ノ春
     趙樸初 作頌並ビニ書



志太野坡句碑

志太野坡句碑は、和歌山県高野山大師教会にある。
大師教会境内の趙樸初作漢俳碑北側に建立された石碑には、次の句が刻されている。
   鶯や木末は鴉(からす) 置きながら
志太野坡(しだやば)(1662-1740)は、江戸時代前期、中期の俳人である。
姓は志田、志多とも書き、別性は竹田。
越前(福井県)に生まれ、江戸の越後屋両替商につとめる。宝井其角、松尾芭蕉に学び、元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集した。
芭蕉の遺書を代筆した俳人で、蕉門十哲の一人に数えられる。
宝永元年(1704)大坂に移り、中国、九州地方に行脚して、西国に多くの門弟を擁した。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。


山陰石楠句碑

山陰石楠句碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。
石碑には、次の句が刻されている。
 敦盛は いまも十六 盆供養

山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。




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