阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
(裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺
かつらぎ主宰 阿波野青畝
昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山金剛峯寺境内(現在の幡龍庭)に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。
阿波野青畝本人は、「俳句のよろこび」(平成3年刊)の『Ⅰ実作の周辺』で、この俳句について次のように記している。
(前略)では私の経験を思い出してみましょう。
牡丹百二百三百門一つ
はじめに私は高野の金剛峯寺に参詣して内庭の広さが牡丹畑で埋まっている見事さに胸がおどりました。
牡丹が多いことを述べねばならんと覚悟しましたが、それをくだくだ説明しないように単純に単純にと頭を使いました。
そこで律動つまりリズムを「百二百三百」と増やしました。誠に無造作、それが嬉しかったのです。
締め括るために門一つと置きました。黒塗の門が区切られてあったからです。
牡丹の集団が実に華やかに浮き出たのもリズムが乗っているからです。(後略)
「俳句のよろこび」の「自解二十六句」には、次の記事も掲載されている。
牡丹百二百三百門一つ
今月の牡丹の句は、すべて高野の牡丹を詠んだのである。
金剛峯寺の主催で五月二十四日、牡丹の見頃を期して俳句大会をやった。ご西下の虚子先生をはじめ数百名も四方から集まってきた。
前日から高野に登ってきた私は、総本山のいかめしい玄関の式台から上り、左へ折れて狩野派の絵襖をながめて行った。
殺生関白とあだ名をつけられた豊臣秀次が福島正則(注 木食応其)にすすめられて自害したという柳の間の前を通って、それから長い渡廊をつたうて足をすすめると奥殿があった。
また廊づたいに別殿があった。
奥殿の縁側から広い牡丹園が展(ひら)けた。そして別殿はさながら牡丹園のまん中に坐したようだった。虚子先生のおやすみどころであった。
長谷や当麻より二十日ほど遅れた高野の牡丹は、ここに妍をきそうて咲き、清澄な環境にあるためか、遠方にある花も際立って浮き出していた。
「千株の金剛峯寺の牡丹かな」「千株の牡丹に百の巌かな」と虚子先生も詠まれたごとく、見はらしのひろいお庭を錦にして紅白入りみだれた盛観であった。
唐獅子の乱舞を古人は想念したことも、宜なるかなと思われる。→ ぶつだんやさんコラム
夕ぐれになって、めずらしく荒い霧を見た。花の形を崩しはせぬかと気をもんだ。
あるときは大海の怒涛がしぶいてきたようでもあったし、あるときは優しく風塵を立ててあそんでいるようでもあった。
人々は思い思いの牡丹の前に立ったりかがんだり、夢中に句を案じていた。
画学生ならスケッチブックをとり出して、一生懸命に観察し、克明に線描しているにちがいない。
私は私の心をスケッチブックとして写すのだと思ったのであった。
私も往々視覚を変える必要があった。唐門の扉を排して私をいったん寺外に抛り出した。
ということはつまり牡丹園にいて牡丹を見ることに倦怠をおぼえてきたから、こんどは寺の外側からおそるおそる牡丹園をのぞきこんでみたいと考えて唐門をぬけて出たのであった。
長い塀は牡丹園を隠している、開いた唐門がわずかに牡丹園の一部を見せる。
私は門の敷居へ一足ずつ移動して、牡丹の花の群落が一目にとびこんで数をふやしてくるのを知って、感興を湧かしたのだった。
(「かつらぎ」昭和27年9月号)
その後、1985年に幡龍庭が整備されたため、現在は牡丹の庭は残っていない。
阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して平成元年(1989)12月に森田峠に譲るまで主宰するなど、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。→ 高野山内の句碑
大阪市にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂、滋賀県にある浮御堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。