応其小学校 校外学習 → ふるさと橋本学

0 全コース関係
1 名古曽方面
2 小田方面 → 応其小学校 小田神社で神楽奉納
3 引の池方面
4 住吉神社方面
5 参考資料

0 全コース関係 

応其上人碑

応其上人碑は、和歌山県橋本市の応其小学校校庭にある。
応其(おうご)(1536-1608)は、戦国から安土桃山時代の真言宗の僧である。
諱(いみな)は、日斎、字(あざな)は、順良である。
通称、木食(もくじき)上人、興山(こうざん)上人、木食応其とよばれる。
近江国蒲生郡観音寺に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家し、穀物を断って木実果実のみを食し、13年にわたり木食苦行を積んだ。
天正13年(1585)、豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山を攻撃しようとした時、粉河の陣中に応其が参じて秀吉を説得し、その援助によって高野山を復興した。
豊臣秀吉が応其を深く信任して「高野の木食ではなく、木食の高野である」と称したことは、よく知られている。
高野山では客僧の身分であったが、新たに興山寺、青厳寺(せいがんじ)を建立した。
山上の堂宇は金剛峯寺金堂など25棟、近畿はじめ諸国の同宇79棟を再興修理したという。
戦(いくさ)の終結にも尽力し、島津氏の降伏、富田信高の津開城、京極高次の大津開城などで活躍したが、徳川家との関係は良好でなかったため、遺跡を弟子の勢誉に譲り、近江飯道寺に隠棲し、同地で没した。→ 応其上人ゆかりの地

明治22年(1889)の市町村合併において、名古曽、伏原、小田、浄土寺の4ケ村が合併して応其村となり、村の小学校を応其小学校とした。
その後、野口雨情が同校の校歌を作詞し、2番の歌詞には次のとおり応其上人が歌われている。
 応其小学校 校歌
一 葛城山の山風に はためく校旗つるかしわ
   至誠剛健旨として 我が学舎はここにあり
二 遠き昔をたずぬれば 木食応其上人の
   深き恵みの我が郷土 今に名残りの引の池
三 流れは清き紀の川の 空にまたたく星影や
   高野の山に照る月も 心を磨く鏡なり
四 知識の泉汲まんとて 共に手を取り朝夕に
   通う道辺の若草も 伸びなば花も咲き出でん

校庭北側にある応其上人碑は、昭和24年(1949)に建立されたもので、次のように刻されている。
(南面) 應其上人之碑
       高野山管長 大僧正 榮覺□書(?)
(北面) 昭和二十四年四月建之
     引池水利組合
        記念揚水 (以下略)

高野山管長は、393代座主の関栄覚大僧正である。

昭和30年(1955)、高野口町に応其村と信太村が合併して新「高野口町」が誕生するに伴い、「応其村」の名称が消えることとなったので、引の池の下にある浄土寺地区が「応其」と改称して、現在に至っている。



辻田新一郎翁頌徳碑

辻田新一郎翁頌徳碑は、和歌山県橋本市高野口町名古曽の応其小学校校庭にある。
辻田新一郎は、嘉永6年(1852)名古曽村に生まれ、明治22年(1889)応其村の初代村長に就任した。
大正元年(1911)から昭和5年(1925)にかけて、応其小学校の改築、増設に尽力した。


二等三角点 瓦田




1 名古曽方面

名古曽蛭子神社

名古曽蛭子神社は、和歌山県橋本市にある。
祭神は、事代主命(ことしろぬしのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)である。
当神社は約300年程前に創建されたと伝えられ、当時の紀の川は神社の西側の方角に薮の下を通って滝の井戸の奉公に流れていた。ある年に大洪水に遭い、祠が流されてしまった。
その後 西宮神社の蛭子様を勧請して祀られたが、当時は神仏混淆の時代で神社西北隅に西光寺(後典通寺に移された)があり、仏師彫刻の蛭子様の神像を御神体として祀ったといわれ、神像には梵字が彫られているという言い伝えがある。
現在の社殿は明治元年(1868)に造営され、紀北地方の「十日えびす」発祥の宮として崇敬されている。
境内にある神木の「蛭子三郎松」の樹齢は三百有余年にもおよび、格別の信仰対象となっている。
毎年1月9日(宵戎)、1月10日(本戎)、1月11日(残り戎)の3日間行われる「例大祭」は、「名古曽えびす」として県内外にも知られて多くの参拝者で賑わい、無病息災、家内安全、商売繁盛、開運の願い事を叶えてくれる「福の神」として親しまれている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩10分。参拝者用の駐車場がある。




瀧の井

瀧の井は、和歌山県橋本市高野口町にある。
伊都郡誌には、次のように記されている。
「大字名古曽(なぐす)字浦の段にあり。
清水盛に湧出し、附近の人飲料水に供する外、田畑に灌漑す。
この附近に瀧井寺と称する寺院あり。今北名古曽に移る。
昔は本堂の外三坊あり。本堂には薬師如来を安置せり。
高野山の葛城先達毎年此処にて七日間の水垢離をなして後復山する例なりしといふ。」
瀧の井戸は、昭和62年9月に和歌山県の紀の国名水として指定を受けている。





ババタレ坂

ババタレ坂は、和歌山県橋本市高野口町にある。
現地の案内板には、次のように記されている。

       ババタレ坂(高野街道・大和街道)
明治33年紀和鉄道(当時)高野口駅が開設されて以来、
高野山への本道として賑わい、多くの参詣客が徒歩や人力車で通ったところです。
高野山の杉材(成育九十九年毎)を九度山町入郷の営林署から
JR高野口駅まで牛馬によって運ぶ際に、駅手前の急な坂で牛馬がババ(糞)をしたために、
この先の天井川に架かる橋までが、「ババタレ坂」と呼ばれるようになりました。
                         高野口町




