東大寺別当 良弁僧正ゆかりの地

文楽「良弁杉由来」ゆかりの地


二月堂良弁杉

二月堂良弁(ろうべん)杉は、奈良市東大寺にある。
東大寺開山の祖、初代別当である「良弁」の幼時の伝説がある。
良弁がまだ幼いころに鷲に連れ去られ、春日神社まで運ばれた。
たまたま通りかかった義淵僧正に救われ、育てられて、良弁は名僧となった。
のちに母の刻んだ観世音菩薩像を身に着けていた縁で、母子は再開し、良弁は孝行したと伝わる。
この杉は、昭和時代に植えられたもので、杉前の石碑には、良弁杉植樹の由来が記されている。
明治時代に作られた浄瑠璃義太夫節に「二月堂良弁杉の由来」があり、文楽、歌舞伎、浪曲で上演される。


東大寺二月堂

東大寺二月堂は、奈良市雑司町の東大寺境内北西側にある奈良時代創建の仏堂である。
旧暦二月に「お水取り(修二会)」が行われることから、この名がある。
寄棟造、本瓦葺きの壮大な二月堂は江戸初期の1667年に全焼し、現在の建物は1669年に再建されたものである。
2005年12月に国宝に指定されている。
本尊は、大観音、小観音と呼ばれる十一面観音像で、秘仏となっている。
石段を登って、二月堂の舞台から見る夕日の眺めはすばらしい。
正面に信貴生駒の連山を望むことが出来る。
舞台前の斜面には、二月堂良弁杉がある。
近鉄奈良駅から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車、徒歩15分。

お水取り(修二会)

お水取りは、正しくは修二会(修二月会)といい、インドの正月にあたる二月に仏の供養をしたことから、この名が生まれたという。
現在は、新暦により毎年3月1日から14日まで行われている。
二月堂の本尊である十一面観音に自らの過ちを懺悔して、天下泰平、万民豊楽を祈る法要である。
このお水取りは、奈良時代の僧、実忠が、752年から始めたもので、以来1200年以上にわたり一度も欠かさずに続けられている。
十一面悔過法要を行う11名の練行衆は、3月1日から二月堂下の参籠所に入り、正午から夜の0時まで毎日6回の「六時の行法」という荒行を行う。
その間、夜の行法に上堂する練行衆を導くのが、大松明である。
お水取りの行法が行われる12日の灯明は特に大きく、夜7時頃から二月堂の欄干で火の粉をふるう様は壮観で、
数多くの無病息災を願う人々がこの火の粉を求めて、欄干下に詰めかけている。
この12日の深夜(13日午前2時頃)には、若狭井から本尊に供える香水をくみあげる「お水取り」が行われる。



東大寺 三月堂 法華堂

東大寺 三月堂 法華堂は、奈良市にある。
法華堂(国宝)は、東大寺要録に天平5年(733)の創建と記され、東大寺に現存する最古の建物として知られる。
東大寺の寺域にはかつて金鐘寺(きんしょうじ)(金鍾寺(こんしゅじ))と呼ばれた寺院があった。
この金鐘寺は、聖武天皇の皇太子(基親王)の菩提を弔うために設けられた山房をもとに発展した寺院であると考えられており、
その後 福寿寺と併せて大和国分寺にあてられ、聖武天皇によりこの地に廬舎那仏が造立されると、これらの伽藍全体が東大寺と呼ばれるようになった。

三月堂(さんがつどう)は、東大寺法華堂(ほっけどう)の通称である。
不空羂索観音菩薩(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)像を本尊とすることから、古くは羂索堂と呼ばれた。
平安時代には、この堂で旧暦3月16日に法華会(ほっけえ)が恒例的に行われたため、法華堂、三月堂と称するようになった。

天平時代には寄棟造の正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接していたが、鎌倉時代に重源が大仏様を加味して、礼堂を入母屋造りに改築して融合させた建物である。
時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の採れた美しい姿を見せている。

堂内には10体の仏像が安置され、そのすべてが奈良時代に造られたもので国宝に指定されている。
須弥壇中央の八角二重の仏壇上に安置されている本尊 不空羂索観音菩薩像は、高さ362cmの乾漆像である。
乾漆像とは、木や粘土でおおよその形をつくり、その上に麻布を貼って漆で塗り固めたもので、粘土の場合は、粘土を抜いて木の枠を入れている。
羂索とは、もとは猟や戦闘に使うための投げ縄で、縄の一方に「かん」、もう一方に独鈷(とっこ)の先端がついており、その縄ですべての衆生を救うとされている。
三目八臂(さんもくはっぴ)(三つの目と八本の腕)の姿で、銀製宝冠をかぶっている。

本尊背後の厨子内には、執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)(像高170cm)が祀られている。
執金剛神とは、両端に鋩(きっさき)を作る金剛杵(こんごうしょ)(ヴァジュラ)という武器を持つ神の意である。
執金剛神は、常に釈尊に付き従い、非法の者があれば手にする金剛杵でこれを破砕する存在として経典に登場する。
秘仏のため、極彩色の文様が良く残り、毎年12月16日の良弁忌に開扉される。
開山 良弁僧正の念持仏で、天平5年(733)の作と伝えられ、天慶年間(938-947)の平将門の乱の際、元結の右端がハチとなって将門軍を悩ませたとの伝説がある。




東大寺 開山堂

東大寺 開山堂は、奈良市にある。
開山堂は、東大寺の初代別当で東大寺創建に尽力した良弁僧正(689-773)を祀る堂である。
木造良弁僧正坐像が安置されており、良弁堂とも呼ばれる。

