豊澤團平墓

豊澤團平墓は、和歌山県高野山奥の院中の橋北西にある。
中の橋西の市川団十郎墓所遠州掛川北條家供養塔に並んで、参道沿いにある。
墓所内東側には「浄瑠璃長久 初代豊澤團平墓」、西側には「二代目豊澤團平之墓」が建立されている。
豊澤團平(とよざわだんぺい)は、義太夫節の三味線演奏者である。

初代豊澤團平(1827/28-1898)は、本名 加古仁兵衛で、兵庫県加古川出身。
天保10年(1839)3世豊澤広助に入門し、豊澤力松、同丑之助を経て、弘化元年(1844)に2世豊澤広助が半年間名乗った幼名を継いで團平となった。
従って各種資料では、「2世豊澤團平」と記される。
慶応元年(1865)には文楽の芝居で三味線筆頭となり、1883年には文楽座の三味線紋下、翌年から彦六座の紋下を務めた。
文楽座では、2世竹本越路太夫(のち摂津大掾)、彦六座では3世竹本大隅太夫の相三味線をつとめ、明治文楽界を隆盛に導いた。
妻の千賀とともに、「壺阪観音霊験記」「良弁杉(ろうべんすぎ)由来」「勧進帳」などの作曲も手がけ、新作や改作を数多く残している。→ 文楽 良弁杉由来ゆかりの地
明治31年4月1日、稲荷座で「花上野誉石碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」志渡寺(しどうじ)の段を演奏中に、脳溢血で倒れ、程なく死去した。

二代目豊澤團平(1858-1921)は、本名 植畑九市で、初代の門弟となり、豊澤九市、5世源吉、4世仙左衛門(せんざえもん)を経て、明治40年(1907)に團平を襲名した。
間拍子(まびょうし)が良いことで知られ、堀江座や近松座に出演した後、東京へ移った。



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