名古曽城館群 名倉城跡

名古曽城館群、名倉城跡は、和歌山県橋本市高野口町にある。
橋本市名古曽は、紀ノ川の北岸の洪積台地上(標高85m)に位置している。
台地上を紀ノ川の支流、旧田原川が南北に流れて扇状地を形成している。

(名古曽城館跡 高尾城跡)
この旧田原川の東には高野山の領域型荘園である官省府荘を管理する政所一族の有力荘官、高坊氏、塙坂(はねさか)氏、小田氏らの城館跡がある。
平成7年(1995)の塙坂氏館跡の発掘で、空堀や土塁のほか、4棟の建物群、中国製青磁椀の破片が発見されている。
小字上ノ段には、名古曽城跡の石碑があり、裏面には次のとおり刻されている。
「天文年間塙坂出雲守秀信その子小右衛門久幸此処に居住す
  紀伊続風土記畠山家譜 塙坂家由緒書に拠る
 昭和三十九年三月 塙坂治郎五郎 建之」

(名倉城跡)
旧田原川の西の名倉には、政所一族の亀岡氏の館跡や、守護勢が駐屯した名倉城跡がある。
JR高野口駅西側周辺の小字は、「城跡(しろあと)」と呼ばれ、周辺約2万㎡が名倉城跡とみられており、
段丘下の「殿(とう)の井戸」は城の附属施設と考えられている。
「多聞院日記」によると、永禄10年(1567)、紀伊守護畠山秋高(昭高)が、根来寺の連判衆ら約3千人の兵を連れて名倉城に入城している。

JR和歌山線高野口駅下車すぐ。





四條畷地蔵尊

四條畷地蔵尊は、和歌山県橋本市高野口町にある。
江戸時代後期、当地の浦之段阿弥陀寺は無住職となり、寺守りが歴代檀務の世話を継承してきた。
明治時代終り頃、八助が寺守りとして当地に住んでいたが、かつて行商先の河内四條畷河川敷で、
九死に一生を得る不思議な体験があり、その救い主が地蔵尊であることが、片時も忘れられなかった。
地元の人々の開運を思い、霊験に触れることを確信し、その後三度遷祀したが、昭和34年(1959)当地にこの地蔵尊を勧請した。
その後、子安開運の地蔵尊として地元の人々から尊崇されている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩5分。



2 小田方面


小田神社 

小田神社は、和歌山県橋本市高野口町小田にある神社である。
祭神は、饒速日命(にぎはやしのみこと)の十三世の孫である物之部建彦(武彦)命で、他に六神を祀る。
この神は、物之部尾興連公の弟神で小田連等の祖である。
醍醐天皇の延長五年(927年)に撰上された「延喜式神名帳」に、「小田神社」として記載されている式内社(紀伊国で三十一社、伊都地方では天野大社(丹生都比売神社)とともに二社)である。
また、平安時代末から鎌倉時代初期の編纂といわれる「紀伊国神名帳」には、「従五位上小田神」の名で神祇官の幣例に預かる官知神として、伊都郡内五社の中に列せられている。
その神域は四町四方(一町は109m)もあったと伝えられ、広大にして荘厳な神社であったが、数度の兵乱のため社殿や宝物を失い荒廃していた。
紀州徳川の藩祖頼宣公が天和年中(1681~1683)に旧境内本殿の跡に石の宝殿を建て「小田神社」の四文字を刻んで後世に伝えさせたと言われている。
(これが現在の御神体となっている。これによって「延喜式内社」の面目が作られ、寛政9年(1797年)江戸屋嘉平、万屋某という町人が御神燈を献納したり、高野山宝蔵院から「式内社方角案内」の額が奉納されたりしている。)
社名の「小田神社」は、地名に基づくものではなく、小田連公が大和からこの地に移り住み、その祖先である物之部建彦命を奉り祀りしことによる氏族名からつけられた名で、その建立は千四百年前と伝えられている。
江戸時代末に刊行された「紀伊名所図会」の「小田神社」の項に、次の二首が掲載されている。
 守ります 小田の御神の 恵みとも しらでやしづが をしねかるらむ (読人しらず)
 玉だれの をだの宮居は あれにけり 昔にかへす ますらをもがな (小田 牛雄)
「物之部」は、「モノノグ(兵器)」と「モノノフ(兵士)」を掌る氏族の名称で、古来から大伴氏とともに我が国の軍神として崇められてきた神である。明治維新後の小田神社は、高野口町大字小田の氏神として現在に至っている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩18分。




