本覚山 久成寺は、大阪市中央区にある本門法華宗の寺院である。
山門横には、「高砂部屋」の板看板が掛けられている。
大相撲大阪場所が開かれる3月には、高砂部屋の宿所となっている。
山門前に「曽根崎心中 お初墓所(東面 平成二十一年八月吉日 三百七回忌に当り 佐々木 伸 建之)」の石柱が建てられている。
境内奥にある久成寺墓所の井戸横には、お初の墓があり、墓所入口扉に次のような案内紙が貼られている。
曽根崎心中お初の墓について
元禄16年(1703)未4月7日、内本町醤油屋の手代 徳兵衛(25才)と堂島新地蜆川天満屋の女郎 お初(21才)が露の天神曽根崎の森の棕櫚の樹の下で死んでいた。
金に詰まった徳兵衛は、4月6日の夜半お初とともに堂島新地を出て、梅田橋を渡って向こう川岸の曽根崎村を通り、堂島新地を眺めながら露の天神曽根崎の森についた。
そして4月7日までの暁け方までの相対死になったものと思われる。(摂陽奇観より)
折よく大阪に来ていた近松は、早速曽根崎心中の執筆にかかり1カ月後、命日の5月7日に興行の初日をあけた。→ 竹本座跡
「心中大鑑と外題年鑑」には4月23日が心中の日とあるが「4月7日が正しい」とされている。
梅田墓地の南手水鉢の辺りにあったと云う石塔の図を示して、元禄16年未4月7日の心中説を主張し、その法名を「妙力信女」とある。
又石塔南面の追悼歌に「おしやさて さかりの花に風そひて しでの山路へはやくちりゆく」とある。(いずれも摂陽奇観より)
近松は、お初の年齢を19才としているが21才が正しい。
「遊女誠草」にお初の墓は、生玉中寺町東側久成寺にあると書いてあり、既に大正時代に墓は不明になっていたようだと記されている。
(註)「この時代の墓石は、和泉石といって年月を経過すると風化する石質で、大正時代に法名も読みとれないまでにボロボロにくずれ不明になっていたものと思われる。」
また摂陽奇観には、平素お初に憧れ慕っていた同じ堂島新地の丸屋の遊女しげが、1年後に後追い心中(自殺)するまえに久成寺のお初の墓に参詣したとも記されている。
尚 徳兵衛の墓については何も書かれていないところをみると、在所に埋められたものであろうか。
久成寺では代々の口伝えとして、智将真田幸村が掘ったと俗に言われる大坂城真田の抜け穴の一つがあることと、天満屋の主人がお初の墓を建てて供養したこととが伝えられている。
平成14年(2002)が曽根崎心中お初の三百回忌に相当するので久成寺檀信徒有志が供養のため墓碑を再建した。
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