良弁僧正が遷化した宝亀4年(773)から246年後の寛仁3年(1019)に初めて御忌法要が行われたことから、開山堂はそのときに創建され、僧正坐像も同時に造立されたと考えられている。
もとは、四方に回縁(まわりえん)を備えた方一間小堂であったが、建長2年(1250)に二月堂下の現在の場所に移築し、外陣が増築された。
現在の建物は、方三間の宝形造り、本瓦葺で国宝に指定されている。

良弁僧正坐像(像高92.4cm)は、如意を持って華厳の教えを説く壮年期の姿を写したとされ、がっしりとした体躯に気魄をみなぎらせた肖像彫刻の傑作で、国宝に指定されている。
秘仏とされ、良弁僧正の命日「良弁忌」である12月16日にのみ、開扉される。
良弁僧正の出身は、相模国あるいは近江国といわれ、少年の時にワシにさらわれて、東大寺境内のスギの木に運ばれたという、良弁杉の伝承が知られており、明治時代には浄瑠璃「二月堂良弁杉の由来」が作られた。




石山寺

石山寺は、滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院である。
747年に聖武天皇の勅願によって、良弁が開創したと伝えられている。
本堂(国宝)は、平安中期再建の内陣と、1602年に淀殿の寄進で増築された舞台造りの外陣からなる。
本尊の如意輪観世音菩薩は、安産、除厄、縁結、福徳の秘仏で、自然の岩盤そのものを削り整えた台座に安置されている。
この岩盤は、石山の名の由来である本堂前の硅灰石(天然記念物)と一体となっている。
東大門は、運慶、湛慶作の仁王像を配したもので、源頼朝が寄進したものである。
境内には、二重塔としては日本最古の優美な多宝塔(国宝)がある。
寺に伝わる石山寺縁起絵巻には、紫式部が参籠して、源氏物語を起筆したことが描かれている。
JR東海道本線石山駅下車、徒歩すぐの京阪石山駅から石山坂本線で3分、石山寺駅下車徒歩10分。




豊澤團平墓

豊澤團平墓は、和歌山県高野山奥の院中の橋北西にある。
中の橋西の市川団十郎墓所遠州掛川北條家供養塔に並んで、参道沿いにある。
墓所内東側には「浄瑠璃長久 初代豊澤團平墓」、西側には「二代目豊澤團平之墓」が建立されている。
豊澤團平(とよざわだんぺい)は、義太夫節の三味線演奏者である。
初代豊澤團平(1828-1898)は、本名 加古仁兵衛で、天保10年(1839)3世豊澤広助に入門し、豊澤力松、同丑之助を経て、弘化元年(1844)に2世豊澤広助が半年間名乗った幼名を継いで團平となった。
従って各種資料では、「2世豊澤團平」と記される。
慶応元年(1865)には文楽の芝居で三味線筆頭となり、1883年には文楽座の三味線紋下、翌年から彦六座の紋下を務めた。
文楽座では、2世竹本越路太夫(のち摂津大掾)、彦六座では3世竹本大隅太夫の三味線を弾き、明治文楽界を隆盛に導いた。
壺阪観音霊験記」「良弁杉(ろうべんすぎ)由来」「勧進帳」などの作曲も手がけ、新作や改作を数多く残している。
明治31年4月1日、「花上野誉石碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」志渡寺(しどうじ)の段の舞台で、脳溢血をおこし、没した。
二代目豊澤團平(1858-1921)は、本名 植畑九市で、初代の門弟となり、豊澤九市、5世源吉、4世仙左衛門(せんざえもん)を経て、明治40年(1907)に團平を襲名した。
間拍子(まびょうし)が良いことで知られ、堀江座や近松座に出演した後、東京へ移った。


芭蕉句碑

芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。

ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。
郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。
父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。
その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。
旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)

また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、
一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、
御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、
此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、
父母のしきりに恋し雉の声

芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。
俳句歳時記の解説では、雉について、次のように書かれている。
     雉子 きぎす
  日本の国鳥として書画にも多く描かれている鳥である。雄は羽の色彩が華麗で長い横縞のある美しい尾を持つ。雑木林や原野を生息地とするが、排卵中の雌はあまり飛び立たない。
 留鳥であるが、いかにも哀れ深い声で鳴くので、古くから春のものとされている。早春の野焼きのころに、雉の巣も焼かれることが多い。
 野鳥に共通する本能のため、子を守ってともに命を落とすことから、「焼野のきぎす」として、親の情愛の深さに例えられている。

芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)

      雉子塚の銘
ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。
おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。
雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太
     安永四乙未年十月十二日

この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)
良弁僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。
撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。

句碑の台石には、次のように刻されている。
  宿坊 
  金剛頂院

  南紀日高郡御坊邑
  鹽路沂風
     建之

この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村の塩路沂風によって建立された。
塩路沂風は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。
山内潤三氏の高野山詩歌句碑攷によると、芭蕉を崇敬してやまぬ弱冠24歳の塩路沂風が、芭蕉の八十回忌にあたり、高野山にこの芭蕉句碑を建立したという。

高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。

那賀町史の別章二「幕末・維新期の豪農文化人」によると、松尾芭蕉は二度高野山に登ったと伝えられている。
上記の貞享4年(1687)は二度目で、一度目は伊賀上野で二歳年長の藤堂主計良忠(蝉吟)に仕えたとき、
寛文六年(1666)4月、23歳の時主を失い、6月にその位牌を高野山報徳院に納めるにあたり使者をつとめたと言われる。(俳諧大辞典)

南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 其角句碑 高野山内の句碑





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