小田井用水 小田井堰

小田井用水は、和歌山県にある用水路で、小田井堰は、和歌山県橋本市にある。
小田井用水は、宝永年間(1704〜1711)伊都郡学文路村出身の大畑才蔵によって開削された紀州随一の用水路である。
伊都郡小田村(現在の橋本市高野口町)で、紀ノ川に井堰を設け、葛城山脈(和泉山脈)の山裾沿いに那賀郡今中村(現紀の川市)まで水路をうがって水を引いている。
紀伊国の穀倉地帯592haを潤し、全長28kmで、「南紀徳川史」や大畑才蔵が元禄9年(1696年)から約20年にわたって実践的に活動した時の記録である「在々御用日記」によると、工事は三期にわたり、一〇余年の歳月をかけて行われた。
第1期工事は、宝永4年(1707年)に着工、小田から那賀郡市場村(現紀の川市)まで21km余りの水路が開かれた。
工事には、延べ二十万余の人夫を動員した。宝永6年(1709年)には、井堰の延長が望まれ、市場から田中(現紀の川市打田町)までの、5kmに及ぶ工事がなされた。
工事に携わった人夫は延べ2万3千人余りであった。さらにこの後今中村までの工事が行われたが、詳しい記録は残っていない。
紀ノ川右岸の等高線を巡るように開削されたため、途中にいくつもの河川の谷間と交差する難工事となったが、渡井(とい)(水路橋)や伏越(ふせご)(サイホン)による立体交差で克服した。
その後、井堰は荒れたが、明治38年(1905年)に改修工事を起工し、昭和6年(1931年)に完成した。
小田井用水は、平成18年2月に農林水産省主催の「疏水百選」に認定された。
また、明治から大正時代にかけて改修された水路橋(龍之渡井(たつのとい)、小庭谷川渡井(こにわだにがわとい)、木積川渡井(こづみがわとい)とサイホン(中谷川水門)の4施設が、和歌山県内の土木構造物では初めて平成18年3月に登録有形文化財(文化庁)となった。
平成29年(2017年)には、小田井用水が「世界かんがい施設遺産」に登録された。同遺産は「国際かんがい排水委員会」(本部・インド)が2014年に創設した。
歴史的、社会的に価値のあるかんがい施設の顕彰や保全を目的としており、これまでに8か国47施設(日本国内27カ所)が登録されている。
小田井堰へは、JR和歌山線高野口駅下車、徒歩19分。







清凉寺 

清凉寺は、和歌山県橋本市にある寺院である。
山号は、嵯峨山で、本尊は薬師如来である。
寺伝によれば、弘仁年間(810〜823)に弘法大師空海によって開創され、創建時の本尊は嵯峨天皇と弘法大師空海の合作と伝えられている。
延宝5年(1677年)に大畑才蔵が記した「学文路組指出帳」や江戸後期に紀州藩が編纂した「紀伊続風土記」にも同様の開創伝承が記され、当時は伊都郡内でも数少ない京都仁和寺の末寺であった。
前出の記録類には、清凉寺が七堂伽藍を備え、寺内に十二坊を有する大寺であった旨の記述がある。
伽藍とは、別の記録には本堂以外に楼門の南門を中心に四方の門、多宝塔、不動堂、釈迦堂、観音堂、経堂、境内社等がみえる。
慈尊院が高野参詣道の表玄関口として栄えた頃には、清凉寺は慈尊院に並んで参詣者を宿泊させる施設があったものとみられる。
この名残は、南北朝以来の通称とみられるが、慈尊院の「女人高野」に対し、清凉寺は「口の高野」と称された伝承がある。
慈尊院の本尊弥勒菩薩に対し、清凉寺の本尊薬師如来は、西の未来仏に対し、東の過去仏といった位置関係にあることも、これらの関係を暗示している。
応永元年〜三年(1394年〜96年)の当地域である官省符荘の土地調査である「検注帳」に登場する「佐賀(サガ)御堂」や「薬師堂」とあるのが清凉寺とみられ、当時地域の有力寺院であった。
以降、火災に遭ったり、寺領の退転があって近世初頭には、現在のような境内になっていたと思われる。そうした中、万治年間(1650〜60)に仁和寺の宮門跡から山号、寺号、院号等の令旨が清凉寺に与えられていた記録がある。
境内社の八坂神社は元来、祇園神社と称し、本地垂迹説に基づいて、本尊薬師如来を本地とし、垂迹した牛頭天王(須佐之男命)を祭祀している。
清凉寺の南西に「祇園神木一本木」があって、境内社の御旅所となっていた。
近世の記録類には、清凉寺の境内に隣接した東の長方形の微高地を「嵯峨の段」とあるのが、往時の本堂跡と思われる。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩20分。








イヌマキ[百科マルチメディア]

互生する葉の先は鈍くとがり、扁平(へんぺい)な線形または披針(ひしん)形。庭園、公園などに広く植栽され、生け垣や防風樹としてもよく用いられる。別名マキ、クサマキ

ヤドリギ

ヤドリギ科(APG分類:ビャクダン科)の常緑小低木。ホヤ(寄生)、トビヅタ(飛蔦)ともいう。ケヤキ、エノキ、サクラ、ミズナラその他の落葉広葉樹の樹上に寄生し、このためヤドリギの名がある。よく枝分れして径40~60センチメートルの球形になる。枝は緑色で二又から三又状に多数分枝し、関節があり、乾くとばらばらになる。葉は枝先に対生し、柄がなく、倒披針 (とうひしん) 形で長さ3~6センチメートル。先はやや丸く、革質で厚く、濃緑色で光沢がない。雌雄異株。2~3月、枝先の葉の間に淡黄色の小花を通常3個ずつ頂生して開く。花被 (かひ) は鐘形で4裂し、質が厚い。雄花の雄しべは花糸がなく、葯 (やく) は花被裂片につく。雌花には雌しべが1本ある。果実は球形、径約6ミリメートルの液果で、淡黄色の半透明に熟す。果肉は粘りが強く、鳥類によって他樹に運ばれ、粘着して発芽する。北海道から九州、および朝鮮半島、中国に分布する。

 品種のアカミヤドリギは果実が橙黄 (とうこう) 色に熟し、母種のセイヨウヤドリギはヤドリギに似るが、果実は白く熟す。セイヨウヤドリギはヨーロッパからアジア北西部に分布し、ヨーロッパブナ、ポプラなどのほか、果樹のリンゴにも寄生して被害を与える。イギリスではクリスマスのときに果実のついた枝葉を飾りに使う。

 なお、ヤドリギに似た生態を示すもので日本に自生する植物には、ほかにオオバヤドリギ、マツグミ、ホザキヤドリギ、ヒノキバヤドリギがある。



金龍山 極楽寺跡

金龍山 極楽寺跡 厄除観音 三大明神は、和歌山県橋本市にある。
当地の案内板には、次のように記されている。

極楽寺跡
当地に山号を金龍山 院号を伝法院と称する極楽寺があった。
 昭和期まで残存していた本堂は二〇坪で、本尊は阿弥陀如来であった。
極楽寺の創建は不詳だが、応永元年~三年(一三九四~六)の官省符荘の土地調査である『検注帳』に、「小田阿弥陀堂」と記されており、この頃には村堂として存在したことは確かである。
また、「清凉寺伽藍絵図」にも、清凉寺北方に阿弥陀堂が描かれている。
 大畑才蔵の『学文路組指出帳控』(延宝五年一六七七)には、極楽寺は慈尊院の末寺と記され、その北にあった安養寺は、極楽寺の末寺とある。地域で、当寺が「中の寺」と通称されているのは、小田で三ケ寺の中にあったためである。
 天保十年(一八三九)に完成した『紀伊続風土記』によれば、極楽寺は京都勧修寺の末寺とある。本来旧官省符荘内の寺院は、慈尊院の末寺であるのが原則であったが、江戸期には寺領と藩領に分かれたこともあって、年代を経ると次第に慈尊院との関係が希薄となっていた。
 宝暦二年(一七五二)に紀州藩からの要請があって当時の紀州藩主の正室の実家の伏見宮家と繋がりのあった勧修寺の末寺となったのである。当寺で特筆すべき事は、江戸後期に小田神社の燈明を管理していたことである。
 これは本来、小田神社の神宮寺であったと思われる安養寺の任務であったのだが、安養寺が退転したため極楽寺の任務となったのであろう。





普門院

普門院観音寺は、和歌山県橋本市高野口町伏原にある古義真言宗高野派の寺院である。
山号は、法華山である。
本尊は十一面観世音菩薩で、行基菩薩作という。
法華山縁起巻物によると、飛鳥時代、推古天皇の頃、斑鳩宮殿で休んでいた聖徳太子が、ある夜偶然この地に十一面観音の仏霊が現れた夢を見て、普門院に来られて役人に命じて堂宇を草創した。
白石上の閻浮檀金一寸八分の尊像を安置し、金字の法華経一部を書き写して埋納したといわれる。そのため内方一町許国家擁護の霊城とされ法華山と号された。
その後衰退したが、聖武天皇の天平10年(738年)、行基菩薩が諸国遍歴修行の道すがら、この寺に立ち寄り、長さ1尺2寸の像を彫刻し、浄財を寄せて8間の仏堂を建てられたと伝えられている。
大師堂には、本尊として42歳の時の弘法大師像が祀られ、脇仏として不動明王像2体、普賢延命菩薩像、大日如来座像が安置されている。
境内には、大神社も祀られている。
南海電車高野線学文路駅下車、徒歩15分。





3 引の池方面

引の池応其上人五輪塔

引の池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市高野口町にある。
引の池は、高野口町応其の西北にある橋本市最大のため池である。
天正17年(1589年)に応其上人の主導によって築造され、現在も応其、伏原、名古曽一帯を灌漑している。
堤高13.5m、堤長187m、総貯水量19万㎥、満水面積は6haである。
引の池の名の由来は、もとあった「鐘の樋池」が潰れたため、新たに手前に引き寄せてつくった池なので「引の池」と呼ぶことにしたといわれる。
上池の西側土手を登ったところに応其上人の五輪塔がある。
一番下の地輪には、次のように記されている。
 (正面) 天正十八年 木食興山上人 九月廿一日
 (側面) 施主四ケ村 奉為息災謝 奉行西山勝家
西側には、寛政四年(1792年)建立の法華経一字一石がある。





応其太神社

応其太神社(おうごたいじんじゃ)は、和歌山県橋本市高野口町応其にある神社である。
主祭神は、天照大神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)の三神で、厳島大神(市杵島比売命)、桜木大神を配祀する。
当神社の創設年月日は明らかではないが、応其三社太神社ともいわれ、鳥居の扁額にも記されている。
境内から出土した土器片や布目瓦等から、平安時代に起源があるものともいわれる。
境内拝殿南には、梛(なぎ)の木雌雄の二本があり、明和8年(1771)と記された石燈篭一対がある。
昭和57年(1982)正遷宮によって本殿拝殿の改築、境内地の整備が行われ、遷宮を記念して、御遷宮実行委員会とどんぐり子供会が、拝殿地下にタイムカプセルを埋蔵し、西暦2042年10月2日に開封することになっている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩15分。







もと平山城

平山城は、和歌山県橋本市高野口町応其にあった。
織田信長の「高野攻め」を記した「高野春秋」に、天正9年(1581)「名楠臺附城」に、織田信長の家臣 松山新介が布陣した、との記載がある。
これは高野口町名古曽の東にある平山城を指したものと考えられる。
しかし、該当場所一帯は、1970年代に宅地開発されて平山城団地となり、1980年頃には、土塁遺構とみられる盛土が見られたというが、現在では残っていない。




名古曽廃寺跡

名古曽廃寺(なこそはいじ)跡は、和歌山県橋本市にある和歌山県指定史跡である。
そこには「護摩石(ごまいし)」と呼ばれる大きな石が残されている。
かつて、祈親(きしん)上人が、この場所で護摩を修したとの言い伝えによりこの名がある。
この石は、長さ223cm、幅133cmで、中央に直径44cmの心柱をうける孔があり、さらにその中に仏舎利をおさめる孔がある。
これは、古代寺院の塔の心柱をすえる心礎と呼ばれる礎石で、平成元年度の発掘調査によって、一辺が約9mの規模を持つ塔跡であることが確認された。
平成2年度の発掘調査によって、塔跡の西側から東西約15m、南北約12mの規模の金堂跡が確認された。
これにより東に塔、西に金堂を配置する法起寺式伽藍配置であったことが明らかになった。
こうした発掘調査に基づき、現地に基壇や礎石が復元され、史跡公園として整備されている。



史跡 一里松

和歌山城の京橋から10里目の松が植えられていた。
昔から、「10里四方ところ払い」といい、罪人はここで解き放たれた。
陸奥宗光の家族もところ払いとなった。
松は、戦時中に伐採され、新しい松が植えられている。

名古曽墳墓

名古曽廃寺跡の北東約200mにある一里山の丘陵地(名古曽墳墓)は、県史跡に指定されている。
昭和38年(1963年)10月13日、高さ23.1cm・幅27.6cmの三彩骨蔵器(国の重要文化財)が、滑石製石櫃(いしびつ)に収められた状態で出土した。発掘者は、名古曽の梅谷博男氏である。
奈良時代の典型的な薬壺形骨蔵器であり、蓋、身ともに緑、白、褐(かち)の三色の釉がかけられている。
全体に褐色が強いのは胎土に鉄分を含んだあらい土を使い、さらに一般の緑釉陶器等より高温で焼き上げられたからである。
形は中ふくらみの豊満の形で、色彩、光沢の鮮明さと大きさから奈良三彩の一品とされ、わが国考古学・陶芸史上貴重な存在である。
埋納土坑の須恵器から8世紀後半に成人男子火葬骨を葬ったものと考えられている。
実物は、京都国立博物館で保管され、橋本市産業文化会館にレプリカが展示されている。
出土地址には、石碑が建てられている。






和歌山県立伊都中央高等学校

和歌山市橋本市にある単位制の昼間・夜間定時制、通信制高校である。
2015年4月に伊都高等学校(1922年設立)と紀の川高等学校(1967年設立)を統合して開校した。
校舎には、「祝世界選手権金メダル スケートボード 四十住さくら」の懸垂幕がかけられている。
四十住さくら(2002年3月15日生まれ)は、岩出市在住の通信制の生徒で、2018年11月南京で開催された世界選手権で金メダルを獲得し、
2020年東京オリンピックでは、スケートボード女子ストーリート競技で金メダルを獲得し初代女王となった。



条里制の遺構

条里制は、日本において古代から中世後期にかけて行われた土地区画制度である。
条理の基本単位は約109m四方の正方形である。
古代日本では約109mは、1町(60歩)にあたり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれた。
この1町四方からなる基本単位を「坪」(現在の坪と異なる)と呼び、36坪を1里と呼んだ。
応其平野に、区画された跡や、「住吉坪」「市坪」「八の坪」などの地名が残っている。
条里制跡には、1町ごとに用水路が南北に紀ノ川まで通されており、引の池の用水を利用している。
伊都中央高校の敷地の東西距離は2町、応其小学校の敷地の東西距離は1町である。


4 住吉神社方面

住吉神社(住吉大明神)

住吉神社(住吉大神宮)は、和歌山県橋本市高野口町名古曽にある。
祭神は、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと) 他二神である。
社伝によると、天正10年(1582)織田信長の高野攻めの時に、織田方の武将 松山庄五郎(松山新介重治)が、名古曽城に在陣の時、戦勝を祈願して、堺の住吉神を当地に勧請したものである。
社殿は、住吉造りの形式を具えている。
紀伊続風土記の北名古曽村の項に、次のように記されている。
 住吉大明神社 境内周五十八間
  天照皇大神 春日大明神 相殿
  末社 神功皇后社 辨財天社
  村の北にあり境内に古木多く舊社と見えたり
拝殿南側には、小北稲荷明神、天満宮、金刀比羅宮が祀られている。
大祭は7月31日で、宵宮とあわせて多くの参拝者が訪れる。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩10分。




瀧井寺

不老山瀧井寺は、和歌山県橋本市高野口町にある。
境内には、「弘法大師不老水 瀧井之跡」の石碑が建てられ、次の説明文がある。
   不老の瀧井旧蹟
 弘法大師、高野山開創の砌、八町四方の伽藍でありし名古曽廃寺に錫を留め万民の浄福を祈りて、
薬師如来の実像を刻み、身とこころの病患を癒やす不老の浄楽を残せりと伝う。

本堂前には「瀧井寺再建の疏」の石碑があり、次のように刻されている。
 不老山瀧井寺は、弘法大師高野山開創の砌、錫を名古曽廃寺に留め、
佛縁深きこの地に不老の清水のあることを教え、薬師如来の霊像を刻みて、
住民の長寿と平安浄福を祈りし霊蹟なり。
長徳4年(998年)祈親上人定誉四十二歳の時、この地を尋ね厄除けの護摩を修せし文献と共に、
その霊験は長く伝承され来るも天災兵乱の災禍により当時の面影を偲ぶに由なく、
一宇を残せしも、明治維新の廃佛棄釈(毀釈)の法難により無住となる。
爾来幾度か修復を重ね護持に尽力し来れるも、荒廃の度ついに改修の及ぶ能わざるところとなりけり。
 この度、先祖菩提、子孫浄福、郷土発展を憶念せし檀徒の熱願が熟し、
本堂並びに庫裡再建の浄業を達成するに至る。佛天の冥護、期して待つべきものあり。
 ここに、再建の素懐を誌し、御寄進功徳主の法名を刻み、霊蹟の永く伝えるものなり。 合掌
     昭和六十三年三月吉祥日
                              瀧井寺兼務住職 大僧正 谷本 嘉隆

本堂には、瀧井寺御詠歌の額が奉納されている。
 本尊薬師如来
 苦しみを あだにはなせじ 滝の井の すめる心ろの うつる月かげ





5 参考資料


新高野街道

明治大正期の高野参詣客は、高野口駅から、椎出、神谷の新高野街道を経て、高野山までお参りしていた。
宿場跡 清水館 守内館などが残されている。

紀北冷蔵跡
文化4年(1807)から昭和28年(1953)まで、葛城凍豆腐(天然凍豆腐)が生産されていた。
紀北冷蔵は、葛城峯での天然凍豆腐生産が終了した後も、人工冷凍で豆腐生産を続けた。

伏原村
ふしわらむら
[現]高野口町伏原

紀ノ川中流域右岸の低位洪積台地上にある。東は神野々このの(現橋本市)、西は名古曾なごそ・小田おだの諸村。村名について「続風土記」は「ふしはふし柴のふしにて柴ふし原の義なり、其地古荒野にて柴原なりしを開発せし故に此名あり」と記す。建永二年(一二〇七)三月日の僧勢得田地充文(続宝簡集)に「高野政所河北方不死村」とみえるのが当地と思われる。応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)に「不死原村」とみえ、当時の田数は三八町二九〇歩で分米一二〇・〇九六石、畠数五町八反二三〇歩で分麦八・一二五五石、在家八宇で下地七反一〇歩、高野山領官省符かんしようふ庄上方に属する村であった。

慶長検地高目録によれば一千二二二石余で、小物成〇・六四二石。その後三村に分村、延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)によると田畑四三町二反余で高六四七石余、小物成は桑・茶・紙木で七斗五升五合、家数六七(本役二七・半役一九・無役二一)、人数五三二、馬二、牛二五、渡船一。幕末期には家数は一〇二軒と増加、人数は四五七人と減少し(続風土記)、中組に属した。社寺として「続風土記」は真言宗の観音かんのん寺を記す。なお近くの浄土真宗本願寺派大光だいこう寺には樹齢三〇〇年ともいわれる黒松があり、樹高二五メートル余、周囲一・七メートルで「しぐれの松」とよばれている(県指定天然記念物)。

名古曾村
なごそむら
[現]高野口町名古曾

紀ノ川中流域の右岸、低位洪積台地上にある。西は名倉なぐら村、北は田原たわら村。古くは「なぐす」とよばれた(続風土記)。永承四年(一〇四九)一二月二八日の太政官符案(又続宝簡集)に「応以金剛峯寺領田相博寺家政所前田并荒野永免除租税官物雑役事」として「長杜村見作田拾陸町壱段弐佰捌拾歩」とみえる「長杜村」は当地をさすとの説がある。康元二年(一二五七)の僧随円田地売券(続宝簡集)に

謹辞 売渡水田事
合壱段者
在字紀伊国伊都郡高野政所
河北那古曾村橘本
四至
限東木三郎太夫作 限南惣行事作
限西大道     限北仏阿弥陀仏地定
右、件田地、元者僧随円房相伝私領也、而今依有要用、乃米什石ニ、限永代、本券四通相具、幸千房ニ売渡事実也、仍為後日ノ証文、放新券文状如件
 康元二年


三月廿日      領随円(花押)
とみえ、僧随円相伝の私領である那古曾村橘本たちばなもとの水田一段が幸千房に売渡されている。応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)によると、当時の那古曾村の田数は三三町二反三三〇歩、畠数五町九反二一〇歩、在家三宇であった。

慶長検地高目録では村高九八四石余、小物成五斗七升七合。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)では南名古曾みなみなごそ村・北名古曾村の二村に分け記載される。南名古曾村は田畑四七町五反余、高七〇五石余、小物成は紙・茶・紙木・漆で一・六九二石、家数五九(本役一九・半役一四など)、人数三三六、池二(引之池・三坪池)。北名古曾村は田畑二〇町八反余、高二八〇・二二七石、小物成は桑・茶・紙木・漆で五斗二升一合、家数二七(本役六・半役六など)、人数一五七、池二(引之池・地智間池)。江戸時代末期には家数は南名古曾村が八一軒、北名古曾村が三三軒と増加し(続風土記)、中組に属した。

「続風土記」は南名古曾の社寺として小祠二(衣比須社・八幡宮)、典通てんつう寺・阿弥陀あみだ寺(真言宗山階派)・都卒とそつ院、また北名古曾には住吉大明神社、滝井たきい寺(真言宗山階派)・護摩堂を記す。滝井寺は「葛城先達の行所なり」とある。

小田村
おだむら
[現]高野口町小田・向島むこうじま

紀ノ川中流域右岸の低位洪積台地に位置する。東は伏原ふしわら村、北は南名古曾みなみなごそ村。正応二年(一二八九)一二月日の比丘尼法阿弥陀仏御影堂田畠寄進状(続宝簡集)に「在金剛峯寺領河北方小田村字義細原」とみえる。高野山領官省符かんしようふ庄上方に属し、応永三年(一三九六)五月日の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)によると、当時の田数は一七町三五〇歩、畠数は五町七反二六〇歩、在家一七宇(下地九反一四〇歩)であった。

慶長検地高目録によれば村高五八〇石余、小物成一・〇六四石。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)によると、田畑三七町余、高五八二石余、小物成は桑・茶・紙木で七斗八升、家数一〇七(本役四四・半役二〇など)、人数五三八、馬一、牛三五、池一(引之池)、渡船一。幕末期には家数は一二九と増加し(続風土記)、中組に属した。宝永年間(一七〇四―一一)大畑才蔵によって開削された小田井の取水口小田井堰は当村にある(→小田井用水)。「続風土記」は村内の社寺として、小田神社、小祠三(大神宮・稲荷社など)、極楽ごくらく寺・清涼せいりよう寺(高野山真言宗)、真言宗古義安養あんによう寺を記す。

高野口町
こうやぐちちよう
面積:二〇・〇八平方キロ

紀ノ川中流域右岸の和泉山脈の南斜面に位置し、北は大阪府、東は橋本市、西はかつらぎ町、南は紀ノ川を挟んで九度山くどやま町。九度山町北西部に飛地がある。町の南部を紀ノ川に沿うように国道二四号、国鉄和歌山線が東西に通る。霊場高野山への登山口として高野山有料道路への道が出ている。農林業が主産業だが、併せて織物業が盛んである。この織物業は江戸時代奨励された綿織物が発展したもので、明治初期に九重くじゆう出身の前田安助が織り方・柄などに改良を加え、当地はこの地方の織物の一大中心地となった。しかし明治末期には和歌山市を中心とする綿ネル生産技術の発展にたち遅れ、当地の綿ネル業はモール織を主とする再織に転換した。大正後期には新たにパイル織物の一種、シール織が始められ、技術の改革や内外の需要によって各種の製品が作られるようになり、現在に及んでいる。製品には内地合繊シール、モケットベロア、輸出綿シール、メリヤスシールなどがある。

明治二二年(一八八九)町村制施行によって名倉なぐら村など四村が成立。同四三年名倉村が町制を施行して高野口町となる。昭和三〇年(一九五五)高野口町・応其おうご村・信太しのだ村が合併して高野口町となった。

浄土寺村
じようどじむら
[現]高野口町応其おうご

紀ノ川中流域右岸にあり、南は伏原ふしわら村。北部山中に木食応其によって築造された引ひきノ池がある。「続風土記」は「浄土寺の名詳ならす、村中に蓮華寺あり、浄土寺は廃寺か又は蓮華寺の旧名か今伝ふる所なし」と記す。中世は高野山領官省符かんしようふ庄上方に属した地であった。慶長検地高目録には村名はみえず、伏原村に含まれていたと思われる。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)によると、田畑一七町一反余、高二〇一石余、小物成は桑・茶・紙木・漆で六斗七升七合五勺、家数二七(本役一〇・無役一七)、人数一八三、牛五。幕末には人数一三三と減少し(続風土記)、中組に属した。真言宗山階派蓮華れんげ寺がある。

紀ノ川
きのかわ

和歌山県北部、和泉 (いずみ) 山脈南麓 (なんろく) の中央構造線に沿って、ほぼ直線状に西流して和歌山市で紀伊水道に入る川。紀伊国第一の川なので紀ノ川という。一級河川。上流は奈良県の大台ヶ原山(1695メートル)に発する吉野川で、和歌山県に入ってから紀ノ川とよぶが、河川法では全体を紀ノ川とする。延長136キロメートル(和歌山県内55キロメートル)、流域面積1750平方キロメートル。なお猿谷 (さるたに) ダムによる十津川 (とつかわ) 上流の流域変更分を加えれば2113平方キロメートルとなる。流域の大部分は山地であるが、河口の和歌山平野は県内最大で、県内の流域人口は県人口の55%に及ぶ。上流吉野川は峡谷の様相を示すが、中流粉河 (こかわ) までの北岸には洪積段丘が、下流には複合扇状地がみられ、河口三角州の発達は顕著ではないが、流路変遷を思わせる和歌川、土入 (どにゅう) 川、水軒 (すいけん) 川などの旧河道が浜堤の内側に残る。流量変化が著しく、大迫 (おおさこ) 、大滝 (おおたき) のダムが上流につくられている。吉野材の流送、高野山 (こうやさん) への貢米輸送、橋本塩市への三葛 (みかづら) 塩の運送など水運の歴史は古く、河口の男之水門(雄湊) (おのみなと) や鎌垣 (かまがき) 船の記録もあり、近世には川上船が往来して船戸、粉河、麻生津 (おおづ) 、九度山 (くどやま) 、橋本、五條 (ごじょう) などの河港や城下町若山湊 (みなと) が発展した。明治まで架橋が許されなかったため、高野、熊野、上方 (かみがた) の各街道の渡津もにぎわった。水運は和歌山線の開通とともに衰え、河港は鉄道駅の在町に変わった。水運だけでなく農業用水の利用も多い。江戸初期の篤農大畑才蔵(『地方 (じかた) の聞書 (ききがき) 』の著者)による藤崎 (ふじさき) 、小田 (おだ) の井堰 (いせき) 築造など多くの井堰によって流域の開田が進んだ。現在では奈良盆地へも分水している。上水や工業用水の利用も広がっている。

和泉山脈
いずみさんみゃく

大阪府・和歌山県境に東西に連なる延長約50キロメートルの山脈。東は金剛 (こんごう) 山地と境する紀見 (きみ) 峠に始まり、主峰の岩湧 (いわわき) 山(897メートル)、三国山(886メートル)、葛城 (かつらぎ) 山(858メートル)などの山々が続き、西に行くにしたがって低くなり、紀淡 (きたん) 海峡に至る。地層は中生代白亜紀の和泉砂岩層で、礫岩 (れきがん) 、砂岩、頁岩 (けつがん) の互層からなる。山頂は隆起準平原の平坦 (へいたん) 面を残して高原状をなし、展望に恵まれ、東部は金剛生駒紀泉 (こんごういこまきせん) 国定公園に編入され、観光開発が進んでいる。山脈の南斜面は断層崖 (がい) で、紀ノ川に沿う中央構造線に該当する。北斜面はなだらかだが、2列の前山列があり、山深い地形をなす。そのため中世修験道 (しゅげんどう) の霊場に選ばれ、岩湧寺、七宝滝寺 (しっぽうりゅうじ) などの建立をみた。山脈を横断する交通線は峠道を利用し、紀見峠を南海電鉄高野 (こうや) 線、山中峠をJR阪和線、孝子 (きょうし) 峠を南海電鉄南海本線が通る。産物に杉、松などの森林資源のほか、山麓 (さんろく) ではミカンの栽培が盛ん。また和泉砂岩は碑石など石材に用いられる。

神楽
かぐら

神楽(歌舞)
神前で神をまつるために演じられる神事芸能で,奏楽,唱歌,舞踊,演劇などさまざまな芸態がある。〈かぐら〉というよみ方については,神座(かむくら)の音韻転化とする説(折口信夫)が定説化している。神楽の字の用例は《万葉集》の諸歌に〈神楽波(ささなみ)の滋賀〉などとあり,〈ささ〉とよむこともあった。これには鎮魂の呪具たる採物(とりもの)の笹の葉ずれの音(本居宣長)とか,鈴の音(本田安次)などの説があるが,神事芸能を内容とする初見は807年(大同2)撰の《古語拾遺》の〈猨女(さるめ)君氏,供神楽之事〉である。しかし神楽の文字が使われ出すのは石清水(いわしみず)八幡宮の初卯の神楽や,賀茂神社臨時祭の還立(かえりだち)の神楽のように9世紀末から10世紀初頭にかけてである。宮中では先行神事芸能としての琴歌神宴が行われており,10世紀に入って御遊(ぎよゆう)ないし御神楽(みかぐら)が清暑堂において行われ,1002年(長保4)に内侍所(ないしどころ)御神楽が成立した。この宮中における神楽については〈御神楽〉の項目を参照されたい。

 神楽は本質的には招魂の鎮魂(たましずめ)作法であり,歌舞を演ずる楽(あそび)の形式をとった。神遊(かみあそび)の歌(《古今集》)の用例もあり神楽を〈かみあそび〉(《神楽歌考》)と呼んだ可能性もある。招魂思想には天の岩屋戸(あまのいわやど)神話の天鈿女命(あめのうずめのみこと)の作法(わざ)を唱導した猿女氏のもの,平安以降宮中鎮魂祭の主体となった天饒速日命(あめのにぎはやびのみこと)の降臨神話による物部氏のもの,神功皇后の新羅攻めの説話にちなむ阿度部磯良(あどべのいそら)の安曇(あずみ)氏のものなどがあるが,内侍所御神楽の基本となったのは石清水八幡宮を経た八幡系の安曇氏の鎮魂作法だったようである。
→神楽歌

里神楽
御神楽以外の民間の神楽を里神楽と総称するが,別して江戸で発達した神楽を1874年(明治7)から郷(里)神楽と呼ぶようになった。民間の神楽は全国津々浦々に散在し,おびただしい数にのぼる。そしてあたかも猿(猨)女君氏の唱導であるかのように岩戸神楽や神代神楽の名を冠するものが多い。しかしなお民間の神楽には踏鎮めによる悪霊の鎮魂作法をもつ修験道の参画をみたものが少なくない。こうして民間の神楽は複雑になり,西角井正慶,本田安次,三隅治雄らによってそれぞれ分類法が示された。それらを統合して考えると,巫女神楽,採物神楽,能神楽,湯立神楽,獅子神楽に大別されよう。

 (1)巫女は舞による神懸りで託宣に及ぶもので,天鈿女命にその原型を見るが,今日の巫女舞は静かで優雅な舞が多い。春日大社の社伝の神楽,美保神社の朝神楽・夕神楽の巫女舞などが代表的なものである。(2)採物神楽と能神楽は対になっている場合が多く,その最も古い典型が出雲の佐陀(さだ)神社の七座の神事と神能(佐陀神能)で,この形式のものを出雲流と呼び,中世末から近世初頭の初発である。この流派が最も広く分布しているが,高千穂神楽では採物神楽に傾き,江戸の里神楽では神話のことごとくを黙劇に仕組むというように能に傾いている。(3)湯立神楽は神聖な湯花に触れて祝福を得ようとするもので,伊勢神宮外宮(げくう)の御師(おし)と呼ぶ外勤神職団によって広められ,伊勢流と呼ばれているが,今は伊勢になく,秋田県横手市の保呂羽山波宇志別神社の霜月神楽や愛知県の花祭などに残されている。湯釜をすえて神々を勧請(かんじよう)し,数々の潔(きよ)めの舞を舞い,ときには見物人に湯花を振りかけるのである。(4)獅子神楽は獅子頭(ししがしら)を権現(神の仮託した姿)とあがめ,潔め鎮(しず)めの獅子舞を舞わせたのち,数々の余興を演ずる。岩手県の山伏神楽などでは能楽大成以前と目されるような古風な能舞や狂言を演じ,伊勢大神楽などのいわゆる太(だい)神楽では散楽系の曲芸や滑稽を演じてみせる。太々(だいだい)神楽,代々神楽の名称には規模の大きさ,美称,代参(信者講中の参加者による)などさまざまな意味が含まれている。

 神楽人は本来神職が演じることが多かったが,明治維新以後は在来の神事舞太夫の列に加わって民間人が演じているところが多い。神楽の舞台は拝殿,神楽殿などのほか仮設の舞台,民家の座敷・土間などさまざまであるが,出雲流の岡山県の備中神楽や広島県の備後神楽では神殿(こうどの)と呼ぶ特設の舞処を設け,天蓋(てんがい)飾をつける。天蓋飾は高千穂神楽や花祭にも顕著で,陰陽道,修験道の影響を色濃く宿している。


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